こんばんは、白黒茶々です。
前回からの話の流れで私は大坂城に来ていて、これからNHK大河ドラマ「真田丸」のタイトルにもなっている真田丸があったという場所に向かおうとしているところです。

慶長15年(1600年)の関ヶ原の戦いで権威を失った豊臣家は、勝者の徳川家康によって一大名の扱いとなりました。
しかし、その居城は大坂城のままで、さらに豊臣秀頼と彼の母の淀殿は、決して服従の態度を取ることはなく、家康にとっては油断ならない存在となっていました。
「これは、いずれ攻め滅ぼさなければ
」
と決意した家康は、諸大名に命じて伊賀上野(現在の伊賀市)、彦根、膳所(大津市)、姫路、丹波篠山、名古屋、………などのお城を大改築させて大坂の包囲網をつくり、大坂攻めの準備を始めました。
対する豊臣方のいる大坂は、難攻不落の大坂城はもちろんのこと、その城下町もお堀などで囲った総構えによって守られていて、そう簡単には攻略できないようになっていました。しかし、その南側は守りが弱く、徳川方にとっては突破口となる恐れがありました。
そこで、豊臣家に忠誠を誓った真田信繁(幸村)はそこに出城となる真田丸を築き、来たるべき戦に備えました。

………という話の流れに乗って、私は大阪城公園駅から南に2駅行ったところにある、大阪環状線の玉造駅というところで列車を降りました。
この近くには、地下鉄のほうの玉造駅もあるので、アクセスしやすいですよ。

そこから西の方向に歩いていったら、間もなくしてマンションなどに「真田山」の地名が見られるようになりました。
そして、駅を出てから8分ほどで………

私は、真田丸があったと云われていた三光神社にたどり着きました。ちょっと高台になっているうえに木々が鬱蒼と生い茂っていて、なんとなくそれらしい雰囲気がありますね。

その神社では、真田氏の六文銭の家紋をあしらった絵馬も扱われていました。それらを失礼してちょっと見させてもらったら、戦では特に籠城戦に強かった真田氏にあやかって、受験や賭け事への勝利を祈願したものが多数見られました。

そして、こちらが三光神社の拝殿にございます。よく見たら、その片隅に真田関連の書き割りがあるではないですか

私は吸い込まれるように、その書き割りに顔を装着しました。
全部をお見せできないのが残念ですけど、おかげで手軽に真田気分を味わうことができました。

この神社の境内には、勇ましい真田信繁の銅像もありましたよ

せっかくなので、同じようなポーズで写ってみました。

さらにその脇には、「真田の抜け穴」なる地下通路が口を開けていましたよ。

さすがに入口は封鎖されているのですけど、穴の奥が折れて見えなくなっているところが、冒険心をそそります。
関ヶ原の戦いから3年後の慶長8年(1603年)に、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸に幕府を開きました。それでも豊臣方はこの動きを静観していて、「秀頼を次の将軍にするために、家康殿はそうしたのであろう」と思い込んでいました。
ところが、家康は2年ほどでその将軍職を息子の秀忠に譲り、徳川の世襲であることを内外に示したのです。
「おのれ
家康」
なんか、淀殿の歯ぎしりが聞こえてきそうです。
とにかく、その事によって徳川家と豊臣家の対立はかなり深まりました。
両者をめぐっては、年を重ねるに連れて、導火線や火薬が敷き詰められた状態となっていき、あとは火種があればいつ爆発してもおかしくありませんでした。そして、その火種となる事件がついに起きてしまいました。
秀頼が修築した京都の方向寺の梵鍾に「国家安康」「君臣豊楽」と刻まれているのを見つけた家康は、大激怒!
家と康を離れさせるとは、ワシを滅ぼそうというのだな
」と。それはどう見ても、言いがかりとしか思えないのですけど。いや、彼はとにかく何でもいいから、闘いを吹き掛ける口実を作りたかったのかも。いや、ひょっとしたら家臣の本多正信あたりに豊臣方の粗探しを依頼しておいて「大御所様、いいネタがありましたぞ
」となったのかも知れませんね。
それだったら、秀頼は「こっちは豊と臣をひっくり返しているんだから、文句は言わせないゾ!」と反論しておげばよかったのでは?とにかく、その「方向寺の鍾銘事件」がきっかけとなって、徳川方による大坂攻めがおこなわれることになったのです。

………と、せっかく話が盛り上がった(?)ところで申し訳ないのですけど、最近おこなわれた地質調査などによって、真田丸は三光神社ではなく、他の場所にあったということが判明しました。
三光神社には、このようなのぼりも立てられているというのに。そうしたら、正確な真田丸はどこにあるのでしょうか?
三光神社からさらに西に200mほど行ったところにある………

