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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

ドストエフスキー著 木村浩訳 『白痴』 上下

2010年08月22日 | 文学
 原文を読んでから見ると、まるで別人の作である。ソルジェニーツィンでも読んでいるようだ。
 私の知っているかぎりだが、木村浩というひとは、基本的に一色(ひといろ)の訳文スタイルしかもっていなかったという気がする。句読の切り方や文章のリズムなど、決定的なところが、どうも、いつも同じである。
 ちなみにこの作品、ペンギンの英語訳でも読んでみたが(「どうしてまたそんなことを」とたずねられても、「したかったから」としか答えようがない)、ただの英語になっていたので原作に比べて読みやすい反面がっかりした。ドストエフスキーの文章には、たとえば中川家の漫才で兄(剛さん)扮するタクシー運転手のやるような、気持ちの悪い“外し”がある(しかも芸ではなくて天然らしいところがどう出るか予測がつかないぶん余計始末が悪い)。それを再現しようとした跡がみられない。もっとまじめにやれー! そこまでやる・やろうとする翻訳者だっているんだぞー!
 
(新潮文庫版 1970年12月初版 1983年3月21刷ほか)

Virgil 『THE AENEID』

2010年07月28日 | 文学
 ヴェルギリウス『アエネイス』の英訳。Translated into English prose with an introduction by W.F. Jackson Knight.
 タルい訳だな。初っ端から "This is a tale of arms and of a man." はないだろ。そもそも原文は韻文なのになんで散文で訳すのか。読む気も失せるわ。
 Project Gutenberg EBook の英訳のほうがよほどいい。

(Harmondsworth, Middlesex, England : Penguin Books, 1968, c1956)

司馬遼太郎 『花神』 全3巻

2010年07月21日 | 文学
 やるべきことをひたすらやり、やり了ったらさっさと退場するという生き方も、やはりいいものだ。 
 ところでNHK大河ドラマの『花神』(1977年)総集編のDVDを観ていたら、出てくる侍の髷のもみあげが異様に長いので驚いた。そういえば、記憶にある昭和五十年代の時代劇てのは誰も彼も男はもみあげが長くて耳にかかるくらい伸びていたなと思い出した(たとえば『必殺仕業人』や『新・必殺仕置人』の中村主水)。いまはあまり時代劇をみないのでわからないが、いまでもあんなに長いのだろうか。お前られっきとした主持ちなのにそんなむさ苦しい、無宿者みたいな風体でいいのかと言いたくなったが、しかし先だってみた『切腹』(1962年)でもそうだった(あれは井伊家の話)。

(新潮文庫 1976年8月発行 1982年10月第29刷)

清水茂注 『王安石』

2010年07月15日 | 文学
 「中国詩人選集第二集」第4巻。
 蘇軾がモーツアルトなら、王安石はベートーベンならん。
 さて、

 一民之生重天下  一民の生 天下に重し (「収塩」 本書29頁)

 大先生の解釈にケチを付けるつもりは毛頭無いが、これは「一民の生 天下よりも重し」ととれないだろうか。散文では比較の意味の場合、「重於天下」となるのが普通だが、字数の制約のある詩では虚詞(文法上の働きをするだけで単独では文成分にならない語)は、省略しても許されるはずである。
 それに、この句の直前にあるのは、近頃海賊のたぐいが往々にして商船を襲って乗り組んでいる無辜の商人を手にかけているというくだりである。

 爾来賊盗往往有  爾来 賊盗 往往有って
 劫殺賈客沈其艘  賈客を劫殺(きょうさつ)して其の艘(ふね)を沈む

 まあ確証のない話だから、「天下に重し」とも「天下よりも重し」ともしかとは決めかねるし、またどちらでもいいことではあるのだが。
 しかしながら、別の詩ながらこういう句を目にすると、気にはなる。

 児孫生長與世隔  児孫生まれ長じて世と隔(へだ)たり
 雖有父子無君臣  父子有りと雖も君臣無し (「桃源行」 本書44頁)

 親はあっても主はいない、これが桃源郷というものだと王はいう。
 千年前、中国史上皇帝独裁制がついに確立した北宋のめでたき御代にこう詠んだ王安石という人物は、ある種突き抜けたところがあったらしい。

 三代子百姓  三代は百姓(ひゃくせい)を子のごとくし
 公私無異財  公私に異財なし (「兼併」 本書23頁)

 彼の公私観はどのようなものであったであろうか。私はひどく興味を持つ。それは案外、孟子や黄宗羲のそれに近いものだったかもしれない。

附記。
 ちなみに言うが、「百姓を子のごとくし」ではなく「百姓を子(いつく)しみ」のほうがよくはないか。「慈」の通用である。この句が踏まえた『礼記』の中庸編(つまり現在の『中庸』)の当該箇所の鄭玄注に、「子は、猶お愛するがごとし」とあるというであれば、尚更だ。もっとも手元にある宇野哲人注の『中庸』(講談社学術文庫版)でも「子とする」となっていて、わが国では『中庸』は聖賢の書とて古来訓みが固定しているのかもしれないが。
 そんなことには頓着せずに、私ならこうよむ。

 三代子百姓  三代 百姓(ひゃくせい)を子(いつく)しみ
 公私無異財  公私 財を異(わ)かつことなし 
 
(岩波書店 1962年5月第1刷 1979年2月第7刷)

高橋和巳注 『王士』

2010年07月14日 | 文学
 「中国詩人選集第二集」第13巻。
 端正で、それでいてあでやかさをも備え、ユーモアもまたあり、作者個人の感受性の敏感さも十分にうかがえるといった、まさに秀才による秀作。まことにそつのない作風でございます。
 
(岩波書店 1962年9月第1刷 1973年10月第7刷)

入矢義高注 『袁宏道』

2010年07月13日 | 文学
 「中国詩人選集第二集」第11巻。
 作品は、李贄に心酔したという実際の人柄ほどにははじけていない。詩想はおもいのほか定石通りだし、表現もまだ世間の目を慮って自制が効いている。李贄が読んだら苦笑して頭(こうべ)を振ったかと思われる。
 
(岩波書店 1963年7月第1刷 1973年10月第9刷)

福本雅一注 『呉偉業』

2010年07月13日 | 文学
 「中国詩人選集第二集」第12巻。
 明の遺臣としての節を捨てて清に仕えたことによる精神の屈折が詩に陰翳をもたらしているかとおもいきや、つんつるてんの小学唱歌のような作品ばかり。
 もともと本人には節義といえるほどの骨はなく、成り行きで周囲から遺臣としてまつりあげられてしまっただけで、だから結局は清に仕えることになったのであろう。
 とにかくつまらぬ詩ばかりである。

(岩波書店 1962年6月第1刷 1973年10月第5刷)

ミハイル・バフチン著 望月哲男/鈴木淳一訳 『ドストエフスキーの詩学』

2010年07月06日 | 文学
 バフチンの文学理論の正統的な紹介はこちらにあるが、これを私個人流に(さらにはすこし自分の興味の方向に牽きつけもしながら)言い換えれば、「テキストはまずそのテキストの持つ情報量だけで読み解け」ということだと理解した。たとえば外国語の読解でこれが出来ないのは、その者の語学力の不足の証明にほかならない。「よくわからんがコンテクストからして多分こんな意味だろう」というのは、いわゆる判じ読みであって、これはプロの翻訳家なら「お代は要りません」と言わねばならないくらい恥ずかしいことである。

(筑摩書房 ちくま学芸文庫 1995年3月)