慰安婦問題と法治主義



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A4版「沖縄内なる民主主義」(600円税抜)は2月3日(火曜日)、県内書店で発売します。
お詫び
「かみつく」から「沖縄民主主義4」に改名しましたが、勝手ながら、さらに普及版としてA4版「沖縄内なる民主主義4」にしました。
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書店ではA4版「沖縄内なる民主主義」(600円税抜)のみの発売ですが、狼魔人日記ではA5版の「沖縄民主主義4」も600円で発売します。ご了承お願いします。


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慰安婦問題と法治主義
「沖縄に内なる民主主義はあるか」の「第一章 琉球処分はなにを処分したか」の最初の文章である。

明治政府の近代化と法治主義

明治政府は江戸幕府の士農工商の身分制度を廃止して四民平等の社会にした。そして、廃藩置県を行い幕藩政治から近代中央集権政治をつくり上げていった。廃藩置県は日本の近代化の始まりであり、明治政府の近代化政策と琉球処分は密接な関係にある。明治政府の近代化の歴史を知ることによって、琉球処分がなんであったかを理解することができる。
明治政府はヨーロッパの先進国と肩を並べるために近代国家をめざした。近代国家の第一歩は中央政府のつくった法律を全国に一律に適用して法治主義に徹することである。そして、軍事・教育・司法・財政の四つを中央政府が主導権を握ることである。明治政府は廃藩置県を行って日本を中央集権化すると同時に、大日本帝国憲法を制定して全国を一律の法律で統治する法治主義社会を確立させていった。明治政府樹立の一八六七年から、法治主義と司法権の独立を確立させた一八九一年までの明治政府の歴史を辿ってみる。歴史をみれば、沖縄だけが特別に琉球処分をされたのではなく、日本の近代化の流れの中で琉球処分があったことが分かる。

日本の近代化は法治主義抜きにはあり得ない。法治主義を世に知らしめたのがニコライ事件である。

一八九一年(明治二十四年)、日本を訪問中のロシア皇太子・ニコライ(のちのニコライ二世)が、滋賀県大津市で警備中の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した。いわゆる大津事件である。この件で、時の内閣は対露関係の悪化をおそれ、大逆罪(皇族に対し危害を加える罪)の適用と、津田に対する死刑を求め、司法に圧力をかけた。しかし、大審院長の児島惟謙は、この事件に同罪を適用せず、法律の規定通り普通人に対する謀殺未遂罪を適用するよう、担当裁判官に指示した。かくして、津田を無期徒刑(無期懲役)とする判決が下された。この一件によって、日本が立憲国家・法治国家として法治主義と司法権の独立を確立させたことを世に知らしめた。

 明治の政治家たちが近代国家を真剣に目指していたことが分かる。四民平等主義も近代国家の象徴として明治政府が目指したものである。売春婦問題も例外ではなかった。
 
遊郭を奴隷制度だと非難し、改革させるきっかけになったのがマリア・ルス号事件であった。

一八七二年(明治五年)七月九日、中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス号が横浜港に修理の為に入港してきた。同船には清国人(中国人)苦力(クーリー)二三一名が乗船していたが、数日後過酷な待遇から逃れる為に一人の清国人が海へ逃亡しイギリス軍艦(アイアンデューク号)が救助した。そのためイギリスはマリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断しイギリス在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請した。

知っている通り明治政府は四民平等を宣言した。四民平等は人間差別である奴隷制度を否定している。そのため当時の副島種臣外務卿(外務大臣)は大江卓神奈川県権令(県副知事)に清国人救助を命じた。しかし、日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかった。このため政府内には国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見もあったが、副島は「人道主義」と「日本の主権独立」を主張し、マリア・ルス号に乗船している清国人救出のため法手続きを決定した。

マリア・ルス号は横浜港からの出航停止を命じられ、七月十九日(八月二十二日)に清国人全員を下船させた。マリア・ルス号の船長は訴追され、神奈川県庁に設置された大江卓を裁判長とする特設裁判所は七月二十七日(八月三十日)の判決で清国人の解放を条件にマリア・ルス号の出航許可を与えた。だが船長は判決を不服としたうえ清国人の「移民契約」履行請求の訴えを起こし清国人をマリア・ルス号に戻すように訴えた。

この訴えに対し二度目の裁判では移民契約の内容は奴隷契約であり、人道に反するものであるから無効であるとして却下した。また、この裁判の審議で船長側弁護人(イギリス人)が、
「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」
として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出した。
 その頃の遊女は親の借金のかた=抵当として遊女にさせられ、利子代わりつまり無報酬で働かされていた。親が借金を返すまでは遊郭から出ることはできなかった。貧しい親に借金を返済することはできるはずもなく、遊女は一生解放されなかった。それは奴隷同然であり、船長側弁護人の政府批判に明治政府は反論できなかった。痛いところを突かれた明治政府は公娼制度を廃止せざるを得なくなり、同年十月に芸娼妓解放令が出され、娼婦は自由であるということになった。
 この驚くべき事実を慰安婦問題を扱っているほとんどの人が知らないようである。

