こんばんは、白黒茶々です。
前回から私と波は、藤枝市にある蓮華寺池公園に来ています。 その園内をぐるりと廻り、池の畔にある藤枝市郷土博物館と藤枝市文学館を見て締めようというのですけど………
そちらでは「夢を描いた青年 石田徹也展 ~翔けぬけた10年のキセキ~」という特別展をやっていました。 すぐに皆さまを、その世界に導きたいところなのですけど………
まずは郷土博物館の常設展から入らせていただきます。 こちらには、藤枝市の歴史を旧石器時代から紹介&展示しています。志太平野に造られた縄文時代や弥生時代の遺跡やその出土品、律令時代にその地方の役所として機能していた志太郡衙など。それらの中には、前の日記で私たちが見てきた若王子古墳群から出土した副葬品もありました。
次の中世・近世ゾーンには、武田信玄・勝頼親子と徳川家康の攻防戦の舞台となった、田中城に関する展示も。このお城は、お堀や土塁が同心円状に築かれた独特の縄張りで、その様子を再現した模型は、見応え充分です さらに、家康が食したという鯛の天ぷら御膳の食品サンプルも必見です。 元和2年(1616年)1月21日に家康は鷹狩りの帰りに田中城に立ち寄り、そこで京都で流行しているという鯛の天ぷらをお腹一杯食べました。しかし、その夜に腹痛と食あたりを起こしたのです。その後も病状は悪化していき、4月17日に駿府城で亡くなりました。
藤枝は宿場町としても栄え、餅米のおこわをクチナシの色素で染めた「瀬戸の染飯(そめいい)」は名物となっています。 その食品サンプルも、オススメしておきます。
近代・現代にもなると、明治維新の変革と西洋文化の浸透が顕著化してきます。大正2年(1913年)には軽便鉄道の駿遠線が開業し、昭和23年(1948年)に藤枝市の大手駅から相良、浜岡、横須賀の沿岸部を通り、袋井駅に至る総延長64,6Kmもの全線が開通しました。 その路線を実際に走っていたミニSLが、博物館の屋外に展示されているのですよ。 駿遠線は、軽便としては日本一の営業距離を誇っていたのですけど、自動車の普及などにより、昭和45年(1970年)に完全に廃線となりました。
………と、つい前置きが長くなったというか、脱線してしまいましたけど、皆さんは石田徹也さんのことをご存知でしょうか?彼は一風変わった画家で、昭和48年(1973年)に焼津市に生まれました。
今回の特別展では、彼が小学校で賞を取った作品も展示されていました。 このことがきっかけで、絵に関心を持つようになったと思われます。
また、彼の少年の頃の時代背景を映す資料として、ゲームウォッチやファミコン、「タッチ」なども展示されていました。その後、彼は県立焼津中央高校を経て武蔵野美術大学に進学し、卒業後は東京に居を構えて精力的に絵画の製作をおこないました。
そんな彼が実際に使っていたパレットや絵筆もありましたよ。
さらに直筆の「夢日記」や………
アイデアノートも展示されていたのですけど、かなり几帳面というか緻密に書かれていますね。 石田さんの作品は、創造力あふれる独特の筆致で描かれていて、現代に生きる若者たちの苦悩や葛藤、現代社会の矛盾や不条理を、ときにはユーモラスに、ときには風刺的に描いています。といったトコで、いよいよ皆さまをその石田ワールドにご案内いたします。
今回の特別展は、ストロボを焚かなければ自由に撮影できるので、遠慮なく撮らせていただきました。
まずは「クラゲの夢」です。クラゲに包まれた青年が、心地良さそうに眠っていますね。
次も似たような作品で、こちらの「ダンゴ虫の睡眠」では、ダンゴ虫をベッドに見立てています。 これを実際にやってみたいという方も、いらっしゃると思います。
こちらの「兵士」は、手負いのサラリーマンが建物の谷間に逃げ込んでいます。 いや、彼にとって心地よい場所が、そこなのかも知れませんね。
こちらでは、側溝の中に避難してきた人を描いていますよ。よく見てみたら、後方にドアが描かれているので、すべて部屋の中でやっているということに。
