こんばんは、白黒茶々です。
春の訪れとともにワンコイベントやオフ会など、お仲間と逢う機会が増えていくのですけど、それまでの白黒茶々家の行動は、単独で歴史散歩のようなものをするのがメインとなっていました。 そういうこともあって、もう少し歴史ネタにお付き合いくださいませ。 そのような路線で、今回題材に挙げたのは………
日記のタイトルにも出ている通り、田沼意次(おきつぐ)公(以下敬称略)であります。皆様も彼の名前は、教科書で見られたことがあると思います。 意次は江戸時代中期に幕府の要職の老中に就き、諸々の改革を推し進めていきました。しかし、賄賂(ワイロ)好きな政治家という悪評が憑いたうえに失脚するという、悪いイメージを引きずっているのではないでしょうか?
そこで、またしても箔波茶々の歴史探険隊の出番です 今回は田沼意次にゆかりのある場所を訪れつつ、彼の人物像を探ってみようと思います。
ということで、私・箔・波の白黒茶々家の1人と2頭は、静岡県牧之原市相良というところにやって来ましたよ ところで、地名となっている「相良」って、皆様は読めるでしょうか?正解は「さがら」であります。ちなみに私たちの目の前にある立派な建物は、かつては相良町役場だった牧之原市役所の相良庁舎にございます。
その向かいには、「相良城本丸跡」という石碑が立っています。 実はこのあたりには、田沼意次の居城だった相良城があったのですよ。すでに日が傾いて逆光で見えにくいので………
こちらの石碑で、いかがでしょうか?「相良城址」と刻まれているみたいですけど、難しい書体ですね。 その相良城の本丸跡には現在………
このような城郭風の立派な建物がそびえ立っています。 ただし、この地域の歴史や田沼意次にまつわる資料を展示している牧之原市史料館はこちらの1階部分だけで、その上はホールとなっています。
相良小学校の外側には、お城の二の丸の土塁と、その上には松が残っています。
田沼意次は、紀州藩主徳川吉宗が8代将軍となって江戸に上がったときに、300石(のちに600石に加増)の旗本として彼のお供をしていた意行(もとゆき)の子として、享保4年(1719年)に江戸で生まれました。ちなみに、幼名は龍助。その後、彼は吉宗に才能を見いだされ、吉宗の子の家重の小姓として取り立てられました。 のちに9代将軍となった家重は、意次のことを「またうどのもの(正直者・律儀者)」と高く評価していて、「正直者・律儀者なので、よく信任して用いなさい」と言い遺しました。
校庭の内側にあるこちらの松も、相良城の遺構のようですね。
そして10代将軍家治のときに、意次は側用人から老中職に大抜擢されたのです それにともなって、石高のほうも劇的に加増されていき、最終的には5万7千石の大名となりました。
宝暦8年(1758年)に相良藩主となった意次は、その10年後の明和5年(1768年)に相良御殿があった地に相良城を築城。12年もかけて、安永9年(1780年)に完成させました。 その規模は東西500m、南北450mで総面積の約22万5�は、東京ドーム約5コぶんの広さ。総石垣づくりで3重のお堀に囲まれ、その上には3層天守を含めた白壁の城郭がそびえ立っていました。遠くの海上からも眺められたそのお城は、竜宮城のような素晴らしいものだったそうです。
近くにあった看板のワンコの顔が、アート過ぎて強烈です
家治のもとで老中となった意次は、幕府の中心にいながら財政を立て直すために画期的な政策を次々と打ち出していきました。 そのいくつかを挙げていくと………
経済面では、今までになかった「予算」という概念を初めて打ち立てて、計画管理財政を実施。また、東日本と西日本で別々に出回っていた通貨を統一し、流通しやすくしました。 さらに、海外貿易では金銀の流出を抑え、海産加工品を輸出したりして外貨の獲得に努めました。 それから、農民からの年貢はそのままにして、商人には流通税を課したのですけど、その代わりに流通の独占権を与える「株仲間」という税制改革もおこないました。
社会面では、印旛沼の干拓工事や、蝦夷地の開発計画を打ち立てました。
相良庁舎の東側の小路に沿った水路には………
相良城の数少ない遺構として、仙台河岸(せんだいがし)の石垣が残っています。江戸時代初期頃から発展した、切り石を隙間なく積んだ「切り込みハギ」という工法で築かれた石垣が美しいですね。
意次は領国の相良では、道路を4間にし、城下町を整備するなかで屋根の瓦葺きを推進させ、貧しい人にはお金を与えました。
飢饉対策にもぬかりはなく、天明の飢饉の際には、領民に50日ぶんの食料費を与え、願書を出せば返さなくてもいいようにしました。
