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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

田尻雅士著 金山亮太/藤井香子編 『中世英国ロマンスへのいざない 田尻雅士遺稿集』

2011年06月04日 | 文学
 著者とは大学のESSで一緒だった。葬式にも出た。田尻氏は英語科、私はロシア語科で、ESSがなければ互いに知り合うこともなかったと思う。彼は、私がこれまでの生涯で見た天才の一人である。彼は努力する天才であった。そして天才にも関わらず人格は円満でバランス感覚にすぐれ、そのうえユーモアにも溢れた、洒脱な天才でもあった。もし来世があるならいま一度会ってみたい人間の一人である。彼処で氏から中世英語と花も実もある中世英文学とを学びたい。向こうは迷惑かもしれないが(笑)。

(英宝社 2008年6月)

高木正一 『唐詩選』 全4巻

2011年05月08日 | 文学
 吉川幸次郎監修『中国古典選』の一。
 NHKビデオ『漢詩紀行』の「白楽天 香炉峰の雪は簾をかかげてみる」の巻を観ていて、白楽天(居易)の詩のよさにあらためて感じ入った。しきりに彼の詩が読みたくなるも、家に彼の詩集なく、やむなく半ば諦めながら『唐詩選』を披く。やはり載っていなかった。
 『唐詩選』はいわゆる「文は秦漢、詩は盛唐」の李攀竜(1514年 - 1570年)が編纂したといわれるアンソロジー全465首である。ただし初唐・中唐・晩唐の詩もまったく無視というわけではなくそれなりに収録されている(中唐詩83首、晩唐詩20首、ちなみに初唐詩は85首、あと年代不詳の詩9首)。
 「詩は盛唐(詩の天宝より下、倶に観るに足るものなし)」と言っておいて中・晩唐詩を収録するのもおかしな話であるけれど、それはまあいいとして、それよりも収録するなら収録するで、白居易(中唐)の作品を一首も採らないというのは、どういうわけだろう。同じく中唐の韓愈が一首のみというのも問題ありだが、それより韓愈を入れて白居易を落とすというのはいかなる見識に基づくものか、選択の基準がわからない。一瞥にも値しないといいながらいざとなったら採り上げるところも併せて、どうも主張の足場がいまひとつ堅固でない印象を受ける。

(朝日新聞社 1978年2月-3月)

上里賢一編 『校訂本 中山詩文集』

2011年05月07日 | 文学
 1725年に刊行された琉球最初の漢詩文集。程順則編。編者の作品が大半を占め、その他、久米村出身の学者、詩人の文章と詩を収録。薩摩侵入(1609年)後、薩摩より訓読法が伝えられたことにより、琉球漢詩は一大隆盛期を迎える。(琉球新報「沖縄コンパクト事典」 から)

 編者の作が全体のうちで多くの部分を占めることもそうだが、いかにも南国ぽい、おおらかな歌いぶりが、『万葉集』(8世紀後半)を連想させる。漢詩としては『懐風藻』(751年)と比べて、その場合どういう違いがあるのか、考えてみるのが楽しみだ。成立年代が隔たりすぎているからただの座興、お遊びだけれど。学問的には五山文学あたりと比較すべきなのだろう。

(九州大学出版会 1998年4月)

琉球新報社編 上里賢一選・訳 茅原南龍書 『琉球漢詩の旅』

2011年05月07日 | 文学
 先日訪れた那覇の本屋で、沖縄人の手になる漢詩集をめくっていたとき、ある詩に、「涙(なだ)そうそう」と訓ずる句を、たしかに見た。“そうそう”に当たる漢字は思い出せない。それらしい句をこの書――また別のさらに大きなアンソロジー――で探してみたが、なかった。琉球漢詩に魅せられての幻視だったのかもしれない。専門の書家による一首一首墨痕鮮やかな筆跡と、沖縄の土地土地の風物の写真とをふんだんに使った、装填も美しいこの画本は、その魅力を弥や増している。

(琉球新報社 2001年3月)

開高健著 高橋昇写真 『モンゴル大紀行』

2011年02月24日 | 文学
 高橋氏の写真がふんだんで、とても綺麗。というか、ほとんど写真集の体。前に司馬遼太郎氏と著者の対談、後に司馬氏の文章と鯉渕信一氏の解説とが付されている。
 ページを繰って風景を眺めているうちに、モンゴルへ行きたくなった。実は、仕事の関係上あの国へは一度行っておいたほうがいいのである。そのほかにも、できれば早いうちに訪っておくべき(再訪を含めて)外国がいくつかある。

(朝日新聞社 2008年10月)

張競 『海を越える日本文学』

2011年02月24日 | 文学
 時代的な文体の変遷は注意しても、方言に関しては「作品の味がまったくなくなって」も「お手上げ」だから標準語でOKとは、諦めが早過ぎやしませんか。たとえば日本語―中国語翻訳の場合、方言を方言で翻訳するという手があるじゃないか。海音寺潮五郎氏はたしかその中国物の小説のなかで、上海あたりの言葉を大阪弁で記したことがあった。私は山東省を舞台にした尤鳳偉氏の小説を翻訳したとき、山東人の喋りを長州弁にしてみた(「生命通道(邦訳名・生命通路)」)。これらの対応の適否は別として、方言を方言で翻訳すること自体に関しては、その逆も含めて可ではなかろうか。

(筑摩書房 2010年12月)

