新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
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昭和ひと桁生まれ純情派

2015年10月19日 09時35分59秒 | 身辺雑記

 過日、橘家圓蔵が亡くなった。私と同じ昭和9年(1934年)の生まれだった。

 この人が月の家円鏡であったころ、「ヨイショッと」を聞きたくて、幾度か寄席へ行ったことがある。好きな落語家の一人であった。

 私が昭和ひと桁生まれであるせいか、その年代の人たちが亡くなると、大いに心寂しくなってしまう。なんとも情けない。

 一言で「昭和ひと桁」と言っても、太平洋戦争との関わりでは大きな違いがある。

 昭和4年以前の人は、国内の軍需工場に動員され、戦地へ行かされた年代だった。特攻隊に志願し、戦死した人たちもいた。

 一方、昭和5年から昭和9年生まれは、学童疎開や空襲の経験はあったが、戦地へは行っていなかった。この「戦地へ行かなかった」ことが、なんとも奇妙な気分を引き起こすのだ。「申し訳なさ」や「行けなかった淋しさ」などだったのだろうか。

 「オレは昭和ひと桁だ」と胸を張ってはみても、所詮は虚勢じみていた。「生命を張って生きて来た」という感慨はなく、「死ぬのが恐くて逃げ廻った」という経験しかなかった。

 「国民学校5年で旧制中学に行き、その後予科練に入り、いずれは特攻隊員となって国のために死ぬんだ」

 これが当時の私の夢だった。目指した目標だった。しかしその夢は、昭和20年8月15日の敗戦によって、あえなく消え去った。

 国民学校5年生の第二学期以降、私たちは民主主義の教育を受けることとなったのだ。

 一学期とは180度異なる授業をする羽目になった先生のご苦労は、どんなだったろうか。先生から聞いたことはなかった。

 「昭和ひと桁生まれですか、ご苦労があったでしょうね」

 よくそのような言葉を頂くことがあるが、ややこそばゆい感じを禁じ得ない。空襲で逃げまわっただけなのだ。

 私は「戦中派」ではない。「焼け跡闇市派」ですらもない。

 昭和ひと桁生まれ純情派」とでも言わせてもらおうか。

 

 

 

コメント (4)
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