本物のフレンチシェフならそれがたとえ卵をご飯にぶっかけたものでもフランス料理になる
上村信蔵のこの言葉は、やはり名言である。
この言葉に出合うたびに思うのだが、これは、私の仕事である翻訳にも通じる金言ではあるまいか。
料理人も、翻訳者も、技術者である。職人である。この点で共通する職業だ。
この名言を吐く直前、上村は、言う。
ちょっとした才能があれば本物のフランス料理は作れる/だが本物のフレンチシェフになるために必要なのは才能じゃない/気の遠くなるような歳月をかけて古典的レシピを繰り返し作ることなんだ
さらにその前には、器用すぎる(つまり才能のありすぎる)シェフは、ともすれば古典的な味に安住しないで自分独自の味をもとめるようになる、そしてそのうち壁にぶつかって自滅するという言葉がある。
これを翻訳者流に引き寄せて解釈すれば、外国語をあやつったり、それを日本語に訳したり、あるいは日本語をその外国語に訳したりすることは、語学の才能があればさして困難なわざではない、しかし精密な文法と当該外国語翻訳の歴史についての知識、さらには先人達が積みかさねてきた翻訳上のテクニックや共通の了解事(陳腐なものも含めて)についての会得もしくは少なくともそれについての了解、それらを踏まえることなしに、己の直観と限られた知見経験のみに頼っていては、やがては限界が来るということであろう。ひとことでいえば、ひとりよがりの行く道はいずれ行き止まりになるということである。伝統と定石に囚われていてはその奴隷であるにすぎないが、それらをおのが手駒として使いこなし相手をこそおのれの奴隷とすることなしには自分の個性も見いだせないし真の自由も手に入れることはできないということであろう。
(講談社 2003年9月)