こちらの心眼寺のあたりに、真田丸はあったとされています。

そのお寺の入口には、「真田幸村出丸城跡」なる石碑も建てられていますし。

さらにその境内には、真田信繁のお墓も造られていました。

その隣の、一際目立った観音様が祀られている興徳寺や………

大阪明星中学校も含めたちょっとした高台のあるところが、正真正銘の真田丸があった場所ということになりました。

その中学校のグラウンド脇には、今年の1月に新たに真田丸の記念碑が建てられました。
慶長19年(1614年)11月に、ついに徳川軍約20万人による大坂城の総攻撃が始まりました。いわゆる「大坂冬の陣」です。対して、大坂城に籠城した豊臣方は10万人あまり。そのような中で、真田信繁は真田丸に立て籠って、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎、寺沢広高の軍を相手に奮闘しました。この戦いでは、信繁が籠城戦が得意ということもあって、徳川方は大打撃を受けてしまいました。大坂冬の陣の戦死者のうちの8割は、真田丸でおきたとされています。
しかし、徳川家康はまた新たな手で大坂城を攻撃したのです。川に守られていながらも、お城との距離が短い北東の方向から、大砲を撃ち込み続けたら、淀殿はパニックに陥り「こうなったら、和睦じゃ」と。その後結ばれた講和条約で、大坂城の外堀を埋め立てることになりました。
ところが、家康は肝心の「そ○ぼり」のあたりを敢えてあやふやにしたのでしょうか?ダマして大坂城の総堀(すべての堀)を埋めてしまったのです。その際には、総構えの南の守りの要だった真田丸も、徹底的に破壊されてしまいました。こうなってしまうと、大坂城の防御力はかなり落ちてしまいます。
翌慶長20年(1615年)の5月に、徳川軍は再び大坂城を攻め(大坂夏の陣)、その際に決死の覚悟で城外で戦った真田信繁は討ち死に。大坂城は落城し、豊臣秀頼と淀殿は自害してしまいました。

しかし、新たな真田丸の案内標識は、まだ梱包されていますね。
つい長く語ってしまいましたけど、真田丸に関わる史実を紐解いていったら、私が思っていた以上の話がごろごろと出てきました。
その真田丸の本来の場所は、大阪明星中学校とその周辺の寺院のあたりなのですけど、古来から信じられてきた三光神社にはその雰囲気はありありで、信繁の銅像やいわく付きの抜け穴、顔を突っ込むための書き割りの穴などがあるので、真田丸目当ての方たちには、こちらも合わせて訪れることをオススメします。
大河ドラマのほうも、これからの展開に目が離せませんよね。ドラマの終盤では、真田丸を舞台にした攻防がどのように描かれるのか?そちらのほうも、楽しみにしています。

「さなだ虫」という歌をご存知のな方は、こちらに投票してやってください。
前回からの話の流れで私は大坂城に来ていて、これからNHK大河ドラマ「真田丸」のタイトルにもなっている真田丸があったという場所に向かおうとしているところです。


慶長15年(1600年)の関ヶ原の戦いで権威を失った豊臣家は、勝者の徳川家康によって一大名の扱いとなりました。


「これは、いずれ攻め滅ぼさなければ

と決意した家康は、諸大名に命じて伊賀上野(現在の伊賀市)、彦根、膳所(大津市)、姫路、丹波篠山、名古屋、………などのお城を大改築させて大坂の包囲網をつくり、大坂攻めの準備を始めました。

対する豊臣方のいる大坂は、難攻不落の大坂城はもちろんのこと、その城下町もお堀などで囲った総構えによって守られていて、そう簡単には攻略できないようになっていました。しかし、その南側は守りが弱く、徳川方にとっては突破口となる恐れがありました。

そこで、豊臣家に忠誠を誓った真田信繁(幸村)はそこに出城となる真田丸を築き、来たるべき戦に備えました。

………という話の流れに乗って、私は大阪城公園駅から南に2駅行ったところにある、大阪環状線の玉造駅というところで列車を降りました。



そこから西の方向に歩いていったら、間もなくしてマンションなどに「真田山」の地名が見られるようになりました。


私は、真田丸があったと云われていた三光神社にたどり着きました。ちょっと高台になっているうえに木々が鬱蒼と生い茂っていて、なんとなくそれらしい雰囲気がありますね。


その神社では、真田氏の六文銭の家紋をあしらった絵馬も扱われていました。それらを失礼してちょっと見させてもらったら、戦では特に籠城戦に強かった真田氏にあやかって、受験や賭け事への勝利を祈願したものが多数見られました。