武田百合子 『富士日記』 上中下

2011年01月27日 | 文学
 べつに竹内好つながりで手を伸ばしたわけではない。図書館で順番待ちをしていて、たまたま時期が重なっただけである。夫の武田泰淳への興味に引かれて読もうと思ったのだが、スタイルとそれを成り立たせる感受性において夫君より上ではないかと思った。『司馬遷』は司馬遷や『史記』の理解には何の役にもたたない勝手な想像と個人的な感想の舞文だし、『ひかりごけ』にいたっては、『司馬遷』とおなじ理由で、当時存命していたモデルに多大の迷惑を及ぼした。武田泰淳は竹内好の虚名に牽かれて過大評価されていないか?
 扉の著者近影を見て、加賀まり子さんに演じてもらうというのはどうかなと思った。

(中央公論新社 1981年2月初版 1997年4月改版 2007年11月改版11刷ほか)

平川祐弘 『袁枚 「日曜日の世紀」の一詩人』

2010年12月19日 | 文学
 2010年07月01日「小川環樹注 『蘇軾』 上下」より続き。
 平川氏が袁枚、とくにその詩について専門に論じておられることを初めて知った。早速取り寄せて読む。彼の詩のアンソロジーである。その詩のそれぞれに、アーサー・ウェイリーの英訳(彼にも袁枚に関する専著がある、そこからの引用)と、平川氏の手になる現代日本語訳が附けられている。
 袁枚の詩は前にも知らぬ事はなかったが、今回あらためて蘇軾の人と詩との違いを念頭におきつつ一読してみてわかったのは、蘇軾は性格と理性においては大人であるが気質と感受性においては多分に子供の部分を残しているのに対して、袁枚は、性格も気質も大人であるということだった。

  君よ楼の高きを笑ふなかれ 
  楼の高きは我にもまた好し
  君の来るは十里外より
  我すでに見ること了了たり

  Don't laugh at my tower being so high;
  Think what pleasure I shall gain from its  being so high!
  I shall not have to wait till you arrive;
  I shall see you clearly ten leagues away!

  僕の塔がそんなに高いからといって笑わないでくれ給え、
  こんなに高いとどれくらい愉快なものか君も考えてくれ給え。
  まず君が家に着くまで僕は待たずとも済む、
  なにしろ君の姿が十里も先からはっきり見てとれるから。


 (本書21-23頁)
 
 前半は「私は高いところに上るのがすきだ」と、これは蘇軾でも同じことを言うだろう。というか蘇軾の言いそうなことである。だが後半になると、「なぜなら遠いところまで見えて便利だから」となぜ自分がそれを好きかの理由の説明(というか弁明)になる。「ほらたとえば君がやってきてもすぐにわかるじゃないか」などと、もっともらしいことを述べるが、頭で考えたリクツであることにかわりはない。リクツを捏ねるところがオトナである。これが蘇軾ならそんなことはせずに「いかに自分が高いところを好きであるか」を、もっぱら描いただろう。「高いところに上るのがどれだけすばらしいか(=どれだけ気持ちがいいか)」というメッセージを、手を替え品を替え、軽やかに縷々くり広げたに違いない。よしんばこれが王安石であったしてもそうするであろうところである(ただしこちらは克明深刻に)。いずれ説明などしないのである。蘇軾がモーツァルトなら袁枚はサリエリといったところか。水準以上の詩人だとは思うが、個人の趣味としてはほかの誰かでも詠めそうな詩に思えて、面白くない。
   
(沖積舎 2004年7月)

吉川英治 『新・平家物語』 全8巻

2010年09月18日 | 文学
 吉川英治という人は文章はうまい。というか平易で、こなれていて、とてもよみやすい。しかし肝心の内容が面白くない。月並みなのである。世故に長けたおっさんの虚実とりまぜた教訓話を聞かされているようだ。一言でいって、退屈である。『三国志』しかり『宮本武蔵』しかり『鳴門秘帖』しかり(『私本太平記』と『新書太閤記』は、まだ最後まで読み通したことがないから判断を保留する)。文体の間尺が対象の図体に合っていない。鶏刀を以て牛を割かんとする感がなきにしもあらず。海音寺潮五郎と司馬遼太郎を経た後の世代の者には、歌舞伎の『勧進帳』の名場面を物語の山場としてもってこられても、待ってましたと手を拍って喜ぶよりも嘘くささが先に立って興醒めしてしまう。

 これも母の遺品の一つ。いまにして思うが、文学好きで、というか芸術好きで、本が好きなひとだった。私は、この人の形見分けにもらったものといえば、文学書と文学全集と、画と画集ばかりである。
 母が京都の某私立大学の文学部卒なのは知っていた。しかし何学科かは、どういうわけか死ぬまで、訊いても答えなかった。あとにのこされた学生時代の教科書類を見て、おそらくは英文科だろうと推察した。
 以前、父が言っていたが、母は単位がたりなくて3月に卒業できず、半年経った9月に追試を受けてやっと証書をもらえたという。子供に頑なに言おうとしなかった理由は案外こんなところにあったのかもしれない。
 子供の私から見ても、英語はまったくだめだった。私が外国語大学に進み語学を専門にしたこともあって(ロシア語、第二外国語が英語だった)、恥に思ったのだろう。真面目で、物事の筋道をあくまで立て、世間の常識をなにより尊び、子供にもそれを厳しく求め、しかし同時に、我が子と本気で張り合うというところもある、偏怙で欠点も多い、おかしな人だった。

(朝日新聞社 1959年4月ほか)