昭和47年は「ぴあ」の年だった

2008-06-19 09:14:26 | 塾あれこれ
昭和47年サラリーマンになりました。
ほぼ40年近く前の話です。

御徒町の松坂屋ま向かいのビルが会社でした。
夜行列車で上京し、その朝、御徒町に辿り着いたとき
路面電車が走っていました。
なぜか鮮明に覚えています。

広島の電車と大差はなかったハズですが広い道を
猛烈な勢いでがーがーと走っていきました。

本数は少なかったのではないでしょうか。
山手線も地下鉄もあるのですから。

都電には乗る機会がなく同年秋廃線。
翌年にホコ天が始まるのと関係があるかなあ?


その昭和47年に情報雑誌ぴあが創刊されています。
初めは薄い雑誌でした。映画館の情報が主でしたね。
確か一冊100円くらいではなかったか?

毎月映画情報をチェックし名画座巡りをしました。

途中から情報が増え分厚くなりましたが持ち歩き難く
なってしまいましたね。
プレイガイドを始めるのはもっと後の話です。


広島弁はバカにされました。

田舎訛はみなそうでしたね。
東京ぼん太が訛だけで笑われていた時代です。
若水やえ子とか由利徹なんてのもねえ。

それを笑う下町の若者がナイフやフォークで食事が
できませんでした。

洋式トイレも少なかったですね。
翌年からの石油ショックでトイレットペーパーが
なくなり皆困ったのですが、トイレは和式だった。


初任給は一部を親に仕送りしました。
一、二ヶ月後「仕送りはよいから」といわれてほっと
してしまった程度の親孝行?でした。

夏の初めてのボーナスで鞄を買いました。
出張用のボストンバッグです。
他人に見られるものだから安物ではいけないと親に
教えられていました。
一緒に鞄を買った福岡出身の同期生も同じ趣旨を
言われていたようです。

さすがに銀座には行けず、新宿でしかるべき店を探し
「えいやっ」と一ヶ月の給料に近いものを買って
しまいましたね。
高かったので悩みに悩んで・・

福岡弁と広島弁で悩み、値切ろうとしてあしらわれ
さんざん時間をかけた生まれてはじめての高額?な
買い物ではありました。

買って店から出るとき背後で店員達の大笑いする声。
「この田舎モノ」という感じが伝わりました。
今ならば店に引き返して文句をいいますが、当時は
こちらが小さくなって、逃げました。

故なく、あからさまな笑いを背にした初めです。
福岡の友も同じ感じを受けていました。
暫くは新宿でモノを買えなかったですね。

東京のお店といってもその程度でした。
国全体が田舎だったのでしょう。


後日、出張帰りでそのまま出社したところ
営業本部長が鞄を見て
「お、良いねえ、まるでホンモノの皮みたいだ」


およそ40年あれば新入社員もほぼ定年です。
明治維新から日露戦争で38年ですからずいぶんの
時間になりますね。

1600年に関が原があり、大阪夏の陣、島原の乱
鎖国の完成までで41年です。
その間に家康も秀頼も秀忠も亡くなり家光の時代
40年とは長いものです。

翌昭和48年に会社の前もホコ天になりました。
その年の暮れから第一次オイルショックです。

あれから35年
事件で秋葉原のホコ天は中断されています。
(会社の前から秋葉原まで徒歩10分強の距離です)
あの「ぴあ」は社員の大量退職とか。

当時のように石油が上がっています。
そのことが新しい局面を意識させますね。
そうして20世紀が遠ざかる。


昭和48年のオイルショックから4年後
有珠山が爆発し、プレスリーが亡くなり
ボンベイで日本赤軍ハイジャック事件があった
その年に横田めぐみさんが北朝鮮に拉致され
ています。
それから30年を越えてしまいました。

30年、いかに長く残酷な時間であることでしょうか。