そして、こちらが三光神社の拝殿にございます。よく見たら、その片隅に真田関連の書き割りがあるではないですか


私は吸い込まれるように、その書き割りに顔を装着しました。



この神社の境内には、勇ましい真田信繁の銅像もありましたよ


せっかくなので、同じようなポーズで写ってみました。


さらにその脇には、「真田の抜け穴」なる地下通路が口を開けていましたよ。


さすがに入口は封鎖されているのですけど、穴の奥が折れて見えなくなっているところが、冒険心をそそります。

関ヶ原の戦いから3年後の慶長8年(1603年)に、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸に幕府を開きました。それでも豊臣方はこの動きを静観していて、「秀頼を次の将軍にするために、家康殿はそうしたのであろう」と思い込んでいました。

「おのれ

なんか、淀殿の歯ぎしりが聞こえてきそうです。


両者をめぐっては、年を重ねるに連れて、導火線や火薬が敷き詰められた状態となっていき、あとは火種があればいつ爆発してもおかしくありませんでした。そして、その火種となる事件がついに起きてしまいました。

秀頼が修築した京都の方向寺の梵鍾に「国家安康」「君臣豊楽」と刻まれているのを見つけた家康は、大激怒!




それだったら、秀頼は「こっちは豊と臣をひっくり返しているんだから、文句は言わせないゾ!」と反論しておげばよかったのでは?とにかく、その「方向寺の鍾銘事件」がきっかけとなって、徳川方による大坂攻めがおこなわれることになったのです。

………と、せっかく話が盛り上がった(?)ところで申し訳ないのですけど、最近おこなわれた地質調査などによって、真田丸は三光神社ではなく、他の場所にあったということが判明しました。

三光神社からさらに西に200mほど行ったところにある………

こちらの心眼寺のあたりに、真田丸はあったとされています。


そのお寺の入口には、「真田幸村出丸城跡」なる石碑も建てられていますし。


さらにその境内には、真田信繁のお墓も造られていました。


その隣の、一際目立った観音様が祀られている興徳寺や………

大阪明星中学校も含めたちょっとした高台のあるところが、正真正銘の真田丸があった場所ということになりました。


その中学校のグラウンド脇には、今年の1月に新たに真田丸の記念碑が建てられました。

慶長19年(1614年)11月に、ついに徳川軍約20万人による大坂城の総攻撃が始まりました。いわゆる「大坂冬の陣」です。対して、大坂城に籠城した豊臣方は10万人あまり。そのような中で、真田信繁は真田丸に立て籠って、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎、寺沢広高の軍を相手に奮闘しました。この戦いでは、信繁が籠城戦が得意ということもあって、徳川方は大打撃を受けてしまいました。大坂冬の陣の戦死者のうちの8割は、真田丸でおきたとされています。
しかし、徳川家康はまた新たな手で大坂城を攻撃したのです。川に守られていながらも、お城との距離が短い北東の方向から、大砲を撃ち込み続けたら、淀殿はパニックに陥り「こうなったら、和睦じゃ」と。その後結ばれた講和条約で、大坂城の外堀を埋め立てることになりました。

ところが、家康は肝心の「そ○ぼり」のあたりを敢えてあやふやにしたのでしょうか?ダマして大坂城の総堀(すべての堀)を埋めてしまったのです。その際には、総構えの南の守りの要だった真田丸も、徹底的に破壊されてしまいました。こうなってしまうと、大坂城の防御力はかなり落ちてしまいます。

翌慶長20年(1615年)の5月に、徳川軍は再び大坂城を攻め(大坂夏の陣)、その際に決死の覚悟で城外で戦った真田信繁は討ち死に。大坂城は落城し、豊臣秀頼と淀殿は自害してしまいました。


しかし、新たな真田丸の案内標識は、まだ梱包されていますね。

つい長く語ってしまいましたけど、真田丸に関わる史実を紐解いていったら、私が思っていた以上の話がごろごろと出てきました。







ちょっとご無沙汰しているうちに、真田丸におでかけになられたのですねー!
行きたくてもなかなか足を運べないので、リポートでたっぷり楽しませていただきました。
それにしても、顔ハメ幸村の横、佐助の顔があいているのが惜しまれますぞ!!
「真田丸」ブームと、青春18きっぷを使っての列車に乗っかって、大阪の真田丸跡に行ってきました。
その真田丸の雰囲気は、味わうことはできたでしょうか?
そういえば、猿飛さんのお顔の部分が抜けていましたね。それにふさわしい人を連れて行けばよかったです。