母が亡くなる前年、童謡のコンサートに一緒した
ことがあります。カミサンと三人でした。
私は童謡にはすぐに泣けてくるので苦手なのですが
母が難しそうなコンサートは敬遠をするので
これならば行くと言いそうな演奏会を探したのです。
同年代以上の者ならば誰でも知っている美しく
そして懐かしい歌が流れます。
そうだ、こんな歌があったなあ、でグっときます。
ふいに(麗しかったあの頃)に戻れるのですから。
この演奏会で母が一番強く感動したらしい曲が
『仰げば尊し』でした。
しきりに目頭をぬぐっているのです。
意外でした。
よく耳にする曲じゃないか。。。
いわゆる童謡でもないし。
◎
それから一年たたないうちに母が突然亡くなり
いま少しずつ全体像が見えてくる気がしています。
以前、当ブログに母が短歌を書き残していたと
書きました。
オヤジと離婚まがいの大喧嘩、のような余程感情が
昂ぶったときに書いた様です。
弟が大学に進んだときのものがあります。
『浪人になべてきびしき受験をば独学で得し栄冠の光る』
母はずいぶんと喜んだようです。
私のものなど何も残っていませんからねえ。
ちょっと気が抜けるけれど事実なんです。。
どうということのない歌、というよりも客観的には
「そんなにご自慢ですか」といわれそうな作です。
ただ、私には喜びようの大きさが分る気がします。
母親が子を見る時にはこういう眼差しになるのですね。
○
何度も書きますが、そして結構多くの家庭がそうで
あったと思いますが、世の中は貧しかった。
そんな中、親が子にしてやれることは学歴をつける
ことで精一杯だったようです。
それで勉強を煩く言ったのに(言ったから?)
全く弟は勉強しなかったのです。
公立高校をかろうじて卒業し就職。
社会に出てから志を変えたようです。
予備校には行かず苦労した受験だったらしいです。
末っ子ですから可愛さもあり、そこで歌ができた
のでしょう。
そののち彼は勉強して愚兄を追い抜きました。
一時期東大の助手をやっていた弟を母がどれほど
自慢にしていたか。
「下の子はいまどうしておられる?」と聞かれる
ことを無上の喜びとしていたフシがあります。
そばにいる私は「たかが助手」と恥ずかしかった
のですが、ヤッカミもあったかもしれません。
◎
母は愛媛県大三島の一番の貧乏村に生まれました。
六人兄弟の三番目、進学には恵まれない立場です。
特に戦前の女の子はよほど出来ないと勉強の道は
開けなかったでしょう。
ふつーの人であった母は中学へは行けず
尋常高等小学校が最終学歴です。
もしかすると母には学歴へのコンプレックスがあった
か、と思います。
還暦を過ぎての小学校の同窓会にわざわざ大三島に
行っていますが、女性は皆、晴れ着の和服を着た写真
が残っています。
母にとっての学校というものはそこしかなかったの
ですから是が非でも出席したかったのでしょう。
『仰げば尊し』が沁みるのは「学校」への思いの反映
ではなかったのか、と今思い至るのです。
○
我々子供は母の教養のなさ、というより学歴のなさ
をバカにしていた処があります。
時には複雑な思いもよぎったのではないか?
選択が閉じられていた人生
いちどきりの人生なのに。
生意気なことをした、と今反省します。
(この年で気づいても、遅い・・・・)
机に仕舞ってあった母の短歌に微妙な心を見ます。
生きている間は優しさだけの苦労人でしたが。
「人生ってそんなもん。
それで満足してちょうどよいのですよ」
そんな声が聞こえるのですが
しかし不肖の息子はなかなかその心境に辿り着けません。
◎
写真は(さんしゅう)の花
あっという間に咲いていました。
春になりましたねえ。
ことがあります。カミサンと三人でした。
私は童謡にはすぐに泣けてくるので苦手なのですが
母が難しそうなコンサートは敬遠をするので
これならば行くと言いそうな演奏会を探したのです。
同年代以上の者ならば誰でも知っている美しく
そして懐かしい歌が流れます。
そうだ、こんな歌があったなあ、でグっときます。
ふいに(麗しかったあの頃)に戻れるのですから。
この演奏会で母が一番強く感動したらしい曲が
『仰げば尊し』でした。
しきりに目頭をぬぐっているのです。
意外でした。
よく耳にする曲じゃないか。。。
いわゆる童謡でもないし。
◎
それから一年たたないうちに母が突然亡くなり
いま少しずつ全体像が見えてくる気がしています。
以前、当ブログに母が短歌を書き残していたと
書きました。
オヤジと離婚まがいの大喧嘩、のような余程感情が
昂ぶったときに書いた様です。
弟が大学に進んだときのものがあります。
『浪人になべてきびしき受験をば独学で得し栄冠の光る』
母はずいぶんと喜んだようです。
私のものなど何も残っていませんからねえ。
ちょっと気が抜けるけれど事実なんです。。
どうということのない歌、というよりも客観的には
「そんなにご自慢ですか」といわれそうな作です。
ただ、私には喜びようの大きさが分る気がします。
母親が子を見る時にはこういう眼差しになるのですね。
○
何度も書きますが、そして結構多くの家庭がそうで
あったと思いますが、世の中は貧しかった。
そんな中、親が子にしてやれることは学歴をつける
ことで精一杯だったようです。
それで勉強を煩く言ったのに(言ったから?)
全く弟は勉強しなかったのです。
公立高校をかろうじて卒業し就職。
社会に出てから志を変えたようです。
予備校には行かず苦労した受験だったらしいです。
末っ子ですから可愛さもあり、そこで歌ができた
のでしょう。
そののち彼は勉強して愚兄を追い抜きました。
一時期東大の助手をやっていた弟を母がどれほど
自慢にしていたか。
「下の子はいまどうしておられる?」と聞かれる
ことを無上の喜びとしていたフシがあります。
そばにいる私は「たかが助手」と恥ずかしかった
のですが、ヤッカミもあったかもしれません。
◎
母は愛媛県大三島の一番の貧乏村に生まれました。
六人兄弟の三番目、進学には恵まれない立場です。
特に戦前の女の子はよほど出来ないと勉強の道は
開けなかったでしょう。
ふつーの人であった母は中学へは行けず
尋常高等小学校が最終学歴です。
もしかすると母には学歴へのコンプレックスがあった
か、と思います。
還暦を過ぎての小学校の同窓会にわざわざ大三島に
行っていますが、女性は皆、晴れ着の和服を着た写真
が残っています。
母にとっての学校というものはそこしかなかったの
ですから是が非でも出席したかったのでしょう。
『仰げば尊し』が沁みるのは「学校」への思いの反映
ではなかったのか、と今思い至るのです。
○
我々子供は母の教養のなさ、というより学歴のなさ
をバカにしていた処があります。
時には複雑な思いもよぎったのではないか?
選択が閉じられていた人生
いちどきりの人生なのに。
生意気なことをした、と今反省します。
(この年で気づいても、遅い・・・・)
机に仕舞ってあった母の短歌に微妙な心を見ます。
生きている間は優しさだけの苦労人でしたが。
「人生ってそんなもん。
それで満足してちょうどよいのですよ」
そんな声が聞こえるのですが
しかし不肖の息子はなかなかその心境に辿り着けません。
◎
写真は(さんしゅう)の花
あっという間に咲いていました。
春になりましたねえ。