さらに、こちらを起点として榛原、吉田、大井川を経て藤枝宿に至る田沼街道だけではなく相良港も整備し、陸路と航路の流通をより便利にしました。
しかし、そのような意次の改革を快く思わない人もいたのです。小さな旗本から成り上がったのが、気に入らなかったのかも知れませんね。 それに加えて、その頃には江戸の大火災や浅間山の噴火、江戸の大洪水といった災害に飢饉も起こって、その不安や不満は幕府や意次に向けられました。さらに最大の理解者だった徳川家治が亡くなったこともあって、天明7年(1787年)に彼は老中を失脚させられてしまいました。
意次は、その翌年の天明8年(1788年)に亡くなりました。享年70歳。同じ年に相良城は徹底的に破却され「竜宮城のようだ」と言われた名城は、わずか8年で姿を消してしまいました。
意次の代わりに老中になったのは、8代将軍吉宗の孫にあたる奥州白河藩主・松平定信であります。彼が寛政の改革を執行したことは、皆様も教科書のほうですでにご存知かと思います。
しかしその改革の中身は、財政再建を歳出削減によっておこない、通貨制度を旧来のものに戻し、米作重視のために農民を農村に縛り付け、外国との貿易を規制し、印旛沼や蝦夷地の開発を中止し、朱子学以外の学問を禁止し、………といった、田沼政治を否定するものばかりでした。 それに加えて倹約の強制や、出版・思想の統制など締め付けが強く、時代に逆行する政策だったこともあって、6年で終了。結果的に、幕府の権威をより弱めてしまいました。
牧之原市の南の外れ、御前崎市との境となる地頭方地区には、桃林堂さんという和菓子屋があります。 今回の田沼意次レポートは、そのお店の名物を買ってきて締めることにします。 そのような流れで、私が手にしたお土産は………
ワイロ最中なるものにございます。 意次の賄賂政治家という悪評を、逆手にとった商品ですね。それにしても、この商品のどのあたりがワイロなのか、さっそく検証&試食してみることにしましょう
なんか、箱の側面にはこのようなただし書きがありましたよ。 正しい論理感と遊び心?もちろんありますよ 私の場合は、それらの他にも好奇心も併せ持っているのですけど。
箱を開けたら、饅頭……… の写真に加えて、このようなセリフも。これは、二重底になっていることを表現しているみたいですね。 あやしいニオイがする、その饅頭の下には………
小判……… の形をした最中が6コ詰められていました。 それだけではなく、金のパッケージに入ったティーパックの相良茶2袋と、「したこゝろ」と記された、のし袋も。
そうしたら小判、いや、ワイロ最中をいっただきま~す 今回、私は粒あん入りにしたのですけど、お店では抹茶あんも選ぶことができます。ちなみにこのワイロセットは、税込1000円にございます。
このワイロ最中は、田沼意次の悪評に一役買っているようにも見えるのですけど、その蓋の裏側には、彼の功績が丁寧にまとめられています。
意次に取って代わって老中に登板した松平定信とその政権は、自分の政策を正当化させるためにも、意次の政治をことごとく否定しました。また、田沼政治がうまく機能する前に終了させられたこともあって、悪評が広まってしまいました。 しかし、賄賂汚職・悪徳政治家といった悪評はのちにつくられたもので、全く根拠のないものでした。
意次の政策は革新的で先進的、画期的でもあり、さらには庶民思いでした。しかし、当時の日本を藩という枠でしか物事を考えられなかった人々には、なかなか理解されませんでした。そんな彼が、最近になって見直されてきているみたいですね。皆様も先入観を取っ払って、社会の変化を的確にとらえ、新時代を見据えた天才的な政治家・田沼意次に思いを馳せてみてくださいませ。
「のちの世にワイロ最中ができたのも、田沼意次の功績かな」と思われた方は、こちらに投票してやってください。
春の訪れとともにワンコイベントやオフ会など、お仲間と逢う機会が増えていくのですけど、それまでの白黒茶々家の行動は、単独で歴史散歩のようなものをするのがメインとなっていました。 そういうこともあって、もう少し歴史ネタにお付き合いくださいませ。 そのような路線で、今回題材に挙げたのは………
日記のタイトルにも出ている通り、田沼意次(おきつぐ)公(以下敬称略)であります。皆様も彼の名前は、教科書で見られたことがあると思います。 意次は江戸時代中期に幕府の要職の老中に就き、諸々の改革を推し進めていきました。しかし、賄賂(ワイロ)好きな政治家という悪評が憑いたうえに失脚するという、悪いイメージを引きずっているのではないでしょうか?
