昭和47年サラリーマンになりました。
ほぼ40年近く前の話です。
御徒町の松坂屋ま向かいのビルが会社でした。
夜行列車で上京し、その朝、御徒町に辿り着いたとき
路面電車が走っていました。
なぜか鮮明に覚えています。
広島の電車と大差はなかったハズですが広い道を
猛烈な勢いでがーがーと走っていきました。
本数は少なかったのではないでしょうか。
山手線も地下鉄もあるのですから。
都電には乗る機会がなく同年秋廃線。
翌年にホコ天が始まるのと関係があるかなあ?
○
その昭和47年に情報雑誌ぴあが創刊されています。
初めは薄い雑誌でした。映画館の情報が主でしたね。
確か一冊100円くらいではなかったか?
毎月映画情報をチェックし名画座巡りをしました。
途中から情報が増え分厚くなりましたが持ち歩き難く
なってしまいましたね。
プレイガイドを始めるのはもっと後の話です。
○
広島弁はバカにされました。
田舎訛はみなそうでしたね。
東京ぼん太が訛だけで笑われていた時代です。
若水やえ子とか由利徹なんてのもねえ。
それを笑う下町の若者がナイフやフォークで食事が
できませんでした。
洋式トイレも少なかったですね。
翌年からの石油ショックでトイレットペーパーが
なくなり皆困ったのですが、トイレは和式だった。
◎
初任給は一部を親に仕送りしました。
一、二ヶ月後「仕送りはよいから」といわれてほっと
してしまった程度の親孝行?でした。
夏の初めてのボーナスで鞄を買いました。
出張用のボストンバッグです。
他人に見られるものだから安物ではいけないと親に
教えられていました。
一緒に鞄を買った福岡出身の同期生も同じ趣旨を
言われていたようです。
さすがに銀座には行けず、新宿でしかるべき店を探し
「えいやっ」と一ヶ月の給料に近いものを買って
しまいましたね。
高かったので悩みに悩んで・・
福岡弁と広島弁で悩み、値切ろうとしてあしらわれ
さんざん時間をかけた生まれてはじめての高額?な
買い物ではありました。
買って店から出るとき背後で店員達の大笑いする声。
「この田舎モノ」という感じが伝わりました。
今ならば店に引き返して文句をいいますが、当時は
こちらが小さくなって、逃げました。
故なく、あからさまな笑いを背にした初めです。
福岡の友も同じ感じを受けていました。
暫くは新宿でモノを買えなかったですね。
東京のお店といってもその程度でした。
国全体が田舎だったのでしょう。
○
後日、出張帰りでそのまま出社したところ
営業本部長が鞄を見て
「お、良いねえ、まるでホンモノの皮みたいだ」
◎
およそ40年あれば新入社員もほぼ定年です。
明治維新から日露戦争で38年ですからずいぶんの
時間になりますね。
1600年に関が原があり、大阪夏の陣、島原の乱
鎖国の完成までで41年です。
その間に家康も秀頼も秀忠も亡くなり家光の時代
40年とは長いものです。
翌昭和48年に会社の前もホコ天になりました。
その年の暮れから第一次オイルショックです。
あれから35年
事件で秋葉原のホコ天は中断されています。
(会社の前から秋葉原まで徒歩10分強の距離です)
あの「ぴあ」は社員の大量退職とか。
当時のように石油が上がっています。
そのことが新しい局面を意識させますね。
そうして20世紀が遠ざかる。
○
昭和48年のオイルショックから4年後
有珠山が爆発し、プレスリーが亡くなり
ボンベイで日本赤軍ハイジャック事件があった
その年に横田めぐみさんが北朝鮮に拉致され
ています。
それから30年を越えてしまいました。
30年、いかに長く残酷な時間であることでしょうか。
ほぼ40年近く前の話です。
御徒町の松坂屋ま向かいのビルが会社でした。
夜行列車で上京し、その朝、御徒町に辿り着いたとき
路面電車が走っていました。
なぜか鮮明に覚えています。
広島の電車と大差はなかったハズですが広い道を
猛烈な勢いでがーがーと走っていきました。
本数は少なかったのではないでしょうか。
山手線も地下鉄もあるのですから。
都電には乗る機会がなく同年秋廃線。
翌年にホコ天が始まるのと関係があるかなあ?
○
その昭和47年に情報雑誌ぴあが創刊されています。
初めは薄い雑誌でした。映画館の情報が主でしたね。
確か一冊100円くらいではなかったか?
毎月映画情報をチェックし名画座巡りをしました。
途中から情報が増え分厚くなりましたが持ち歩き難く
なってしまいましたね。
プレイガイドを始めるのはもっと後の話です。
○
広島弁はバカにされました。
田舎訛はみなそうでしたね。
東京ぼん太が訛だけで笑われていた時代です。
若水やえ子とか由利徹なんてのもねえ。
それを笑う下町の若者がナイフやフォークで食事が
できませんでした。
洋式トイレも少なかったですね。
翌年からの石油ショックでトイレットペーパーが
なくなり皆困ったのですが、トイレは和式だった。
◎
初任給は一部を親に仕送りしました。
一、二ヶ月後「仕送りはよいから」といわれてほっと
してしまった程度の親孝行?でした。
夏の初めてのボーナスで鞄を買いました。
出張用のボストンバッグです。
他人に見られるものだから安物ではいけないと親に
教えられていました。
一緒に鞄を買った福岡出身の同期生も同じ趣旨を
言われていたようです。
さすがに銀座には行けず、新宿でしかるべき店を探し
「えいやっ」と一ヶ月の給料に近いものを買って
しまいましたね。
高かったので悩みに悩んで・・
福岡弁と広島弁で悩み、値切ろうとしてあしらわれ
さんざん時間をかけた生まれてはじめての高額?な
買い物ではありました。
買って店から出るとき背後で店員達の大笑いする声。
「この田舎モノ」という感じが伝わりました。
今ならば店に引き返して文句をいいますが、当時は
こちらが小さくなって、逃げました。
故なく、あからさまな笑いを背にした初めです。
福岡の友も同じ感じを受けていました。
暫くは新宿でモノを買えなかったですね。
東京のお店といってもその程度でした。
国全体が田舎だったのでしょう。
○
後日、出張帰りでそのまま出社したところ
営業本部長が鞄を見て
「お、良いねえ、まるでホンモノの皮みたいだ」
◎
およそ40年あれば新入社員もほぼ定年です。
明治維新から日露戦争で38年ですからずいぶんの
時間になりますね。
1600年に関が原があり、大阪夏の陣、島原の乱
鎖国の完成までで41年です。
その間に家康も秀頼も秀忠も亡くなり家光の時代
40年とは長いものです。
翌昭和48年に会社の前もホコ天になりました。
その年の暮れから第一次オイルショックです。
あれから35年
事件で秋葉原のホコ天は中断されています。
(会社の前から秋葉原まで徒歩10分強の距離です)
あの「ぴあ」は社員の大量退職とか。
当時のように石油が上がっています。
そのことが新しい局面を意識させますね。
そうして20世紀が遠ざかる。
○
昭和48年のオイルショックから4年後
有珠山が爆発し、プレスリーが亡くなり
ボンベイで日本赤軍ハイジャック事件があった
その年に横田めぐみさんが北朝鮮に拉致され
ています。
それから30年を越えてしまいました。
30年、いかに長く残酷な時間であることでしょうか。