塾をラーメン屋にたとえて叱られる?

2009-03-21 11:01:01 | 塾あれこれ
昔、宇品の電停「海岸通」のところに中村という
ラーメン屋さんがありました。
(宇品は広島の港)

たしか初老のご主人が一人でやっておられた。
このラーメン(醤油トンコツ)は美味かったですね。
いかにも広島のラーメンでした。

今なら地元のTV局で紹介され
「家庭で作る広島、中村のラーメン」なんて商品もでき
ネットで売られる、そんな店になったかもしれません。
あるいはガンコに取材拒否を続けるか。。

いずれにしろ有名になったことでしょう。


全国一なのか広島一なのか、それは分りません。
そんなことは作るほうも食べる方も気にしないで
ただ一杯50円のラーメンを喜んでいました。

こんな店が地元にあると良いですね。

あまりに当然のことですが、一代で店は終了。
仕事とは、かくあるべきです。


円天市場(仮称)というネットがあるとしましょう。
今、上記ラーメンの中村があれば商品取扱申込が
くるかもしれません。
料金はこれだけ上げられる、とか、質はこれだけ
下げられるとか指南してお金儲けをさせてくれます。

でもこの「市場」で扱ってもらうとナゼか商品に
感動がなくなってしまうのです。。。


個人で小さな塾を開いている人に向かって「小さくて
はいけない」と言う塾経営コンサルタントがいます。

「あなたの仕事は自己満足にすぎない。
本当に良い仕事をしているのならば、それをあなたの
塾へ来ていない全国の生徒にも広げるべきだ。

現在、自分の目の前にいる生徒にだけサービスをして
隣りに苦しんでいる子がいてもシランプリですか?」

まあ、こんな風に仰るのです。

「井の中の蛙」への批判も込められているはずです。

本当に教育を考えるならば、自分の考える教育を世に
問えということです。

カップヌードルを作る日清を思い浮かべてしまいます。
それもすごいことですけどね。

でもラーメンはそれだけではありません。
オヤジ一人のラーメン屋もアリじゃないですか。

このコンサルタントは上記中村のラーメンにネット販売
を勧めるに違いありません。
全国があなたのラーメンを待っている!ってね。

ある意味、余計なお世話です。

全国には別の美味いラーメンがたくさんあります。

仕事というのは日本一を決めることではないのです。
必ず世に問わねばならぬ、ものではありません。


こんな不況でも「成功」している塾があるそうです。
経営者としての力量がおありなのでしょう。
経営的に失敗すれば何もできなくなりますから
成功は必須の条件であるとY塾を見て思いますよね。

成功のご褒美として経営者は高収入でしょう。
私が聞いた話でも超高級外車にお乗りの方がいるとか。
ベンツなんて程度ではなく、私など名前しか知らない
見たことがないような車だそうで。

自分で稼いだのですから文句をつけるスジではありま
せん。

ボスがリッチ→仕事が成功→良い塾
この連想を象徴させるための高級外車なのでしょう。

良い塾からリッチな経営者がでる事はアリでしょう。
けれども反対にリッチボスだから良い塾という保証は
ありません。

素朴な感情としてミニ塾のオッサンの私としては
教育と高級外車は似合わないと思うのです。

「成功した塾」では生徒が全て大丈夫だったか?
一人でも、うまく行かなかった子がいたとすれば
それでも外車の乗り心地はよいのでしょうか?


ラーメンというモノですら、店を多く展開すると
同じサービスを維持できません。

まして教育。

TVでCMを流し、生徒を集めて同じサービスが
提供できるのでしょうか。

カップラーメンの世界ですね。

先のコンサルタントが「世に問え」と仰るのは
こういう世界へのいざないでしょう。

しかし。

ことは、教育なのですから・・・・


写真は尾道の猫

足るを知っていますねえ・・

仕事か金か

2009-03-20 12:31:57 | 塾あれこれ
△△のラーメンは美味い、と評判になると多くは
支店ができ、また増加してゆきます。
その支店がすべて全く同じ味でしょうか?

味と言うものはたとえ親子で秘伝を申し送り
遵守しても微妙に変わるものです。
人が変われば味は変わるはずです。

とはいえ多くの人には分からないかもしれません。
でも、分らなければ良いのでしょうか。
それ、お金儲けの論理じゃありません?
少なくとも味を追求する道ではありませんね。

店舗を増やす内にいつのまにか「不味くはない店」に
なりはてることも多いようです。
経済優先ですね。

支店が多い所だから安心、なんてズボラな客もいる
でしょう。
でも客が来ればOK?

