波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

龍馬を斬った男・今井信郎

2018-10-20 01:08:07 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
突然ですけど、皆さんは今井信郎(のぶお)という人物のことをご存知でしょうか?そういう私も、実はつい最近まで彼の存在を知りませんでした。



その今井信郎は何をした人かというと……… 今回の日記のタイトルにも出ている通りで、坂本龍馬を殺害した張本人とされています。 それでも、彼にはそれ以外のところでの功績もあります。その彼が明治以降に現在の静岡県島田市に移り住み、その屋敷跡があるというので、今回私は波と一緒にそこを訪れつつ、彼の辿ってきた道を紐解いていこうと思います。

その今井信郎屋敷跡は、行き方がわかりづらいというウワサは前もって聞いていたのですけど、どのような難関が立ちはだかっているのかも、気になりますね。 なかには「無事にたどり着くことができたから、今回の日記のネタにしたのでしょ?」と思われた方もいるかも知れませんけど、私は失敗した場合でもそれをネタにするので、安心してはいけませんよ。 結果がどうなったかは読んでいくうちにわかるとして、まずは最もオーソドックスに行けそうな道から入っていくことにしました。


(Google Earthより)

地図で見ると、世界最長の木造歩道橋として知られている蓬莱橋の1つ東側にある県道34号線づたいに大井川を渡っていき、その道沿いにあるタンクを目印にして脇道に入っていけば、最短距離でたどり着けそうなのですけど……… 台地から降りていく坂道は切り立っていて、その道幅も車1台が通れるかどうか微妙なところですけど、思い切って行ってみましょう

屋敷跡への道が切り開けてきたので、このあたりで今井信郎の生い立ちに触れさせていただきます。 今井は天保12年(1841年)10月2日に、江戸本郷の湯島で幕臣の家に生まれました。 10歳で元服し、湯島聖堂に入って勉学に励み、20歳で剣術の直心影流の免許皆伝。
さらに遊撃隊頭取として京都に赴き、上京後は佐々木只三郎の京都見廻組に入隊しました。

こ、これは……… 坂を降りたところで、私は後悔しました。道は行き止まりとなっていて、引き返すとしても向きを変えるのも困難な状況となっていたのです。 そういえば、地図(スマホの地図機能)ではその先の道があやふやになっていたような……… 車のバンパーやホイールを擦るのは避けられそうになく、そこをクリアしたとしても、この急な坂道を上がっていけるかどうか……… もう、今井信郎どころではありません
それでも、今回は乗組員が私と波だけで軽かったこともあって、なんとか戻ることができ、慎重にいったおかげで車も無傷で済みました。

脱出に成功したということで、これに懲りてそのまま帰るという手もあったのですけど、せっかくここまで来たのだから今度は平野部の南側から攻めてみることにしました。 先程の県道34号線は東名高速道路の吉田インターチェンジに繋がっているのですけど、そこから北西の方向に、今井屋敷跡に行けそうな道がありました。ナフコ島田店前の交差点から西に進んでいき、う~む……… 特に目印のようなものがないところで右折。


(Google Earthより)

さらに、その先にある感応式の信号を通り、新幹線のガードを潜って北に向かっていったら、進んでいく途中で道が枝分かれしている箇所もあったのですけど………



このような案内看板がありましたよ 今度こそ、間違いなくたどり着けそうです。



とはいっても、こちらも車で通っていいのか迷うぐらいの細道でした。 それでも、屋敷跡到達の目処が立ったので、このあたりで今井信郎の話を再開させていただきます。 え~と……… どこまで話しましたっけ? そうそう、彼が見廻組に入ったところでしたね。 慶応3年(1887年)11月15日にその見廻組は、京都の近江屋に潜んでいた坂本龍馬中岡慎太郎を襲撃しました。
「龍馬たちを暗殺するなんて、許せない 」と思われた方もいるかも知れませんけど、決して今井は彼らに個人的な恨みがあったというワケではありません。 当時の彼は幕府直属の見廻組の一員で、幕府にとっては反逆者で指名手配していた龍馬たちを成敗したのはやむを得ないことだったのです。



NHK大河ドラマの「西郷どん」にもそのシーンはあったのですけど、それはほんの数秒だけで………



今井と思われる男は一瞬しか映らず、その番組のオープニングで流れる出演者名にも出ていませんでした。 それはやむを得ないとしても、「見廻組」という組織名はあまりにもそのまんま過ぎて、ネーミングでは「新撰組」に見劣りしているので、どうにかならなかったのでしょうか? なんてことを言ったら、見廻組ファンに怒られるかも。



………とかなんとか言っているうちに視界が開け、今井信郎屋敷跡にたどり着きましたよ 向こうの一段高くなっているところに、屋敷の建物があったと思われます。



屋敷跡を記している石碑は、大きくて立派ですね。
今井は戊辰戦争で幕府側として戦った末に新政府に降伏し、龍馬たちの殺害に関与したことを自供しました。 それらの罪で投獄されたのですけど、明治5年(1872年)に恩赦で釈放されました。明治11年(1878年)には榛原(はいばら)郡初倉村(現在の島田市初倉地区)に移植。 その地に根を降ろした彼は、初倉村の4代目村長や農事会長を務め、さらに現在の県立榛原高校につながる学校の設立に尽力しました。
大正5年(1916年)に脳卒中で倒れ、2年間の病床生活を送り、大正7年(1918年)6月25日に亡くなりました。 享年76歳。



明治から昭和初期にアララギ派の歌人として活躍した今井邦子は、今井の3男の健彦の妻ということもあって、屋敷跡には彼女の歌碑も並んでいました。



私たちが訪れたとき、屋敷跡では整備の作業がおこなわれていて、東屋や看板ができつつありました。 そこにいたオジちゃんは、10月上旬に今井の像の除幕式がおこなわれると言っていました。



つい最近、その様子が新聞の県内版に載りました。 今年は幕臣による牧之原台地の茶園開拓から150年で、今井の没後100年にもあたり、石像の建立には、この地方で政治や教育などの分野で貢献した彼を顕彰する意味もあったみたいです。
しかし、彼は常に龍馬殺しに反発する暗殺者からの目を気にしていたみたいです。 そういうこともあって、大井川初倉側の段丘が作った谷の一番奥まった隠れ里のような場所に、屋敷を構えたとされています。明治に入ってからも、龍馬暗殺の呪縛から解放されなかったなんて、なんか気の毒です。 今井信郎のことを語る際には、つい「龍馬を斬った」というところから入ってしまうのですけど、これから私はそれ以外の彼の功績を強調するようにします。


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コメント (2)
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