さらに、横断歩道を掘ったら、人の顔が こうなると、棺桶にも見えてしまいますよ。
こちらは社会風刺なのでしょうか?オウム貝の中身があの教祖の顔になっていますね。
こちらはいったい……… 「あしたのジョー」みたいなボクサーと、リングのコーナーポストと一体化したアントニオ猪木氏が意味するものは何でしょうか? ちなみにこの作品は、雑誌にも掲載されたそうです。
プロレスで覆面狩りをしたら、顔が指だったというのは、ユニークですね。 しかも、落書きのようなその表情の脱力感も、たまりません。
ここからは、抽象画部門(?)に戻ります。「めばえ」という作品は、授業風景を描いているのですけど、顕微鏡と一体化した生徒の1人は、教師に押さえ込まれています。
こちらの労働者と思われる人は、フォークリフトと同化していますよ。しかも、運搬している物がカバンというのが、なんとも。
同化といえば、こちらの「SLになった人」も、うまい具合にはめ込まれていますね。
階段と同化している人は非常ボタンを押していて、安心できる場所を求めて、屋外に避難していることを表現しています。 しかし足元が浮いていることから、そこでも落ち着かなかったみたいです。
「燃料補給のような食事」は、石田さんの作品の中でも特に有名です。 仕事に追われる労働者が、空腹を満たすためだけに牛丼屋で食事する様子を描いています。ただ、この光景があまりに強烈で、私はセルフのスタンドで車の給油をする度に、自分がその店員になったような錯覚に陥ってしまいます。
こちらの「飛べなくなった人」は、彼の代表作と言ってもいいでしょう
その前年に発表された「ビアガーデン発」は、飛行機と一体化した人が千鳥足で、両脇を支えられながらも楽しそうにしていただけに、かえって物悲しさを感じてしまいます。 それもそのハズ、「飛べなく………」のほうはバブル崩壊後に廃墟となった遊園地の遊具と、リストラなどで見捨てられた人の姿が重ね合わされているのですよ。
これらの他にも、学校の校舎にはめ込まれた人やバラバラになった人がパーツのように箱詰めされている姿など、かなりショッキングな作品も描かれたのですけど、それらは今回の特別展にはありませんでした。
しかし、その才能が認められ始めた矢先の平成17年(2005年)5月に、石田さんは踏み切り事故で31歳のあまりにも短い生涯を閉じてしまいました。 彼の死後にアトリエで見つかったこちらの無題の作品は、彼の遺作とされています。彼の自画像と思われる白いシャツを着た青年が、白いキャンバスを見つめています。何もないところにこれから何かを描こうとしているのでしょうか?それとも真っ白でもう描けないということを表しているのでしょうか?もし後者だったとしたら、彼の死は自殺だったのかも知れません。
特別展を出たところのロビーには、記念撮影用に設けられた石田作品の「飛べなくなった人」の書き割りがあったので、私は思わず体を突っ込んでしまいました。 題して………
「飛べなくなった白黒茶々さん」です。
※喜び勇んで突っ込んでいったので、「翔んでる白黒茶々さん」といったほうがいいのでは?(編集部注)
観賞後の感想を貼り付けるコーナーで見つけたこちらの絵は、なんかカワイイです。
石田徹也さんは、創作を始めてから亡くなるまでの10年の間に、200点以上の作品を遺しました。 それらはNHKの「新日曜美術館」で紹介され、さらに世界でも評価されました。さらに来年の4月には、ピカソの「ゲルニカ」が展示されているスペインの国立美術館・ソヒィア王妃芸術センターでの個展の開催が予定されています。それによって、彼の作品はますます価値が上がることでしょう もし皆さまのお近くで石田徹也さんのの作品展がおこなわれていたら、ぜひ一度ご覧になってくださいませ。
「牛丼屋でノズルを持った店員が現れたら、とりあえず『満タンお願いします』と言っておこうかな」と、すでにお考え方は、こちらに投票してやってください。
