こんばんは、白黒茶々です。
前回からの続きで、今回も来年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公こと井伊直虎について、地元目線からお伝えします。 それから、今回も人物名のところに、大河ドラマの配役も付け加えておきます。
こういう井伊直虎と徳川家康もアリか
前回の終盤に、井伊家当主の直親(三浦春馬)が殺害されてしまったのですけど、それだけでは終わりませんでした。さらに今川氏真(尾上松也)は家臣に、彼の息子の虎松(配役は未発表)も殺すように命じたのです。 虎松の命運も、もはやこれまでなのか
そこに、新野左馬助(にいのさまのすけ、苅谷俊介)が立ちはだかり、命を懸けて虎松を守ったのです。 左馬助は今川氏の家臣で、井伊家の目付家老として井伊谷に住み込んだのですけど、次郎法師(柴咲コウ)の母千賀(財前直見)の兄ということもあって、今川氏との間を取り持ち、井伊家を支えました。そして、虎松と母のしの(貫地谷しほり)は、彼の屋敷に匿われることに。
しかし、一難去ってまた一難となってしまいました。 永禄6年(1563年)に次郎法師の曾祖父の井伊直平(『なおへい』ではありません『なおひら』です、前田吟)が今川氏真の命令で武田方の天野氏を攻めにいく途中で落馬し、急死してしまったのです。その前に飯尾連竜の引馬城に立ち寄った際に、彼の妻のお田鶴の方によって出されたお茶に、毒が盛られていたという説もあるのですけど、ドラマではそのあたりはどのように描かれるのでしょうか?
いずれにしても、直平の死によって井伊家の男子は2歳の虎松だけとなってしまいました。
その翌年、飯尾氏は今川氏から離反したので、井伊谷城代の左馬助と中野直由は、引馬城を攻撃しました。しかし、その戦いで彼らは討ち死にしてしまいました。これによって、井伊家は大事な支えも失うことに。
そのまた翌年の永禄8年(1565年)、次郎法師は幼い虎松を守るために、南渓和尚(小林薫)と相談し、彼の後見人として「井伊直虎」と名乗り、地頭職にも就いて井伊谷の領主となりました。 ということで、今から彼女が入った井伊谷城をご案内します。 こちらは小高い丘の上に築かれた山城なのですけど、今回の大河ドラマ化をきっかけに、麓から続くそのすべての登山道には手すりが取り付けられました。
その坂道は延々と続いていて大変そうですけど、その途中の視界が開けたところには、ベンチなどがある休憩スポットが設けられています。 さらに、もう少し頑張って登っていったら………
城址碑のある、山頂にたどり着くことができましたよ。 女城主のお城は中世の山城なので、石垣や天守などはまだ採り入れられていなくて、土塁や簡素な建物などで構成される砦でした。
標高のほうも114mなのですけど、そこに登れば井伊谷周辺はもちろんのこと、三方原台地の地形や、そのまた向こうに浜松駅前にそびえ立っているアクトタワーも眺めることができます。
直虎は虎松らとともに井伊谷城に入ったのですけど、普段はその麓にある井伊氏居館に住んでいたと思われます。外敵に攻められたら井伊谷城に籠るのですけど、さらに追い詰められた場合は、その背後にある標高467mの三岳城を詰めの城として利用するという三段階の算段だったのですよ。
しかし、領主となった直虎に最初の試練が訪れました。今川氏から徳政令(借金帳消し令)が出されたのです。これを受けてしまうと、井伊領が大混乱となるだけではなく、直虎らが領主の座から追われる恐れもあったのです。ようやく新たな体制が整ったというのに………
それでも、直虎は知恵と勇気で今川氏の再三に渡る要求を退け、井伊家と領民を守りました。 そのガマン比べ(?)は2年ほど続いたのですけど、それもやがて限界に。永禄11年(1568年)直虎は、寺社や商人の土地が守られるところまで持っていったところで、徳政令を受け入れることにしたのでした。その結果………
彼女は地頭職を解かれ、井伊領だったところは家老の小野政次(高橋一生)に乗っ取っられたのですけど、彼は敵でしょうか?それとも、味方なのしょうか? とにかく、これによってチーム直虎は解散するとに。
直虎は再び南渓和尚に相談し、井伊家を存続させるための最善の策を探り出しました。 それは………
虎松はとりあえず、隣国三河(愛知県)の鳳来寺に身を隠し、彼の母のしのは頭陀寺の松下屋敷の松下一族と再婚。直虎は、龍譚寺の山門の南側にあった松岳院に身を寄せました。 いつか復活できることを信じて忍耐の日々を送るしかないのですけど、この試練はいつまで続くのでしょうか?
