結局ベターなのはサー

2008-06-14 11:01:32 | 塾あれこれ
昨日書き始めたことにはためらいがありました。
今もあります。

ルー風に
「いろいろ言っても結局はサーどっちがベター
 なのよ。それともアンサーが他にあるわけ?」
こう聞かれると困るのです。

二つのうちどちらを選ぶかで教育観が見えます。
関係者だけでなく社会全体も関心を持って欲しい!
長所短所を見つめて欲しいのです。

「で、WHITCHなのよ?」

上も増え下も増えるのを無条件では認め難いですね。
下に手当てすると言いながらお茶を濁していないか?

少なくとも経済界の一部に成績の低い子にコストを
かけることを嫌う風があります。
(学校や塾の経営者はどうか?)

そのコスト意識は視野が狭く短絡的です。
少なくとも外国の考えを無批判に受け入れています。

日本の強さはどこにあったでしょうか。
外国と条件が同じですか?

できない子をおいてゆくことで社会全体ではコストが
かかっているのではありませんか?
教育に競争は必要ですが、格差は悪です。

仕組みの話と自助努力のレベルの話と、混同しない
ようにお願いしますね。


少し日本教育の強さに触れておきましょう。

戦後の経済発展は教育も大いに寄与しています。
憲法の下、自由平等な教育を目指した結果です。

確かにマイナス面もありましたけれども。

実は戦前の教育の考え方が続いていたのです。
教育立国ですね。
全員を一定レベルに上げようというものでした。

いや、戦前からというより江戸時代からです。

ただし、方法論が「詰め込み」であった。
そうならざるをえなかった?
欠点もあるが有効でもあったのです。

天才が少ないという批判もありますが
実際はどうでしょう。
たとえ少ないとしても因果関係あり?

全体としては個性に欠けやすい、ただし平均点は
高い、という教育法でした。

教育だけで日本人ができるわけではないけれど。


そういうことに対する「反省」が昭和の末ごろ
から強くなってきました。

個性を大切に、褒めて育てる・・

それも大切でしょう。
ただし方法論がどうであったか。

結局、カタチを変えた詰め込みしかできなかった。
詰め込み方は進歩しています。
細かくデータをとり、教育技術も向上させ。
教える側が意識しなくても詰め込み風に勉強すれば
ついてゆけるのです。

詰め込みともう一つは甘さです。

私はこの二つが出会うととんでもない化学変化が
起きるような気がしています。

自ら考えようとしない子供が出来上がるのです。

一見したところ出来る子が実は何も考えることがない
せいぜい、調べて方法を見つけること程度の技術しか
持てないのです。

細かく教える技術が進み、上記の「思考停止」が定着
してゆきます。


昨日の二者択一は正しいものではなかったのです。

違うアプローチが必要です・・

そうです、それが「個別」で「教えない」

へへ、宣伝になってしまった。

(続きます)