原文を読んでから見ると、まるで別人の作である。ソルジェニーツィンでも読んでいるようだ。
私の知っているかぎりだが、木村浩というひとは、基本的に一色(ひといろ)の訳文スタイルしかもっていなかったという気がする。句読の切り方や文章のリズムなど、決定的なところが、どうも、いつも同じである。
ちなみにこの作品、ペンギンの英語訳でも読んでみたが(「どうしてまたそんなことを」とたずねられても、「したかったから」としか答えようがない)、ただの英語になっていたので原作に比べて読みやすい反面がっかりした。ドストエフスキーの文章には、たとえば中川家の漫才で兄(剛さん)扮するタクシー運転手のやるような、気持ちの悪い“外し”がある(しかも芸ではなくて天然らしいところがどう出るか予測がつかないぶん余計始末が悪い)。それを再現しようとした跡がみられない。もっとまじめにやれー! そこまでやる・やろうとする翻訳者だっているんだぞー!
(新潮文庫版 1970年12月初版 1983年3月21刷ほか)
私の知っているかぎりだが、木村浩というひとは、基本的に一色(ひといろ)の訳文スタイルしかもっていなかったという気がする。句読の切り方や文章のリズムなど、決定的なところが、どうも、いつも同じである。
ちなみにこの作品、ペンギンの英語訳でも読んでみたが(「どうしてまたそんなことを」とたずねられても、「したかったから」としか答えようがない)、ただの英語になっていたので原作に比べて読みやすい反面がっかりした。ドストエフスキーの文章には、たとえば中川家の漫才で兄(剛さん)扮するタクシー運転手のやるような、気持ちの悪い“外し”がある(しかも芸ではなくて天然らしいところがどう出るか予測がつかないぶん余計始末が悪い)。それを再現しようとした跡がみられない。もっとまじめにやれー! そこまでやる・やろうとする翻訳者だっているんだぞー!
(新潮文庫版 1970年12月初版 1983年3月21刷ほか)