リアル徳川家康
いや、そんなに長くはありませんでした。その1ヶ月後に、三河から徳川家康(阿部サダヲ)が遠江(静岡県西部)に侵攻し、その翌年の永禄12年(1569年)5月には、井伊谷も含めた遠江を支配下におさめました。そうしたら、小野政次は井伊領から逃亡 そのまた翌年に家康は浜松城を築き、そこを本拠にして東に勢力を拡大していくことに。 しかし、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、武田信玄軍に完膚なきまでに叩きのめされてしまいました。
その頃、直虎は井伊家復活の道を探っていて、まずは15歳となった虎松(このあたりから菅田将暉か?)をしのの嫁ぎ先の松下氏の養子に入れました。さらに彼女は、虎松を鷹狩り中の家康に引き合わせたのです。家康は彼のことをいたく気に入り、井伊の姓を復活させ、さらに「万千代」の名前を与え、小姓としてそばに置くことにしたのです。これはもう、運命的な出逢いといってもいいでしょう
「真田丸」では、家康は主人公の真田幸村にとっては敵将ということもあって、クセのある憎っくき悪役として描かれていたのですけど、「おんな城主 直虎」のほうでは、頼れる救世主的な存在という位置付けとなっています。
家康のもとで万千代は頭角を表し、数々の戦などで手柄を挙げ、家康にとっても頼もしい存在となっていました。 そのような中で、天正10年(1582年)6月に本能寺の変が勃発。織田信長が臣下の明智光秀に討たれたとき、万千代が付き従っていた家康一行は、大坂の堺を漫遊中でした。このままでは明智軍に襲われ、家康の命も狙われてしまう しかし、領国に帰るのにも、すべての街道は明智軍に占拠されていますし。
………ということで、家康一行は道なき道を掻き分けていく決死行の伊賀越えをすることに。 それは「家康の三(四?)大危機」と云われるほど大変なもので、一行は命をかけてなんとか無事に岡崎城にたどり着くことができました。その際にも、万千代は大活躍したそうです。
井伊谷の西側の神宮寺川沿いには、渭伊(いい)神社があります。井伊家にもゆかりのあるこちらの神社は、かつては龍譚寺の境内にあったもので、この地域の守り神となっています。
その裏側の小高い丘の上には、古墳時代から祈りの場となっていた、天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡があります。このインパクトありありの巨岩は「おんな城主直虎」の、どんなシーンかわからないのですけど、とにかくロケで誰かが隠れるのに使われたのですよ。
さらに、渭伊神社や天白磐座遺跡からほど近いところに、自耕庵(妙雲寺)があります。こちらは直虎の菩提寺であり、彼女が晩年を過ごしたところでもあります。
つい最近まで無住のお寺だったのですけど、大河ドラマの舞台になったのをきっかけにして開放し、地元のお年寄りの方たちが土日のみですけど交代で番を務め、さらに親切に説明もしていただけるようになっています。
※許可を得て撮影しました。
こちらでは今年に入ってから、南渓和尚と直虎の位牌が発見されました。ちなみにケースに収められているうちの小さいほうが直虎のもので、黒ずんで読み取れないのですけど、戒名は「妙雲院殿月舩祐圓大姉」となっています。妙雲寺の名は、ここからきているのですよ。 さらにその位牌には、彼女の命日も刻まれています。
万千代の成長を見届けた直虎は安心し、天正10年(1582年)8月26日に亡くなりました。47歳ぐらいだったと思われます。