前回から私と波は、藤枝市にある蓮華寺池公園に来ています。 その園内をぐるりと廻り、池の畔にある藤枝市郷土博物館と藤枝市文学館を見て締めようというのですけど………
そちらでは「夢を描いた青年 石田徹也展 ~翔けぬけた10年のキセキ~」という特別展をやっていました。 すぐに皆さまを、その世界に導きたいところなのですけど………
まずは郷土博物館の常設展から入らせていただきます。 こちらには、藤枝市の歴史を旧石器時代から紹介&展示しています。志太平野に造られた縄文時代や弥生時代の遺跡やその出土品、律令時代にその地方の役所として機能していた志太郡衙など。それらの中には、前の日記で私たちが見てきた若王子古墳群から出土した副葬品もありました。
次の中世・近世ゾーンには、武田信玄・勝頼親子と徳川家康の攻防戦の舞台となった、田中城に関する展示も。このお城は、お堀や土塁が同心円状に築かれた独特の縄張りで、その様子を再現した模型は、見応え充分です さらに、家康が食したという鯛の天ぷら御膳の食品サンプルも必見です。 元和2年(1616年)1月21日に家康は鷹狩りの帰りに田中城に立ち寄り、そこで京都で流行しているという鯛の天ぷらをお腹一杯食べました。しかし、その夜に腹痛と食あたりを起こしたのです。その後も病状は悪化していき、4月17日に駿府城で亡くなりました。
藤枝は宿場町としても栄え、餅米のおこわをクチナシの色素で染めた「瀬戸の染飯(そめいい)」は名物となっています。 その食品サンプルも、オススメしておきます。
近代・現代にもなると、明治維新の変革と西洋文化の浸透が顕著化してきます。大正2年(1913年)には軽便鉄道の駿遠線が開業し、昭和23年(1948年)に藤枝市の大手駅から相良、浜岡、横須賀の沿岸部を通り、袋井駅に至る総延長64,6Kmもの全線が開通しました。 その路線を実際に走っていたミニSLが、博物館の屋外に展示されているのですよ。 駿遠線は、軽便としては日本一の営業距離を誇っていたのですけど、自動車の普及などにより、昭和45年(1970年)に完全に廃線となりました。
………と、つい前置きが長くなったというか、脱線してしまいましたけど、皆さんは石田徹也さんのことをご存知でしょうか?彼は一風変わった画家で、昭和48年(1973年)に焼津市に生まれました。
今回の特別展では、彼が小学校で賞を取った作品も展示されていました。 このことがきっかけで、絵に関心を持つようになったと思われます。
また、彼の少年の頃の時代背景を映す資料として、ゲームウォッチやファミコン、「タッチ」なども展示されていました。その後、彼は県立焼津中央高校を経て武蔵野美術大学に進学し、卒業後は東京に居を構えて精力的に絵画の製作をおこないました。
そんな彼が実際に使っていたパレットや絵筆もありましたよ。
さらに直筆の「夢日記」や………
アイデアノートも展示されていたのですけど、かなり几帳面というか緻密に書かれていますね。 石田さんの作品は、創造力あふれる独特の筆致で描かれていて、現代に生きる若者たちの苦悩や葛藤、現代社会の矛盾や不条理を、ときにはユーモラスに、ときには風刺的に描いています。といったトコで、いよいよ皆さまをその石田ワールドにご案内いたします。
今回の特別展は、ストロボを焚かなければ自由に撮影できるので、遠慮なく撮らせていただきました。
まずは「クラゲの夢」です。クラゲに包まれた青年が、心地良さそうに眠っていますね。
次も似たような作品で、こちらの「ダンゴ虫の睡眠」では、ダンゴ虫をベッドに見立てています。 これを実際にやってみたいという方も、いらっしゃると思います。
こちらの「兵士」は、手負いのサラリーマンが建物の谷間に逃げ込んでいます。 いや、彼にとって心地よい場所が、そこなのかも知れませんね。
こちらでは、側溝の中に避難してきた人を描いていますよ。よく見てみたら、後方にドアが描かれているので、すべて部屋の中でやっているということに。
さらに、横断歩道を掘ったら、人の顔が こうなると、棺桶にも見えてしまいますよ。