初志はどこへ行ったのでしょうか。
自分にしか出来ない仕事をキープすることこそが
大切だと思うのですが。

一店舗で頑張るのは多くの客に食べていただけない
ではないか、という考え方もあります。
でも美味いラーメン店は他にも出来てくるのです。

趣味で行かねばならぬ人は別として、普通の人間は
全ての見知らぬ名店に行く必要はありません。
一店舗は客に不親切といわれても、行く必要がない
のならその非難は当たりませんね。


塾も同じ構図と言えそうです。

先だっても書きましたが要は「人」

シラバスだの教員研修だのは一定の質を保証するに
すぎません。
優れた人物がいなければ良い教育はできないのです。

立派な塾長が率いても支店がすべて塾長の高いレベル
を実現できるでしょうか?
くりかえします、要は人。現場。

チェーン店の塾はおおむね一定の水準を超えられない
というのが実情でしょう。

もちろん小規模がよい、という保証もありません。
人気のあるチェーンの支店の方が小規模塾よりも
水準が高い場合も数多くありそうです。

個人の小さな塾など、生徒に逃げられたら困ると
甘く甘くなってしまいがちです。
それはもちろん生徒のためにはなりません。
ただ自分の収入を確保するだけのために仕事のハート
を捨てているのです。

支店が多い塾の方が一定の安心感はあります。
ただし、システムにより上記の(甘い甘い支店)が
沢山できている有名チェーンもありますね。

可能性としては、良い仕事をする塾はラーメン屋と
同じく、一人が責任をもち、スタッフも数人まで
地域密着の一店舗・・このなかから良心的な塾が
生まれると思います。

寿司屋だって、○○のオヤジが握るから美味い!

こういう塾のありかたに対して反対の意見をもつ
塾経営コンサルタントがおられます。

その話は、明日。

50文使って10文を探す

2009-03-19 14:49:44 | 塾あれこれ
島田紳介の『開運なんでも鑑定団』で
橋本関雪の絵の鑑定依頼が放送されました。
めでたく本物。

絵の題材である故事を鑑定士が紹介され
それをウロオボエながら以下に書いてみます。

川に10文のお金を落とした人がおりそれを探すのに
50文で照明用のマキを買ったというのです。
現代の私達では行わない損な行為で故事となるくらい
ですから昔の人も普通ではないと思ったのでしょう。

さて、故事の教えるところは
落とした人にとっては40文の損であるが、その時に
探さないと10文は社会から消える恐れがあります。
マキ代の50文はそれを売った人に残るから社会全体
からみると損ではなく落とした人が社会に購った形に
なる、というのです。
個より公を優先させた立派な行為で決して愚ではない
という教えです。

ケインズが聞いたらさぞ喜びそうな、現代でも通じる
寓話ですね。

自分の金儲けしか考えないAIGの連中に関雪の絵を
進呈したいものです。


とはいえ現在の経済学からするとちょっと物足りない
話になります。
それはエコの側面。

金さえ落とさなかったらマキの浪費が防げたのです。

そう。現在の教訓は「落とすな」

でもこういう経済はマキを燃やす経済よりも縮小型。

小さくなった分、商品の単価を上げれば経済の規模は
維持できますが、常にインフレの危険があります。
また、社会に格差を生みやすい経済でもあります。

縮小して均衡をとらないといけないのです。
エコロジーからの要請が警報のベルを鳴らしているの
です。

例えば、ナショナルジオグラフィックといういかにも
アメリカ型文化雑誌ですら、ずっと警鐘を鳴らして
いますよね。

それに社会情勢も競争=格差の軋みが無視できない
ところにきています。

経済縮小はダイエト以上に難しいと思います。
従って徐々に進めねばならず、その分緊急な課題に
なっているのです。


10文を落とさない社会。
無駄なマキを燃やさないで済む社会。
インフレのない社会。

これらを子供にも上手に伝えたいものです。

特にインフレは弱者の財産を強者が吸い上げること
を若者に教えないといけませんね。


競争か平等か
格差是正か自己責任か
近代から数百年の課題ですから私の手に余ることです。

でもこれらについても個人としての考え方をしっかりと
しておかねばなりません。
そうしないと、自分の考えを生徒に押し付けることに
なるからです。
無意識が罪を作ります。

自覚的であれば他者に正当な距離を保てるのですから。

童謡と唱歌

2009-03-18 14:58:44 | SONGS
昨日♪梅の小枝で、を童謡と書きましたが
唱歌でした。
昭和16年、林柳波作詞『うぐいす』

鶯は本来は「うぐひす」です。
昭和16年だから題名も旧仮名で「うぐひす」かなあ
と思うのですが、よく分りません。

万葉の昔から
『うぐひすの待ちかてにせし梅の花・・』と
詠まれています。
昔から梅にうぐひす、ですから知らない筈はない!