その後、万千代は名を「井伊直政」と改め、家康のもとで活躍し、武田の流れをくむ赤備えを調え、敵方に「井伊の赤鬼」と恐れられるほどになりました。また、本多忠勝、酒井忠次、榊原康政らとともに徳川四天王に数えられ、やがて一国一城の主となって彦根藩の礎を築きました。
龍譚寺の一角には、井伊家代々の墓所があります。後方(右端)の大きくて四角いのが直盛のもので、その隣の奥から千賀(直盛夫人)、直虎、直親、しの(直親夫人)、直政となっております。しのの立ち位置が微妙ですけど、直虎と直政は亡くなった後にようやく隣同士に並ぶことができました。 「そういえば、前回の日記にも直親のお墓が出てきたのだけど、本物はどっち?」という、そこのアナタ。正解は、どちらも本物です。 お墓は祈りの場でもあるので、何ヵ所もあってもいいのですよ。
「おんな城主 直虎」の放送開始を前にして、なかには「女大河は失敗するのでは?」とか、「知名度の低い主人公で大丈夫だろうか?」という意見も聞こえてきました。 そういえば女性が主人公のものは、失礼ながら失敗が続いていますね。また、井伊直虎はネームバリュー的にも弱いかも知れません。 それでも、そのドラマの脚本はNHK朝ドラの「ごちそうさん」や「天皇の料理番」などをヒットさせた森下佳子さんが担当しているので、よっぽどのことがない限り、コケることはないと思います。 ネームバリューのほうも、先入観がないほうが頭の中にイメージが固定されていなくて、かえって受け入れやすいかも知れません。それに、直虎のことは知れば知るほど興味が湧きますし。来年1月8日からの放送を、今から私も楽しみにしています。
井伊直虎を追い求めて、これから井の国を訪れようとされている方に、美味しい情報があります。 その地方では、みそまんじゅう(略して、みそまん)が名物となっています。 これはその名前が示す通り、生地に味噌が練り込まれていて、甘さ控えめの餡と相まって、その独特の味わいは一度口にするとクセになります。ちなみにみそまんは、浜松市北区引佐町や北区細江町のほとんどの和菓子屋で取り扱っているので、ぜひ一度お試しくださいませ。
「ドラマが面白かったら、井の国を訪れようかな」という方は、こちらに投票してやってください。
前回からの続きで、今回も来年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公こと井伊直虎について、地元目線からお伝えします。 それから、今回も人物名のところに、大河ドラマの配役も付け加えておきます。
こういう井伊直虎と徳川家康もアリか
前回の終盤に、井伊家当主の直親(三浦春馬)が殺害されてしまったのですけど、それだけでは終わりませんでした。さらに今川氏真(尾上松也)は家臣に、彼の息子の虎松(配役は未発表)も殺すように命じたのです。 虎松の命運も、もはやこれまでなのか
そこに、新野左馬助(にいのさまのすけ、苅谷俊介)が立ちはだかり、命を懸けて虎松を守ったのです。 左馬助は今川氏の家臣で、井伊家の目付家老として井伊谷に住み込んだのですけど、次郎法師(柴咲コウ)の母千賀(財前直見)の兄ということもあって、今川氏との間を取り持ち、井伊家を支えました。そして、虎松と母のしの(貫地谷しほり)は、彼の屋敷に匿われることに。
しかし、一難去ってまた一難となってしまいました。 永禄6年(1563年)に次郎法師の曾祖父の井伊直平(『なおへい』ではありません『なおひら』です、前田吟)が今川氏真の命令で武田方の天野氏を攻めにいく途中で落馬し、急死してしまったのです。その前に飯尾連竜の引馬城に立ち寄った際に、彼の妻のお田鶴の方によって出されたお茶に、毒が盛られていたという説もあるのですけど、ドラマではそのあたりはどのように描かれるのでしょうか?