こちらは社会風刺なのでしょうか?オウム貝の中身があの教祖の顔になっていますね。
こちらはいったい……… 「あしたのジョー」みたいなボクサーと、リングのコーナーポストと一体化したアントニオ猪木氏が意味するものは何でしょうか? ちなみにこの作品は、雑誌にも掲載されたそうです。
プロレスで覆面狩りをしたら、顔が指だったというのは、ユニークですね。 しかも、落書きのようなその表情の脱力感も、たまりません。
ここからは、抽象画部門(?)に戻ります。「めばえ」という作品は、授業風景を描いているのですけど、顕微鏡と一体化した生徒の1人は、教師に押さえ込まれています。
こちらの労働者と思われる人は、フォークリフトと同化していますよ。しかも、運搬している物がカバンというのが、なんとも。
同化といえば、こちらの「SLになった人」も、うまい具合にはめ込まれていますね。
階段と同化している人は非常ボタンを押していて、安心できる場所を求めて、屋外に避難していることを表現しています。 しかし足元が浮いていることから、そこでも落ち着かなかったみたいです。
「燃料補給のような食事」は、石田さんの作品の中でも特に有名です。 仕事に追われる労働者が、空腹を満たすためだけに牛丼屋で食事する様子を描いています。ただ、この光景があまりに強烈で、私はセルフのスタンドで車の給油をする度に、自分がその店員になったような錯覚に陥ってしまいます。
こちらの「飛べなくなった人」は、彼の代表作と言ってもいいでしょう
その前年に発表された「ビアガーデン発」は、飛行機と一体化した人が千鳥足で、両脇を支えられながらも楽しそうにしていただけに、かえって物悲しさを感じてしまいます。 それもそのハズ、「飛べなく………」のほうはバブル崩壊後に廃墟となった遊園地の遊具と、リストラなどで見捨てられた人の姿が重ね合わされているのですよ。
これらの他にも、学校の校舎にはめ込まれた人やバラバラになった人がパーツのように箱詰めされている姿など、かなりショッキングな作品も描かれたのですけど、それらは今回の特別展にはありませんでした。
しかし、その才能が認められ始めた矢先の平成17年(2005年)5月に、石田さんは踏み切り事故で31歳のあまりにも短い生涯を閉じてしまいました。 彼の死後にアトリエで見つかったこちらの無題の作品は、彼の遺作とされています。彼の自画像と思われる白いシャツを着た青年が、白いキャンバスを見つめています。何もないところにこれから何かを描こうとしているのでしょうか?それとも真っ白でもう描けないということを表しているのでしょうか?もし後者だったとしたら、彼の死は自殺だったのかも知れません。
特別展を出たところのロビーには、記念撮影用に設けられた石田作品の「飛べなくなった人」の書き割りがあったので、私は思わず体を突っ込んでしまいました。 題して………
「飛べなくなった白黒茶々さん」です。
※喜び勇んで突っ込んでいったので、「翔んでる白黒茶々さん」といったほうがいいのでは?(編集部注)
観賞後の感想を貼り付けるコーナーで見つけたこちらの絵は、なんかカワイイです。
石田徹也さんは、創作を始めてから亡くなるまでの10年の間に、200点以上の作品を遺しました。 それらはNHKの「新日曜美術館」で紹介され、さらに世界でも評価されました。さらに来年の4月には、ピカソの「ゲルニカ」が展示されているスペインの国立美術館・ソヒィア王妃芸術センターでの個展の開催が予定されています。それによって、彼の作品はますます価値が上がることでしょう もし皆さまのお近くで石田徹也さんのの作品展がおこなわれていたら、ぜひ一度ご覧になってくださいませ。
「牛丼屋でノズルを持った店員が現れたら、とりあえず『満タンお願いします』と言っておこうかな」と、すでにお考え方は、こちらに投票してやってください。
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