そこで、またしても箔波茶々の歴史探険隊の出番です 今回は田沼意次にゆかりのある場所を訪れつつ、彼の人物像を探ってみようと思います。
ということで、私・箔・波の白黒茶々家の1人と2頭は、静岡県牧之原市相良というところにやって来ましたよ ところで、地名となっている「相良」って、皆様は読めるでしょうか?正解は「さがら」であります。ちなみに私たちの目の前にある立派な建物は、かつては相良町役場だった牧之原市役所の相良庁舎にございます。
その向かいには、「相良城本丸跡」という石碑が立っています。 実はこのあたりには、田沼意次の居城だった相良城があったのですよ。すでに日が傾いて逆光で見えにくいので………
こちらの石碑で、いかがでしょうか?「相良城址」と刻まれているみたいですけど、難しい書体ですね。 その相良城の本丸跡には現在………
このような城郭風の立派な建物がそびえ立っています。 ただし、この地域の歴史や田沼意次にまつわる資料を展示している牧之原市史料館はこちらの1階部分だけで、その上はホールとなっています。
相良小学校の外側には、お城の二の丸の土塁と、その上には松が残っています。
田沼意次は、紀州藩主徳川吉宗が8代将軍となって江戸に上がったときに、300石(のちに600石に加増)の旗本として彼のお供をしていた意行(もとゆき)の子として、享保4年(1719年)に江戸で生まれました。ちなみに、幼名は龍助。その後、彼は吉宗に才能を見いだされ、吉宗の子の家重の小姓として取り立てられました。 のちに9代将軍となった家重は、意次のことを「またうどのもの(正直者・律儀者)」と高く評価していて、「正直者・律儀者なので、よく信任して用いなさい」と言い遺しました。
校庭の内側にあるこちらの松も、相良城の遺構のようですね。
そして10代将軍家治のときに、意次は側用人から老中職に大抜擢されたのです それにともなって、石高のほうも劇的に加増されていき、最終的には5万7千石の大名となりました。
宝暦8年(1758年)に相良藩主となった意次は、その10年後の明和5年(1768年)に相良御殿があった地に相良城を築城。12年もかけて、安永9年(1780年)に完成させました。 その規模は東西500m、南北450mで総面積の約22万5�は、東京ドーム約5コぶんの広さ。総石垣づくりで3重のお堀に囲まれ、その上には3層天守を含めた白壁の城郭がそびえ立っていました。遠くの海上からも眺められたそのお城は、竜宮城のような素晴らしいものだったそうです。
近くにあった看板のワンコの顔が、アート過ぎて強烈です
家治のもとで老中となった意次は、幕府の中心にいながら財政を立て直すために画期的な政策を次々と打ち出していきました。 そのいくつかを挙げていくと………
経済面では、今までになかった「予算」という概念を初めて打ち立てて、計画管理財政を実施。また、東日本と西日本で別々に出回っていた通貨を統一し、流通しやすくしました。 さらに、海外貿易では金銀の流出を抑え、海産加工品を輸出したりして外貨の獲得に努めました。 それから、農民からの年貢はそのままにして、商人には流通税を課したのですけど、その代わりに流通の独占権を与える「株仲間」という税制改革もおこないました。
社会面では、印旛沼の干拓工事や、蝦夷地の開発計画を打ち立てました。
相良庁舎の東側の小路に沿った水路には………
相良城の数少ない遺構として、仙台河岸(せんだいがし)の石垣が残っています。江戸時代初期頃から発展した、切り石を隙間なく積んだ「切り込みハギ」という工法で築かれた石垣が美しいですね。
意次は領国の相良では、道路を4間にし、城下町を整備するなかで屋根の瓦葺きを推進させ、貧しい人にはお金を与えました。
飢饉対策にもぬかりはなく、天明の飢饉の際には、領民に50日ぶんの食料費を与え、願書を出せば返さなくてもいいようにしました。
