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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

YouTube 「酔拳3(醉拳Ⅲ) 」

2010年10月10日 | 映画
 〈http://www.youtube.com/watch?v=jhj9LLuJT9E&feature=related

 映画のコマーシャル。ナレーション、聞くからに中身がなくて意気がっているだけのようなアンチャンが、「清朝末期」を「せいちょうまつき」と読んでいる。じゃあそのまえの明は「めい」か。無知なドチンピラが、このCMの阿呆制作スタッフともどもくたばれ。おまえら「白蓮教」の読みかたも分からんかっただろ? 

YouTube 「酔拳2 ジャッキーチェン vs ムエタイ 」

2010年10月07日 | 映画
 〈http://www.youtube.com/watch?v=C_LYrkR80VA

 これ何語の吹き替えだろう。ドイツ語かな? ジャッキーの声がちょっとオッサンくさいけど、英語版(というより米語版?)に比べれば全体として違和感は少ない。英米語版は効果音からBGMから全然違う。最高の敵役ロー・ワイコンの繰り出す蹴りの音が風を切る鞭のようで鋭いのはいいが軽くてぜんぜんこわくない。それよりもっと許せないのは、酔拳といえば「将軍令」なのに、それをまったく別の音楽に差し替えてしまっていることだ。アホか。
 ・・・・・・ファンのあいだでは有名な話だが、本当の『酔拳2』のラストは、ジャッキーは工業用アルコールを飲んで闘ったために、勝ったはいいが失明したうえ発狂して廃人になってしまうというものだった。この映画では、酔拳は、酒を飲むのは、飲めば飲むほど拳威が増して強くなるからではなく、痛覚が鈍麻して打たれ強くなるからだという現実的な解釈がなされている。酔いが度を超すと命に関わるような大けがを負っても自分ではわからないかもしれない。ジャッキー扮する黄飛鴻の父親が彼に酔拳を使うのを禁じたのは、まさにその危険性のゆえだった。それは映画のなかで明言されている。「水能載舟、亦能覆舟」という、ジャッキーが映画中持ち歩く扇子に墨痕鮮やかに書かれたあの文句は、まさにそのことを指した戒めの言葉なのである。端的に言えば酒に飲まれるなということである。
 しかし結果としてジャッキー=黄飛鴻は、父親の戒めを破った。酷いやけどの痛みを麻痺させるために仕方がなかったといえば仕方はなかったのだが、失明と発狂はその代価である。罰といってもいい。強敵に勝つことはできたものの、舟はついに覆ってしまい、復たもとにはもどらなかった。
 だから筋としては、ブラックすぎるとしていまでは見ることの困難な本当のエンディングのほうが、首尾一貫していると思う。『酔拳2』は、後半部になってからのアクションの異様なキツさもそうだが(一対一でなく同時に複数の敵に攻撃される、闘う相手に戦士としての礼儀もへったくれもない)、本来は相当シリアスな内容をはらんだ映画である。最後のロー・ワイコンとの闘いがコメディ・タッチなのは、ジャッキーのほうがもうイカレてしまっているからである。それに尽きる。ロー・ワイコンは終始まったく真面目である。

ウール・グロスバード監督 『告白(True Confessions)』(1981年)

2010年09月23日 | 映画
 ロードショーで見て以来。ロバート・デ・ニーロ(カトリック司祭の弟)とロバート・デュバル(刑事の兄)のガチンコ演技勝負。劇中派手なアクションもなく、殺人事件が絡むがそれはあくまで背景でサスペンス仕立てでもない。淡々として話が進行する、ほとんど対話ドラマである。
 結果は6分4分でデュバルの勝ち。年齢差もあるし、いまでもそうだが、貫禄で言えばデュバルのほうが上だと思う。

(ジェネオン エンタテインメント 2004年1月)

東千代之介を愛する会編 『東千代之介 東映チャンバラ黄金時代』

2010年09月10日 | 映画
 テレビで東野英治郎さんの黄門様を毎週観るようになるまで、助さん佐々木助三郎といえば、この人のことだと思っていた。もちろん黄門様は月形龍之介さんで、それに大久保彦左衛門もだね、じゃあ一心太助は中村(萬屋)錦之助さんか、と話がどんどん流れていってしまうから、やめる。

(ワイズ出版 1998年3月第1刷 2000年4月第2刷)

ロジャー・ドナルドソン監督 『13デイズ』(2000年)

2010年08月22日 | 映画
  エロール・モリス監督『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白』(ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2005年2月)を見て、あらためて見直す気になった。マクナマラという人は、非常に興味深い。当人が複雑な個性の持ち主なのか、それとも無意識に、あるいは故意に、その人となりが歪められて伝えられてきたのか。
 David Halberstam の『The Best and the Brightest(ベスト・アンド・ブライテスト)』で、数値データと明晰な言葉で説明できないものを認めない、まともな感情も想像力もない機械のような男として描かれたこの人物は、その自伝や、ベトナム戦争が終わってはるかあとの1995年にあらためてベトナムへと足を運び当時のベトナム側の責任者たちと徹底的な事実の分析を行って双方の誤解と失策を探究した記録『果てしなき論争』(仲晃訳、共同通信社 2003年5月)を見ると、確かにエリートであるにはせよ、血のかよった人間である。
 この『13デイズ』という映画は、docudrama と分類されるせよ、あくまでドラマであるから、フィクションがまじっていて、史実と異なる部分がある。しかしそれは承知のうえである。それより、映画としてとても見応えがあることのほうが重要だ。これで何回目かになるのだが、見飽きなくて、毎回あらたな発見がある。

