沖縄 8 Scene

沖縄で生まれ沖縄に生きる
      8郎家の日記

テルとナツコ

2008年01月28日 | 家族、親戚

 昨日はテルあばぁの三・七日でした。少ないながらも家族・親戚が実家に集い、喪に服しました。

 ※しかし、この儀式を七・七日つまり四十九日まで毎週続けるという儀式、ハチローはどうも腑に落ちませんなぁ。亡き人を悲しむ気持ちはいつの時代も変わりません。でもその弔い方には、変化があってしかるべきだと強く思います。

 それは置いといて・・・(笑)、久々に姪っ子、甥っ子に会いました。すっかり話すのが上手になったひまりん(姉の長女4歳)、甘えん坊ざかりのたいちん(同長男3歳)、そして家族一の人気者NAOTA(妹の長男1歳)です。みんな可愛いのですが、特にNAOTAの笑顔を振りまきながらえっちらおっちら歩く姿は、なんとも言えません。でもハチローを見ると必ず一瞬固まるNAOTA・・・(笑)。大丈夫だ、捕って食うわけじゃないぞー! テルおばぁの遺影をバックに(いいんでしょうか?)男三人記念撮影。左はたいちん、中央がNAOTA、そして右が怖い怖い伯父さんです。たいちんは変顔ポーズをしておりますが、目鼻立ちの整った顔、そして年齢の割りには手足が長いことから、将来モデル系のイケメンになることを期待しております! ジャニーズに写真送ろうかなぁ・・・。伯父の欲目でしょうか?(笑)Photo

 藤崎マーケット(ららららい♪)や小島よしお(はい、オッパッピー♪)を協同で披露してくれた姪っ子甥っ子。暗くなりがちな三・七日を、若く新しい命がにぎやかにしてくれました。遺影のテルおばぁもきっと目を細めたことでしょう。

 さて、雨天が続くここ沖縄。なかなか双眼鏡で「一人野鳥の会」(寂!)を決行することがで きないでいます。それならばと、読書に転じた34歳宅ハチローです。オススメは右下の二冊。「ナツコ 沖縄密貿易の女王」(奥野修司:著)と「真相」(横山秀夫:著)です。

 まず「真相」から。ご存知「平成の松本清張」こと横山秀夫の短編集なんですが、相変わらPhoto_3ずいいっす。犯罪を起こした、もしくは巻き込まれた人間たちの心理を見事に書きあげ、読ませます。一番どれがいい?と聞かれると答えに窮するくらい小粒でもピリリなストーリーが5編収められています。あえて言うと4番目の「花輪の海」以外全部面白いっす。

 もう一冊「ナツコ」は副題の通り、終戦直後の米軍政府による占領時代に、いわゆる密貿易で一時代を築いた金城夏子という女傑の人生を追ったノンフィクション。取材に12年もかけたという奥野氏は本書で大宅賞を受賞しました。ウチナンチュの間でも伝説化しつつあった密貿易の女王を、現実的手法で丹念に取材し、リアリティーを持った一人の沖縄女性として甦らせたのは、素晴らしいことです。これをウチナンチュができなかったのはある意味悔しいことですがね。

 まだ完読していないのですが、すでにひき付けられています。ナツコという女傑の姿もそうですが、終戦直後の混乱の中を強く生き抜いた無数無名のウチナンチュの姿がそうさせるのです。生き延びるために与那国から本島まで密貿易にきた若い女性が、真夜中の海に飛び込み泳いで浜に上がり、まだ沖縄戦での戦死者が無数に横たわる浜を密輸品を持って駆け抜けていくSCENEは圧倒的でした。みんな「ただ生きるため」に必死だったんですね。

 調べてみると、金城夏子とテルおばぁ、ほぼ同年代でした。

 あの時代に生きた女性は、こうも強かったのですね。

 一読をお勧めします!


アオの真実

2008年01月21日 | ダイビング

 先日、名護市近海でダイビングをしてきました。天然記念物にして絶滅危惧種ジュゴンの生息地として有名な湾です。同時に普天間飛行場の移設先に決まった辺野古も近く、移設工事が始まったときの環境破壊が懸念されています。

 昨年九月にアオサンゴの群落が見つかりました。北半球最大といわれる石垣の白保ほどではないのですが、それに次ぐ規模ということと、沖縄本島の東側に存在するということで、マスコミ報道により一躍脚光を浴びました。

 縁があって、地元のエコツアーを展開しているHさんという方に案内してもらいました。水深10㍍ほどのところに広がるアオサンゴ群落は、それはそれは美しい自然の造形物でした! 伝わるかなぁ。下写真です。 Photo