さらに、こちらを起点として榛原、吉田、大井川を経て藤枝宿に至る田沼街道だけではなく相良港も整備し、陸路と航路の流通をより便利にしました。
しかし、そのような意次の改革を快く思わない人もいたのです。小さな旗本から成り上がったのが、気に入らなかったのかも知れませんね。 それに加えて、その頃には江戸の大火災や浅間山の噴火、江戸の大洪水といった災害に飢饉も起こって、その不安や不満は幕府や意次に向けられました。さらに最大の理解者だった徳川家治が亡くなったこともあって、天明7年(1787年)に彼は老中を失脚させられてしまいました。
意次は、その翌年の天明8年(1788年)に亡くなりました。享年70歳。同じ年に相良城は徹底的に破却され「竜宮城のようだ」と言われた名城は、わずか8年で姿を消してしまいました。
意次の代わりに老中になったのは、8代将軍吉宗の孫にあたる奥州白河藩主・松平定信であります。彼が寛政の改革を執行したことは、皆様も教科書のほうですでにご存知かと思います。
しかしその改革の中身は、財政再建を歳出削減によっておこない、通貨制度を旧来のものに戻し、米作重視のために農民を農村に縛り付け、外国との貿易を規制し、印旛沼や蝦夷地の開発を中止し、朱子学以外の学問を禁止し、………といった、田沼政治を否定するものばかりでした。 それに加えて倹約の強制や、出版・思想の統制など締め付けが強く、時代に逆行する政策だったこともあって、6年で終了。結果的に、幕府の権威をより弱めてしまいました。
牧之原市の南の外れ、御前崎市との境となる地頭方地区には、桃林堂さんという和菓子屋があります。 今回の田沼意次レポートは、そのお店の名物を買ってきて締めることにします。 そのような流れで、私が手にしたお土産は………
ワイロ最中なるものにございます。 意次の賄賂政治家という悪評を、逆手にとった商品ですね。それにしても、この商品のどのあたりがワイロなのか、さっそく検証&試食してみることにしましょう
なんか、箱の側面にはこのようなただし書きがありましたよ。 正しい論理感と遊び心?もちろんありますよ 私の場合は、それらの他にも好奇心も併せ持っているのですけど。
箱を開けたら、饅頭……… の写真に加えて、このようなセリフも。これは、二重底になっていることを表現しているみたいですね。 あやしいニオイがする、その饅頭の下には………
小判……… の形をした最中が6コ詰められていました。 それだけではなく、金のパッケージに入ったティーパックの相良茶2袋と、「したこゝろ」と記された、のし袋も。
そうしたら小判、いや、ワイロ最中をいっただきま~す 今回、私は粒あん入りにしたのですけど、お店では抹茶あんも選ぶことができます。ちなみにこのワイロセットは、税込1000円にございます。
このワイロ最中は、田沼意次の悪評に一役買っているようにも見えるのですけど、その蓋の裏側には、彼の功績が丁寧にまとめられています。
意次に取って代わって老中に登板した松平定信とその政権は、自分の政策を正当化させるためにも、意次の政治をことごとく否定しました。また、田沼政治がうまく機能する前に終了させられたこともあって、悪評が広まってしまいました。 しかし、賄賂汚職・悪徳政治家といった悪評はのちにつくられたもので、全く根拠のないものでした。
意次の政策は革新的で先進的、画期的でもあり、さらには庶民思いでした。しかし、当時の日本を藩という枠でしか物事を考えられなかった人々には、なかなか理解されませんでした。そんな彼が、最近になって見直されてきているみたいですね。皆様も先入観を取っ払って、社会の変化を的確にとらえ、新時代を見据えた天才的な政治家・田沼意次に思いを馳せてみてくださいませ。
「のちの世にワイロ最中ができたのも、田沼意次の功績かな」と思われた方は、こちらに投票してやってください。
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