(日本ヘラルド映画 2001年8月)

北村龍平監督 『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)

2010年08月15日 | 映画
 ヘドラを40年振りに見ようと思ったら、ほとんど秒殺ではないか、こらあ。
 それにしても北村一輝という役者さんは、イってるなー。『バットマン』(1989年)のジョーカー(ジャック・ニコルソンの方だぜ、念のため)みたいな狂いっぷりである。この人の横山やすしもある意味相当イってたが。

(東宝 2005年7月)

滝田洋二郎監督 『陰陽師』(2001年)

2010年08月15日 | 映画
 というわけで話題作を今頃観ているのであります。
 野村萬斎さんの安倍晴明、確かにはまり役だね。まず岡野玲子さん原作の晴明に顔かたちが似ている。顔かたちだけでなく、挙措がぴったり。今風でなく純和風であるところが。狂言で鍛えた立ち居で衣装を着こなしていて、衣装に着られていない(これは敵役の道尊演じる真田広之さんにも言えること)。このようにたたずまいの決まった二人を前にしては、岸部一徳さんの帝をのぞくほかの殿上人が、1976年度のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』に出てきた大中臣康継みたく、貧弱でいじましいねずみ男に見えてしまうのである。
 というわけで伊藤英明さん演ずるところの源博雅だが、これは原作ではもともと加藤剛さんがモデルではなかったか? 違う?

(東宝 2002年5月)

ロブ・ミンコフ監督 『ドラゴン・キングダム』(2008年)

2010年07月28日 | 映画
 ジェット・リーとの格闘場面で、吹っ飛ばされたジャッキー・チェンがもんどり打って起きあがるや決める酔拳の構えを看て、大げさでなく、涙が出るくらいに感激した。なにしろ、『酔拳2』(1994年)でも14年、『酔拳(ドランクモンキー) 』(日本公開1979年)からでは、なんと30年振りの酔八仙だったのだから。
 『ロッキー』シリーズのシルヴェスター・スタローンと同じく、ジャッキー・チェンは日本語吹き替えで観る。石丸博也さーん! 兜甲児以来のファンですーッ!

小林正樹監督 『切腹』

2010年07月19日 | 映画
 仲代達矢・三國連太郎・丹波哲郎の共演にヒロインは岩下志麻という豪華さ。それだけでなく、作品の全編をつうじて解けない緊張感(すなわち映画としての完成度)がすごい。
 これを観たあとで黒澤明監督の『赤ひげ』(1965年)を観たら、だらけているとはいわないが、画面のぬるさにびっくりした。はじめのほうの加山雄三さんの演技のぎこちなさはなんであろう。これでよく本番OKを出したなと驚くほど。

(松竹 1962年)

『芙蓉鎮』(1986年)

2010年05月24日 | 映画
 謝晋監督。
 このところこの映画のDVDをずっと観ている。深刻で、観るのがつらい。これまで何度も挑戦したのだが、最後まで見通すことができなかった。このたびは、毎日少しづつ観ることにしていて、我慢できなくなったら、本日はここまで、とする。
 まだ最後まで終わらない。このつらさは尋常ではない。内容の深刻さでは、個人的には例えば『鬼子来了』(2000年)のほうがきついと思う。しかしここまで難渋することはなかった。ところが『芙蓉鎮』は、作品には引きこまれるのに、観つづけるのは青息吐息である。いったいどうしてであろうか。わからない。
 それはさておくとして、これは同じく湖南省を舞台にした『山の郵便配達(那山、那人、那狗)』(1999年)でも感じたことだが、この映画は湖南省南部が舞台なのに、登場人物たちはどうしてみな綺麗な北京語(湖南訛がぜんぜんない)をしゃべるのであるか。
 湖南語にしたらほかの地方の中国人が全然わからないから、宣伝媒体として、また興行的な側面を考えて、映画の台詞に使わないという理由はあろう。
 しかし北方訛の普通語を誰も彼もがしゃべっていては、作品としてリアリティがないと思うのだが如何か。とくに地元の湖南人が観たらである。『細雪』を全編標準語で映画化したらどうなるかといえばわかりやすいかもしれない。たとえそこまで行かなくても、たとえば京都を舞台にした映画で、出てくる地元の京都人が共通語(関東弁)を使ったら。それだけでその映画は終わりであろう。
 いったいどういうわけだろう。中国映画では方言や地方訛の普通語をなるべく使うなという規則でもあるのだろうか。しかし賈樟柯監督の『長江哀歌(三峽好人)』(2006年)では、主人公は山西省から重慶にやって来た男で、終始山西訛の普通語(かあるいは山西の方言?)をしゃべっていたし、劇中、地元の四川人に「何を言っているのかわからん」と言われる場面もある。わからない。