 ひだになっているそのほとんどがアオサンゴです(と思われます・・・)。確かにすごい群落ですね! ちなみにアオと言っても、見た目は青色ではないんです。実は中身の骨格が青いということが名の由来 なんです(だからと言って折って確かめたりしてはいけません)。 

 石垣、慶良間の折り重なるテーブルサンゴも素晴らしいで すが、こちらも景観でした。熱Photo_4帯魚も小粒ながらたくさんいましたよ。Hさんによるとマスコミ報道されてからファンダイバーの数が激増したようです。近くのリゾートホテルにはダイビングサービスもありますし、そこにとっては超目玉スポットなるのでしょう。いやいや、それだけでなく、北風が吹く冬、ポイントの選択に困る沖縄中のショップが押し寄せる可能性も多々(怖!)。そっとしておきたいというのは自然保護派のおごりでしょうか。どちらにしろ大事に有効利用してもらいたいものです。

※右写真は群落近くにあった巨大なハマサンゴ(と思われます)。これだけ大きくなるのに相当の年月をかけているでしょうね。

 残念ながらアオサンゴの中にあったはずのシャコ貝などがすでに密漁されているとのこと。Hさんは「荒らされる前に、早く保護のための自主ルールを地域住民でつくらなければ」とポツリ。同感です。

 さて、船に上がり港に戻る際、Hさんが対岸を指差しボソっと教えてくれました。「あれが所ジョージの別荘」(!)。確かにありました。広大なリゾートホテルの隣に、負けず劣らず広大な敷地面積を持つ別荘が!(下写真)

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 広いでっすねぇ~ (かつての所ジョージ風)

 あぁ、所さんと友達になりたい・・・。

 ※この別荘はTVなどで何度も放送されており、すでに有名ですぅ。

 さて! 気付けばハチロー、今回のダイブでめでたく30本達成となりました。ぱちぱちぱちぃ~。当面の目標である50本までは遠い道のりですが、この夏のアドバンスコース挑戦とともに、頑張っていきまっしょい!


桜の山で「偶然」です

2008年01月20日 | 風物詩(やんばる)

 「日本一早い桜まつり」で有名な本部町八重岳に行ってきました。いやぁ、青空ピンクの緋寒桜(ひかんざくら)が映えていましたね。頂上付近はほぼ満開でした! 仕事の途中(同僚と二人)だったので短い時間でしたが、沖縄の一年で最初で最大の花の祭典を味わってきました。

Photo_2

 一応写真も撮っておこうと、車を降りポジションを探していると、ちょうどコンパクトカメラで桜を撮影している男性の姿が・・・。モデルにちょうどいい(ふふふ)と思い、勝手に男性を構図に入れてPhoto_3 ハチローも撮影(右写真)。

 すると、ファインダーの中の男性は撮られたのに気付いたのか、つかつかと近寄ってくるではありませんか! まさかこの程度のスナップで「肖像権」を主張するつもりじゃないだろうな(沖縄の男はそんなにセコくないはずだ!)とハチローは身構えました。

 するとその男性は近づきながらハチローの名を呼ぶのです!「お久しぶり!ARAですよ」と笑顔。ハチローも思い出しました。そうです、昨年の夏、辺戸岬ドーム、宮城海岸のダイビングでお世話になったダイビングガイドのARAさんだったのです。もう百回くらい言ってますが・・・

 いやぁ、沖縄って狭い!

 「偶然」の話で盛り上がり、結果、桜を背にしたARAさんの記念写真まで撮ってあげました。最初からモデルをお願いすればよかった(笑)。

ARAさんとのダイブについては過去記事を⇒「ディープ・ブルーからの生還」07/09/01記事

 帰路を急ぐ中、昼飯だけは食べようということで、別名「伊豆見そば街道」とも呼ばれる県道84号線の途中にある「むかしむかし」という店に入りました。ハチローは初めてでした。何Photo_4やら店名のとおり、昔ながらの沖縄すばを作っている店だとか・・・。しかし選択した理由はそれではなく、単に時間がなかったからなんです。そうです、同僚の「大丈夫よぉ、この店ならいつもガラガラだから。待ち時間なしどぉ」という言葉が妙に説得力ありだったもので・・・(超失礼!)。実際に注文してから出てくるのは1分ほどでした(笑)。

 確かに「昔のそばダシはこうだったんだろうなぁ」という、現代人にとってはかなりの薄味でした。麺は平麺でハチロー好み。しかし三枚肉が、昔ながらに塩味たっぷりだったので、それが残念。でもガラガラの割には、まずくはなかったっす!(フォローになってない?)

 勝手に番付⇒「好きなようにやれたら俺はこの番付で満足さ。入幕しなくても関取なんだから」とマイペース志向を見せる十両筆頭! 

