2010年07月01日「
小川環樹注 『蘇軾』 上下」より続き。
平川氏が袁枚、とくにその詩について専門に論じておられることを初めて知った。早速取り寄せて読む。彼の詩のアンソロジーである。その詩のそれぞれに、アーサー・ウェイリーの英訳(彼にも袁枚に関する専著がある、そこからの引用)と、平川氏の手になる現代日本語訳が附けられている。
袁枚の詩は前にも知らぬ事はなかったが、今回あらためて蘇軾の人と詩との違いを念頭におきつつ一読してみてわかったのは、蘇軾は性格と理性においては大人であるが気質と感受性においては多分に子供の部分を残しているのに対して、袁枚は、性格も気質も大人であるということだった。
君よ楼の高きを笑ふなかれ
楼の高きは我にもまた好し
君の来るは十里外より
我すでに見ること了了たり
Don't laugh at my tower being so high;
Think what pleasure I shall gain from its being so high!
I shall not have to wait till you arrive;
I shall see you clearly ten leagues away!
僕の塔がそんなに高いからといって笑わないでくれ給え、
こんなに高いとどれくらい愉快なものか君も考えてくれ給え。
まず君が家に着くまで僕は待たずとも済む、
なにしろ君の姿が十里も先からはっきり見てとれるから。
(本書21-23頁)
前半は「私は高いところに上るのがすきだ」と、これは蘇軾でも同じことを言うだろう。というか蘇軾の言いそうなことである。だが後半になると、「なぜなら遠いところまで見えて便利だから」となぜ自分がそれを好きかの理由の説明(というか弁明)になる。「ほらたとえば君がやってきてもすぐにわかるじゃないか」などと、もっともらしいことを述べるが、頭で考えたリクツであることにかわりはない。リクツを捏ねるところがオトナである。これが蘇軾ならそんなことはせずに「いかに自分が高いところを好きであるか」を、もっぱら描いただろう。「高いところに上るのがどれだけすばらしいか(=どれだけ気持ちがいいか)」というメッセージを、手を替え品を替え、軽やかに縷々くり広げたに違いない。よしんばこれが
王安石であったしてもそうするであろうところである(ただしこちらは克明深刻に)。いずれ説明などしないのである。蘇軾がモーツァルトなら袁枚はサリエリといったところか。水準以上の詩人だとは思うが、個人の趣味としてはほかの誰かでも詠めそうな詩に思えて、面白くない。
(沖積舎 2004年7月)