何か事情があって(うぐいす)としたのでしょうね。


さて、童謡と唱歌ですが、しばしば引用させて頂く
高島俊男先生の著書、文春文庫『お言葉ですが⑧』に
童謡と唱歌の違いを書かれています。
(p248~「からたちの花が咲いたよ」と「赤い靴はいて
た女の子」の二回)

童謡は大正時代にそれまでの長い文部省唱歌の歴史に
そのアンチテーゼとして生まれたものです。

鈴木三重吉、北原白秋などが運動しました。

「唱歌は子供を教育する手段であり、童謡は子供を
賛美した藝術である」と白秋は述べているそうです。

ところが現在、正反対の性格を持っていた童謡と唱歌が
昔の子供の歌だからでしょう、混同されています。
(私も昨日間違えた)

高島先生は全てをひとくくりにすることは良くないと。
自民党と民主党を一緒にするようなものだから。

もちろん立場により考えかたにより「一緒にしてもよい」
ということはありえます。
反対の立場のものですからそれを一緒にするには根拠が
必要です。
それなくして一緒にするのは無知。
恥ずかしいだけでなく文化を破壊することです。

ちょっとオオゲサですか?
今では童謡唱歌とくくるようですが、私みたいな
無知蒙昧のヤカラが出てくる下地かもしれません。


ただし定義の問題もありそうです。
童謡運動は昭和に入り下火になります。
それが昭和十年ころから再び登場してきます。

ただこれは高島先生に言わせると当初の童謡とは
似て非なるものでした。
単なる幼児の歌、と書いておられます。
「おさるのかごや」「かわいい魚屋さん」

『うぐいす』を作詞した林柳波は初め童謡運動に
加わっていましたがのちには唱歌の選定側に変わり
作品を残しています。
『うぐいす』も勿論唱歌。

彼には『ウミ』うみはひろいなおきいな
『オウマ』おうまのおやこはなかよしこよし

など有名な作がいくつかあります。
輪郭の太いスッキリした歌が多いようですね。
悪口言えば、どうとでもとれる=内容がない・・・

補作も『港』『たなばたさま』など有名です。
センスがよい方でもあったのでしょう。


比較文化論の芳賀徹先生がワリと気軽に書かれた
中公新書『詩歌の森へ』

本の帯に惹句として
「古今東西の文学藝術に精通した著者がみずからの
体験を回想しつつ四季折々の詩歌味読・・」とあり
新聞に連載した短い文143章からなっています。

和歌、俳句、漢詩、詩歌はもとより庶民の歌や
散文まで(歌なるもの)を紹介されます。
もちろん洋物もね。

その中で文部省唱歌に触れた章が、ななんと7つも
あるのです。
重視されているのですね。
『夏は来ぬ』『故郷の空』『雪』『早春賦』
『花』『朧月夜』『紅葉』の7章。

ところが童謡にはいっさい触れていません。
高島先生とは6歳しか違わないのに随分と違う感じを
受けます。

これも自分の子供時代が関わるからでしょう。
すぐに泣いてしまうほどのインパクトがある世界
ですから、好き嫌いも大きいのです。

梅に鶯?

2009-03-17 11:00:20 | 塾あれこれ
♪うめの小枝でウグイスが・・

好きな童謡です。

ところが出会いません。
鳴き声は聞こえるのですがねえ。

写真はメジロだと思います。
背中からではよく見えないですけれど
写真もけっこうネタ切れで使わざるをえない。。。

小鳥は警戒しますからド・シロウトの私などには
カメラに姿を捉えるだけでも幸運なのです。

それでもメジロは案外人間の近くに来ますね。
私にも撮れたということです。
尾道、天寧寺横のお家でした。


スズメが減っているそうですね。(←新聞)
この辺りはまだ数多く生息しています。

春は仔雀が多いと思います。
小さなうちは特に愛嬌があります。
鳥にも無垢な時代が存在するようです。

それでも以前よりは減って、川原から数百羽がばっと
飛び立つ、なんて見なくなりました。

スズメの焼き鳥が捕獲数の減少でピンチだとか。
大学生のとき広島でスズメの焼き鳥をしこたま食って
悪酔いしたのは恨みを買ったからかもしれない。

それ以来(スズメくらい食うのやめたら、派)ですが
なに、美味ければ別の意見を持つでしょう。
勝手なものです。

「ねえ、キミら知ってる?
 大人の中にはスズメ捕まえて食うなんてのがいる 
 んだよ。げ~でしょ。
 うん、私は絶対に食べない!」

春、尾道

2009-03-16 14:48:18 | 塾あれこれ
入試が終わり早めに墓参りをしてきました。
いつもの日差しが明るい海、坂道。
久しぶりに肩から力が抜ける思いでしたね。