 まぁ、古民家風の店造りで落ち着けます。ドライブに疲れた際、のどかな雰囲気を味わいたいという方にはオススメです。ついでに別メニューの「山羊のカルパッチョ」(!)に挑戦してみてはいかがでしょうか?(ハチローには無理っす)。

 明日は大寒というのに、毎日汗ばむくらいの沖縄です。


野鳥の楽園 遅れてきたブツ

2008年01月18日 | 風物詩(やんばる)

 OFFだった今日、洗濯を一度やったあとは主夫業を放棄し(笑)、カメラを持って外出しました。 

 高速を飛ばして向かった先は金武(きん)町水田地帯。前回もご紹介した渡り鳥の楽園です。ターンム(田芋)の収穫はほぼ終わりに近づいたようで、田んぼは以前より静かでした(下写真)。

Photo

 エンジンを切って田園風景を眺めました。こういう時、双眼鏡があったらなぁ、とはやる心を抑えつつ・・・。そうそう、一昨日ついに発注しました! 第一候補だったNIKONトラベライトEX(10×25)です。1万8500円でした。カメラのキタムラによると「取り寄せになるので納品は来週くらいになるかと」。ということで今日は肉眼、もしくはカメラの望遠レンズで探すしかありません。

 しばらくするとタゲリを発見! 「冬の貴婦人」といわれるほどの人気の渡り鳥です。頭の冠羽がまるで王妃の髪飾りのよう。数多い渡り鳥の中でも気品ある(?)存在感でした。全部で10羽ほどの群れをつくり、水田の中央でえさを探していました(下写真)。

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 もっとUP目が撮りたかったのですが、警戒したのか、どんどん離れていきましたねぇ(泣)。そんなにハチローの人相が悪かったのでしょうか・・・。

 下写真は愛嬌たっぷりに毛づくろいをする野鳥。タヒバリ?トラツグミ? ネット検索をしても名前は確認できませんでした。これは野鳥図鑑も買わなきゃならないようです(笑)。知っている方教えて下さい。※追記:NHKのニュース(1/27)にて「ムナグロ」とほぼ確定しました(笑)

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 さて、大して珍鳥にも出会わなかったのですが、1時間あまり自然に触れることができ、気分よく帰路へ。途中、金武町名物キンタコチーズバーガーを購入し、屋嘉の休憩ポイントで一人食しました。心地よい潮風波音が気持ちよかったなぁ。ちなみにバーガーは、サイズも「大」なら、味も「大」でした・・・。よし、もう行かない!(笑)

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 ところで、一人ぼっちは寂しいですなぁ・・・(笑)。

 帰宅すると、携帯が鳴りました。出ると、

 「カメラのキタムラです。双眼鏡が届きました」・・・。

 以下が、その時のハチローの心境です。

 「お、お、遅っえ~よ! て、て、ていうか早ぇ~なぁ」 (笑)

 納品は来週、といった2日後に届くなんて・・・(笑)。キタムラの物流システムはどうなっているのでしょう。新手の「偽装」といえなくもないのでは?(笑) これさえあれば、今日のバードウオッチングももっと意義あるものになったはずなんですがねぇ。悔しさと嬉しさが、青白横綱戦のごとくがっぷり四つのままキタムラへと。大枚2枚を払って(もちろんお釣りは受け取って)、ついに手にしました。下写真です!

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 もう暗くなっているので、その性能を確かめることはできません(本当に女子大生なんていないんですよぉ)が、軽さといいホールディング性といいい、よろしい感じかと。沖縄のあらゆるSCENEを目に焼き付けたいハチローとって、よき相棒となりそうです。購入決済を下ろした妻に感謝ですなぁ。

 でも双眼鏡を持っている人って、あまり見ないですよね・・・(笑) 

 イケてる双眼鏡クラブ、会員募集中で~す。 さぁ、恥ずかしがらずに!


買いたいブツがいっぱいです

2008年01月14日 | むぬかんげー

 昨日(13日)は初七日。実家でささやかながら営んだのですが、ハチローは仕事が長引いてしまい、出席できませんでした。相も変わらず「自己保身」と題したセクショナリズムサラリーマン劇場を展開していたので(悲)居残る必要もなかったのですが、ハチロー担当の業務が残っていたので仕方ありません。

 妻の話では50名ほどの親戚、知人の方がいらしていたそうです。

 あの狭い部屋に・・・テルおばぁの人徳ですね。

 さて! 新年モードに気持ちを切り替えたハチローですが、早速欲しい物が続々と現われまPhotoした。まず、双眼鏡! なぜ?とお思いになる方も多いかと(笑)。けっして隣のセクシー女子大生の部屋を覗き見するためではありません!(第一、ベランダの前にあるのは通行人が行く度に吠えまくるおバカ犬(ハチロー夫妻が勝手に命名。笑)を飼う一戸建てがあるだけです。