いずれにしても、直平の死によって井伊家の男子は2歳の虎松だけとなってしまいました。
その翌年、飯尾氏は今川氏から離反したので、井伊谷城代の左馬助と中野直由は、引馬城を攻撃しました。しかし、その戦いで彼らは討ち死にしてしまいました。これによって、井伊家は大事な支えも失うことに。
そのまた翌年の永禄8年(1565年)、次郎法師は幼い虎松を守るために、南渓和尚(小林薫)と相談し、彼の後見人として「井伊直虎」と名乗り、地頭職にも就いて井伊谷の領主となりました。 ということで、今から彼女が入った井伊谷城をご案内します。 こちらは小高い丘の上に築かれた山城なのですけど、今回の大河ドラマ化をきっかけに、麓から続くそのすべての登山道には手すりが取り付けられました。
その坂道は延々と続いていて大変そうですけど、その途中の視界が開けたところには、ベンチなどがある休憩スポットが設けられています。 さらに、もう少し頑張って登っていったら………
城址碑のある、山頂にたどり着くことができましたよ。 女城主のお城は中世の山城なので、石垣や天守などはまだ採り入れられていなくて、土塁や簡素な建物などで構成される砦でした。
標高のほうも114mなのですけど、そこに登れば井伊谷周辺はもちろんのこと、三方原台地の地形や、そのまた向こうに浜松駅前にそびえ立っているアクトタワーも眺めることができます。
直虎は虎松らとともに井伊谷城に入ったのですけど、普段はその麓にある井伊氏居館に住んでいたと思われます。外敵に攻められたら井伊谷城に籠るのですけど、さらに追い詰められた場合は、その背後にある標高467mの三岳城を詰めの城として利用するという三段階の算段だったのですよ。
しかし、領主となった直虎に最初の試練が訪れました。今川氏から徳政令(借金帳消し令)が出されたのです。これを受けてしまうと、井伊領が大混乱となるだけではなく、直虎らが領主の座から追われる恐れもあったのです。ようやく新たな体制が整ったというのに………
それでも、直虎は知恵と勇気で今川氏の再三に渡る要求を退け、井伊家と領民を守りました。 そのガマン比べ(?)は2年ほど続いたのですけど、それもやがて限界に。永禄11年(1568年)直虎は、寺社や商人の土地が守られるところまで持っていったところで、徳政令を受け入れることにしたのでした。その結果………
彼女は地頭職を解かれ、井伊領だったところは家老の小野政次(高橋一生)に乗っ取っられたのですけど、彼は敵でしょうか?それとも、味方なのしょうか? とにかく、これによってチーム直虎は解散するとに。
直虎は再び南渓和尚に相談し、井伊家を存続させるための最善の策を探り出しました。 それは………
虎松はとりあえず、隣国三河(愛知県)の鳳来寺に身を隠し、彼の母のしのは頭陀寺の松下屋敷の松下一族と再婚。直虎は、龍譚寺の山門の南側にあった松岳院に身を寄せました。 いつか復活できることを信じて忍耐の日々を送るしかないのですけど、この試練はいつまで続くのでしょうか?
リアル徳川家康
いや、そんなに長くはありませんでした。その1ヶ月後に、三河から徳川家康(阿部サダヲ)が遠江(静岡県西部)に侵攻し、その翌年の永禄12年(1569年)5月には、井伊谷も含めた遠江を支配下におさめました。そうしたら、小野政次は井伊領から逃亡 そのまた翌年に家康は浜松城を築き、そこを本拠にして東に勢力を拡大していくことに。 しかし、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、武田信玄軍に完膚なきまでに叩きのめされてしまいました。
その頃、直虎は井伊家復活の道を探っていて、まずは15歳となった虎松(このあたりから菅田将暉か?)をしのの嫁ぎ先の松下氏の養子に入れました。さらに彼女は、虎松を鷹狩り中の家康に引き合わせたのです。家康は彼のことをいたく気に入り、井伊の姓を復活させ、さらに「万千代」の名前を与え、小姓としてそばに置くことにしたのです。これはもう、運命的な出逢いといってもいいでしょう
「真田丸」では、家康は主人公の真田幸村にとっては敵将ということもあって、クセのある憎っくき悪役として描かれていたのですけど、「おんな城主 直虎」のほうでは、頼れる救世主的な存在という位置付けとなっています。