とはいえ本通りはシャッターが下りた店も多く
昔を知るものには寂しい思いがしました。

観光ルートには旅行者も結構みかけましたが
素通りも多そうでしたね。
それでも観光地、人が多いに越した事はありません。

私達は少し歩いて浄土寺(あの『東京物語』の)まで
行ってみました。
さすがに観光の方はちらほら。

写真はその浄土寺の門から見た尾道水道です。
町が変わっても寺の境内はそんなに変わりません。


尾道は新しい店も増えていますね。
食べ物などもハズレが少なくなってきました。

昔は観光地ボッタクリというのが少なからずありましたが
最近できている店はいつかリピーターになって戻ってくる
ことが可能な、きちんとした処が多いようです。

以前は取材拒否ラーメン屋のあのオヤジみたいにそれほど
たいしたものでもないのに威張っていたりする井の中の
何とやらも多くありました。
何か感じ悪かったり落ち着かなかったりしたものです。

若い人が新しい町を作ろうとしている尾道は
店のコンセプトがはっきりし、気持ちよく楽しめます。
食べ物なら地元産をきちんと意識しています。

反対に昔風の道端の出店、乾いた海産物を売っていますが
あやしい。
名物に美味い物ナシですが、特産に地元ナシかも。
皆さん!安いデベラで「ふ~んこんなものか」
なんて思わないで下さいね。


新しい店は良いのですが比ゆ的にいうと「東京資本」
観光地はかくあるべきという志向がみえます。

つまり、お客さんは東京から来て東京のイメージする
観光地を見て帰るわけです。

けっして尾道に旅しているわけではありません。
行ったぞというアリバイに写真を撮りに移動しただけ
のようですが、もちろんそれには気づきません。

旅とは異文化に接し違和感を覚えながら出会いを重ねる
なんてことはなくなり(イージーな移動)が主流です。

いまの日本を象徴しているようですね。

本当の尾道は良い意味でも悪い意味でも、もっと
人間くさい町でした。

現在はひからびてホコリをかぶり、退屈な日差しの中に
フェードアウトしかけています。


漁師の子供が雁木に七輪を出し(でぼら)を焼いていた
あんな匂いが尾道だったのですが。

内申点だけでは×

2009-03-15 08:26:43 | 塾あれこれ
以前、書いたようにも思うのですが。

とある大手塾に通っている生徒の保護者の方が
「ウチの子は内申が悪いけれど実力テストは
 できる。塾がよくないから変えよう」と
仰ったとか。

推察するに(実力がある)のに(内申)が悪いのは
塾の対応が良くない、というお考えでしょう。

たしかに高校受験における内申の比重は高く
広島ではおおむね半分の持ち点になります。

内申というやりかたの是非はあるかもしれないが
現実に重要な役割を担っているのだからそこにも
手を入れるのは塾の仕事です。

ただ、上記の方のご意見が実力はよいから内申を
大切に、ということであれば本末転倒ですね。

もちろん両方大切です。


ここで私の嫌いな二者択一を。

内申と実力と、どちらが大切ですか?

実力は長いスパンで見るものです。
内申は短い期間で測るものです。

1~2ヶ月ごとにチェックする内申に、対策で点を稼ぐ
ことばかりしてきた人と大人になって一緒に仕事を
したいですか?

ふだんから細かくチェックをすることで勉強を続け
させる作戦だそうですが、子供を信用していないと
いうか、尻を叩くことだけしか発想にないようです。

その挙句、一夜漬け人間を量産しているとすれば
国の将来って・・
税金の使い方としても問題でしょう。

問題のモトは学制、集団授業、など(効率)に
あるのですが対策は難しいと思います。

唯一、個別方式の地域密着型塾が解決策を提示できる
というのは我田引水がキツイでしょうか。

内申対策で営業成績を伸ばすなんて塾がありますが
私には子供の将来が不安ですね。

現行の教育システムゆえ、やむを得ずそうしている
のだと信じたいですけれども。

持論を繰り返します。

教育で金儲けはいけない。

じゃ、やってみせてください

2009-03-14 11:49:51 | 塾あれこれ
ええっと、イノウエさん、このリハビリやって下さい、
あとですぐに来ますから。

私、もちろん真面目にやります。

しばらくして戻ってこられて
「やっていただけましたか」

元気に「はいっ!!」
(・・見りゃ分るだろ)