裁判により、清国人は解放され清国へ九月十三日(十月十五日)に帰国した。清国政府は日本の友情的行動への謝意を表明した。

明治政府は士農工商の身分制度を廃止して四民平等の社会にした。それは奴隷制度の否定でもある。だから、奴隷である清国人(中国人)苦力二三一名を解放したのだ。しかし、奴隷制度を否定している日本が遊女を奴隷にしていると指摘された。そのために明治政府は公娼制度を廃止し、同年十月に遊郭の娼婦たちを自由にする芸娼妓解放令が出さざるを得なくなった。明治政府は一時的ではあるが遊女を完全に自由にしたのである。

明治政府は四民平等政策を推し進め、また法治主義のもとに立法・行政・司法の三権分立を確立していった。しかし、売春禁止はやらなかった。四民平等といっても日本はまだまだ男尊女卑の社会だったが、それゆえに女性にはお金を得る手段である仕事が非常に少なかった。士族の子女が遊女になることを禁じていたが、士族の要望で遊女になれるように法律を改正したという歴史がある。

それにその頃の遊郭は一大産業であり、遊郭からの税収は莫大であったから政府としては簡単に遊郭をやめるわけにはいかなかった。芸娼妓解放令を出した明治政府であったが遊郭を存続させたいのが本音だった。また、遊女を自由にしてしまうと世の中が乱れてしまう。四民平等=奴隷否定と遊郭問題の狭間で明治政府は苦心する。
明治五年に遊郭の遊女は奴隷であると指摘されて芸娼妓解放令を出してから二十八年間試行錯誤を積み重ねて明治三十三年に「娼妓取締規則」を制定するのである。

一八七三年(明治六年)十二月、公娼取締規則が施行された。そして、警保寮から貸座敷渡世規則と娼妓渡世規則も発令された。後に公娼取締規則は地方長官にその権限がうつり、各地方の特状により取締規則が制定された。たとえば東京では一八八二年(明治十五年)四月、警察令で娼妓渡世をしようとする者は父母および最近親族(が居ない場合は確かな証人二人)から出願しなければ許可しないとした。 やがて群馬県では県議会決議によって、全国で初めて公娼そのものを全面的に禁止する条例が可決された。
一八八九年(明治二十二年)、内務大臣から、訓令で、これより娼妓渡世は十六歳未満の者には許可しないと布告された。
一八九一年(明治二十四年)十二月までは士族の女子は娼妓稼業ができなかったが、士族の要求が強いために内務大臣訓令によりこれを許可するとした。
一九〇〇年(明治三十三年)五月、内務大臣訓令により、十八歳未満の者には娼妓稼業を許可しないと改正された。
一九〇〇年(明治三十三年)十月、内務省令第四十四号をもって、娼妓取締規則が施行された。これによって、各府県を通じて制度が統一された。

このように日本の公娼制度は紆余曲折を経て、一九〇〇年に娼妓取締規則が施行された。明治政府は年齢にもこだわっている。一八八九年に十六歳以上に許可した。それまでは十六歳未満の少女も売春婦も認めていたのだ。そして、一九〇〇年には一八歳に引き上げている。一八からは成人であり、成人のみが売春婦になれるようにした。これは明治政府が未成年少女の人権を重視していたことであり、年齢制限は重要な意味を持つ。

マリア・ルス号事件を体験した明治政府が「娼妓取締規則」を作るにあたって、最も注意を払ったのは公娼は本人の自由意志で決める職業であり奴隷ではないということであった。そのことを示しているのが娼妓取締規則の条文にある。

第三条に、娼妓名簿に登録する時は本人が自ら警察官署に出頭し、左の事項を書いた書面を申請しなければならないと書いてある。娼妓になるのは強制ではなく本人の意思であることを警察に表明しなければならなかったのである。
第十二条に、何人であっても娼妓の通信、面接、文書の閲読、物件の所持、購買其の外の自由を妨害してはならないと書いてある。娼妓の自由を保障している。
第十三条の六項では、本人の意に反して強引に娼妓名簿の登録申請又は登録削除申請をさせた者を罰すると書いてある。

娼妓の住まいを限定する一方で行動の自由を保障しているから娼妓は奴隷ではないと明治政府は主張したのである。娼妓が奴隷ではないということは四民平等を宣言した明治政府にとって大事なことであった。売春婦の人権を保障したのが「娼妓取締規則」であったのだ。
多くの評論家が、明治政府が売春婦を性奴隷にさせないために「娼妓取締規則」を制定したという肝心な事実を見逃している。
韓国の自称元慰安婦たちが日本軍に性奴隷にされたと日本政府を訴えているが、それは事実ではないだろう。戦前の日本政府と日本軍は「娼妓取締規則」を遵守し性奴隷をなくすために努力していた。四民平等・法治主義を国家の根幹にしていた日本にとってそれは必然のことであった。
慰安婦問題や南京大虐殺や沖縄県内の日本軍の命令で集団自決は起きたという話や避難所から日本軍に追い払われた話などの報道を見ると日本軍は無法者であったというイメージが湧いてくる。
しかし、事実は違う。日本軍ほど上意下達が徹底され軍律が厳しく、統制のとれた軍隊はなかっただろう。軍律が厳しいということは法律を遵守する精神が高かったということである。沖縄の場合は日本軍が壊滅状態になり軍規律が徹底されない状態になったために日本軍の違法行為が多く起こったのだ。ちゃんと規律を守った日本兵も多くいたが、そのことをマスコミが報道しないというのも沖縄の日本兵が無法者であったというイメージを持たせている。