家康のもとで万千代は頭角を表し、数々の戦などで手柄を挙げ、家康にとっても頼もしい存在となっていました。 そのような中で、天正10年(1582年)6月に本能寺の変が勃発。織田信長が臣下の明智光秀に討たれたとき、万千代が付き従っていた家康一行は、大坂の堺を漫遊中でした。このままでは明智軍に襲われ、家康の命も狙われてしまう しかし、領国に帰るのにも、すべての街道は明智軍に占拠されていますし。
………ということで、家康一行は道なき道を掻き分けていく決死行の伊賀越えをすることに。 それは「家康の三(四?)大危機」と云われるほど大変なもので、一行は命をかけてなんとか無事に岡崎城にたどり着くことができました。その際にも、万千代は大活躍したそうです。
井伊谷の西側の神宮寺川沿いには、渭伊(いい)神社があります。井伊家にもゆかりのあるこちらの神社は、かつては龍譚寺の境内にあったもので、この地域の守り神となっています。
その裏側の小高い丘の上には、古墳時代から祈りの場となっていた、天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡があります。このインパクトありありの巨岩は「おんな城主直虎」の、どんなシーンかわからないのですけど、とにかくロケで誰かが隠れるのに使われたのですよ。
さらに、渭伊神社や天白磐座遺跡からほど近いところに、自耕庵(妙雲寺)があります。こちらは直虎の菩提寺であり、彼女が晩年を過ごしたところでもあります。
つい最近まで無住のお寺だったのですけど、大河ドラマの舞台になったのをきっかけにして開放し、地元のお年寄りの方たちが土日のみですけど交代で番を務め、さらに親切に説明もしていただけるようになっています。
※許可を得て撮影しました。
こちらでは今年に入ってから、南渓和尚と直虎の位牌が発見されました。ちなみにケースに収められているうちの小さいほうが直虎のもので、黒ずんで読み取れないのですけど、戒名は「妙雲院殿月舩祐圓大姉」となっています。妙雲寺の名は、ここからきているのですよ。 さらにその位牌には、彼女の命日も刻まれています。
万千代の成長を見届けた直虎は安心し、天正10年(1582年)8月26日に亡くなりました。47歳ぐらいだったと思われます。
その後、万千代は名を「井伊直政」と改め、家康のもとで活躍し、武田の流れをくむ赤備えを調え、敵方に「井伊の赤鬼」と恐れられるほどになりました。また、本多忠勝、酒井忠次、榊原康政らとともに徳川四天王に数えられ、やがて一国一城の主となって彦根藩の礎を築きました。
龍譚寺の一角には、井伊家代々の墓所があります。後方(右端)の大きくて四角いのが直盛のもので、その隣の奥から千賀(直盛夫人)、直虎、直親、しの(直親夫人)、直政となっております。しのの立ち位置が微妙ですけど、直虎と直政は亡くなった後にようやく隣同士に並ぶことができました。 「そういえば、前回の日記にも直親のお墓が出てきたのだけど、本物はどっち?」という、そこのアナタ。正解は、どちらも本物です。 お墓は祈りの場でもあるので、何ヵ所もあってもいいのですよ。
「おんな城主 直虎」の放送開始を前にして、なかには「女大河は失敗するのでは?」とか、「知名度の低い主人公で大丈夫だろうか?」という意見も聞こえてきました。 そういえば女性が主人公のものは、失礼ながら失敗が続いていますね。また、井伊直虎はネームバリュー的にも弱いかも知れません。 それでも、そのドラマの脚本はNHK朝ドラの「ごちそうさん」や「天皇の料理番」などをヒットさせた森下佳子さんが担当しているので、よっぽどのことがない限り、コケることはないと思います。 ネームバリューのほうも、先入観がないほうが頭の中にイメージが固定されていなくて、かえって受け入れやすいかも知れません。それに、直虎のことは知れば知るほど興味が湧きますし。来年1月8日からの放送を、今から私も楽しみにしています。
井伊直虎を追い求めて、これから井の国を訪れようとされている方に、美味しい情報があります。 その地方では、みそまんじゅう(略して、みそまん)が名物となっています。 これはその名前が示す通り、生地に味噌が練り込まれていて、甘さ控えめの餡と相まって、その独特の味わいは一度口にするとクセになります。ちなみにみそまんは、浜松市北区引佐町や北区細江町のほとんどの和菓子屋で取り扱っているので、ぜひ一度お試しくださいませ。
「ドラマが面白かったら、井の国を訪れようかな」という方は、こちらに投票してやってください。