「じゃ、もういちどやってみせてください」


うむ、塾でもこんな光景がありそうだなあ。

そのお言葉、再考の余地ありですね。
相手を信用していない風にも受け取れるからです。

この場合は、さきに別のメニューを少しやらせて
暫くして同じ事を再びやらせてみればよいのです。

そうすると信用していない感じが出なくて
しかも自分の目でチェックできますから。


ここで団塊オヤジの悪い癖、
「キミ。教えてあげようか。
 こういう場合は、だネ」

まさか、いくら私でもそんな事は言いませんでしたが
胸のうちではありありと呟いていました。

年をとるとはこういうことなのでしょうか。

言わない方が失礼がない、損はない、

こういう場合、言うってのは相手のことよりも
自己満足を優先させていることが多いでしょうから。

とはいえ、何だか卑怯みたいで落ち着かないのも
事実です。

きみイ、これどうなってるのオ・・

なんて、嫌われつつも言う方が親切かな、チラっと
でもよぎる所がこの世代の悪い癖なんですよね。

炊き出し中止ですか。。。

2009-03-13 22:10:42 | 塾あれこれ
自分は何もしてないので本来発言権はないけれど
近隣の住民からの要請で炊き出し中止というのは
解せませんね。

行政もどうなんだろう。
住民の所為にしてない?

たしかに苦情も出るようなことがあるでしょう。
一概に「それはカワイソウ」と部外者は言えません。

でも、社会のありようとして、どうだろう。

外国を引き合いに出すべきではないかもしれませんが
このニュースを聞くと「日本って・・」と思われる
のではないでしょうか。

こういうのがボディブローのように効いて国の評判を
落としてしまうのですが。



ボランティアに大きく頼る助けの手。
わたしなどどうしても行政に厳しくなります。

空間だけでももっと何とかならないものでしょうか。

自助努力が足りないとして冷たくする社会のように
思えてなりません。

ボランティアの数も少ないのでしょう。
一箇所に多くの人が集まるというのはそれを裏付ける
ことではないかなあ。

10箇所で50人ずつのほうが一箇所で500人よりも
マサツは少ないでしょう。
でも、それができないんだよね。


こんなニュースでよくみかけるのはキリスト教の
活動です。

仏教系は少ないですよね。
日本にこれだけお寺があるのに。
宗教法人は税制でも優遇され、高価な美術品を
買いあさっているというのに。

宗教団体に課税をしてその分を貧しい人に回す
なんてどう?
仏様の意に叶うことではないでしょうか。

ご報告他

2009-03-12 22:05:59 | 塾あれこれ
広島では高校入試の合格発表がありました。
「絶対大丈夫」と思っていても結果が出るまでは
不安なものです。
万一、第一志望を落としたら大変ですから。
結果は=サクラサク。
ひと安心です。


とある方が先のブログに注文をつけられました。
小沢秘書の逮捕に関するものです。

その方は現実的な政治についてのご指摘でした。
おっしゃるとおりかもしれません。
ただ、私が書きたかったことは、政治と金の腐れ縁は
政治家では自浄できないのではないか。
そのあたりを明確に書くべきでした。
自民党についても書いたのですが投稿しませんでした。
カゲキすぎて。

私は政治的にどこがよいとか、誰が良いなどは分りま
せん。
仕組みとして政治家が身勝手かつ姑息な資金制度を
作ることへの絶望感と腹立ちです。
民主主義をゆるがすことだからです。


デイズジャパンに今年の写真大賞が紹介されています。
(ブログから見ることもできます!
 ブックマークをクリックして下さい)

厳しい現実ですが日本人はもっと直視するべきですね。


頭の中に思っていることを表現する場合、まるで関係
ないことが出ていることがあります。
Aと思っているのにBと言う、みたいな。

その失敗が昨日の投稿です。
『仰げば尊し』のつもりで『蛍の光』と書いて
しまっていました。お詫びします。

本日「あれえ」と声を出してしまいました。
老化ですねえ。

同じ事を若いときにしたらヘンな失敗で済みますが
この年になると(ボケ)を疑います。

うむ。
どうせそうなら早くボケたら心配はなくなって
よいのかもしれない。


写真はボケではなく昨日のサンシュウ。

本来はサンシュユと言うらしいですね。

春は黄色い花が目立ちます。
中でも淡くて小さくて好ましい花です。