 五・一五事件、二・二六事件の後は軍部が政権を掌握し政党政治は崩壊したが、法治主義は貫かれている。政府を掌握した軍部は国民総動員令など軍国主義に向かう時も法律をつくってそれを遵守している。「娼妓取締規則」は明治時代につくられた売春婦に関する法律である。日本軍はその法律を遵守しながら慰安婦募集をし、慰安所で管理した。募集も慰安所の経営も日本軍が指定した民間業者が行っている。売春は国が認める商売であり、軍隊が商売することはできなかったから日本軍が直接慰安婦にかかわることはできなかった。だから、慰安婦募集や慰安婦の直接管理は日本軍ではなく民間人がやったのである。それが日本の法律だったのだ。

 韓国の主張は、
〇日本軍が韓国の女性を集めて強制連行した。
〇慰安所の慰安婦は性奴隷であった。
〇十七歳未満の少女を慰安婦にした。
である。
〇売春は民間業者がやるものであり、公的機関が直接関わることはできなかった。危険な大陸で慰安婦の安全を守るために輸送するのは日本軍の役目であったが、それは慰安婦を募集する斡旋業者や慰安所を経営している楼王の依頼によるものであった。日本軍が直接慰安婦を募集することも強制連行することもなかった。
〇慰安婦の安全を守り、不当な扱いをされないために慰安所があり、「娼妓取締規則」を遵守させるために日本軍がいた。慰安所だったから慰安婦は性奴隷にされなかったのである。
〇韓国の公娼制度は一九一六年に「貸座敷娼妓取締規則」が公布されるが、十七歳未満の少女が公娼なることを禁じている。
日本軍が年齢制限を遵守した事実として、インドネシアで収容所のオランダ女性を同意なしに慰安婦にして、性奴隷同然に扱った事件がある。その時に十八歳未満の女性は慰安婦にしていない。同意なしに慰安婦にしたことは「貸座敷娼妓取締規則」に違反しているが、年齢については遵守していた。十八歳未満は未成年であり、未成年を慰安婦にしてはいけないという倫理観があったからだろう。
「貸座敷娼妓取締規則」に違反したインドネシアの慰安所の存在を知った軍司令部はその慰安所を廃止した。
このことからも日本軍が「貸座敷娼妓取締規則」を遵守していたことがわかる。

韓国の主張を認めれば、戦時中の日本政府は「娼妓取締規則」・「貸座敷娼妓取締規則」を破ったことになる。それをそれは明治維新から始まった法治主義の破綻である。
 
 顕彰も大事であるが、慰安婦は日本軍が指定した斡旋業者と楼王が分業で扱っていて日本の法律で日本軍が直接扱うことは法律で禁じられていたことを発表するべきだ。
 法と検証の二方面から韓国と闘うべきである。
 
慰安婦と女郎

 勝新太郎が主人公の「兵隊やくざ」シリーズは満州が舞台だった。
第二次世界大戦中の一九四三年(昭和一八年)、舞台はソビエト連邦との国境に近い満州の「孫呉の丘」。四万の兵力を誇る関東軍が駐屯していた。そこへ入隊してきたのは大宮貴三郎(勝新太郎)、浪花節語り(浪曲師)になれずやくざの用心棒をやっていた男である。大宮の指導係に任命されたのが、有田三年兵(田村高廣)であった。彼は名家の出身でインテリであり、幹部候補試験を意図的に落第したという男であった。


花やから まんしゅく節

沖縄の踊りの特徴はひざを曲げ腰を低くして立つ。この立ち方は体を前後左右に自由に移動でき、倒れにくい。空手に近い立ち方であり、剣豪宮本武蔵もひざを曲げ腰を低くして立つの剣術の基本であると言い、二刀を持って立っている宮本武蔵の画は、踊りの「花やから」よりは腰高ではあるが、ひざを曲げ腰を落としている。

高校生の時、八十代の女性がひざを曲げ体を上下に動かしながらリズムを取り、カチャーシーを踊っているのを見て感動したことがあった。私が今まで見た限りでは、体を上下に動かして踊るのは沖縄の踊りだけである。

「花やから」の少女たちは全員ひざを曲げ腰を落として踊っている。沖縄でここまで徹底して沖縄踊りの基本を貫いているのは「花やから」だけだ。
少女たちの足腰の強さには驚かされる。
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