 美しい景色を見るとき、野鳥を探すとき、スポーツイベントを観戦するとき、などなど。まぁ、一言で言ってしまうと、沖縄の移りゆく景色を目に焼き付けるために必須アイテムだということでしょうか。カメラのよきパートナーとなりそうです。

 もちろん興味を持つのも買うのも初めて。ネットで調べると、双眼鏡とは「頑丈なので一生一度の買い物。買うなら安物を避けよ」とのこと。実際、中古品にもいいものは出回らないそうです(買った人はほとんど捨てないため)。ハチローが現在最有力に推す右写真のNIKON「トラベライトEX」(23,000円程度)は、対物レンズの口径(双眼鏡で一番性能の目安となるもの)が多少物足りないものの、倍率、軽さ、防水性という点では満たしているかと。2万円超はイタいのですが(でも安い方です)、一生の買い物(すでに洗脳されています)だと思うと、買うべきかと・・・。

※NIKONは双眼鏡から始まったメーカーらしいですね。初めて知りました。

Photo_2  さて、次はフィン。TUSA製のものを現在も持っているのですが、なにぶんウレタン製のため軽く、水中でのバランスが取りにくいのが最大の欠点。またハチロー個人的にはちょっと長すぎるので、着底がしにくいんです。潜水技術の問題もあるでしょうが。色も黒と青のため、ハチローのイルカ系スーツと微妙にミスマッチ(泣)。ゴム製のやつでホワイトを探しています。でもあまり適当なものがないんですなぁ。シーサーのカタログを見ていると、現在左写真が最有力かと。同じくTUSA製。

 まぁ、こればっかりはあえて急いで買う必要もないので、今は様子見です。いいのがあれば教えて下さーい。

 最後は右写真。そうです、NIKONの「D300」です! 一眼レ フにおいてハイアマチュア究極の形が誕生しました。有効画素数12.3メガピクセル、200~3200の広範囲なIS0感度、約8コマ/秒の撮影が可能、高密度51点AFによる高精度なPhoto_3フォーカシング、などなど(すべてカタログより引用)、かつていわゆるプロカメラマンがあの手この手を使って撮影していたSCENEを、今やアマチュアさんが「何も難しくないどぉ。簡単どぉ。うり!」で撮影できる時代です(まぁ、撮影という行為はそんな単純なものではありませんが)。とにかく素晴らしい時代です。こんな時代を嘆く(ふりをする)のは、「カメラはただの道具。撮ったのはこの俺様だ」と勘違いしているおっさんだけです。それを「嘆き」とかっこよく言わないでください。単なる怯えです。カメラマンとはいつの時代もカメラがあって初めて成りたつ職業、当たり前のことです。「ここまできたらもうカメラじゃねえょ」とうそぶくおっさんたち、あなたがもうカメラマンじゃない証拠ですよ。

 それはともかく・・・(笑)。キタムラで確認すると本体自体は25万円ほど。レンズキットだと30万円を超えるようです。※この金額を見て「そんなに高くないなぁ。何とか手が届きそうだなぁ」と考えるようになってしまったのは、現在の部署のおかげかな。これには感謝しています(笑)。いいものは安くは作れませんからね。とは言え、もちろんギリギリの家計。1台でハチローの月給などぶっ飛んでしまいます(泣)。買うと決めたわけではありません。

 もし新たなステップを踏める機会がきたら買おうかと・・・。その際はまた会社に借金するしか手はありませんが!

 他にも欲しいものはたくさんあります。μ(ミュー)ハウジング用の広角レンズ&接続リング、外付けフラッシュの一式もそう(合計10万はしますなぁ)。中型バイクの免許もそうです(講習代は約10万円らしい)・・・。あ、そう言えば、妻も空気清浄機&ミシンを欲しがっていたなぁ・・・。

 いくらあったら足りるんじゃい!!!(笑)

 あ、安い居酒屋でしまぁ飲むくらいの小遣いなら、妻から頂いておりますよー。誰かまたサラリーマンハチローの愚痴にお付き合いくださいませ。


ありがとう

2008年01月10日 | 家族、親戚

  先日の7日、テルおばぁが亡くなりました。数え年で九十歳でした。

 

※当ブログはハチローの日記的側面もあるため、通常通りの形式でUPさせていただきますが、けして明るい話ではないので、お読みになることを特にお勧めはいたしません(今回は写真もないですよー)。単に、この日のことをいつまでも忘れないために書き留めておきこうかと・・・。今更手書きの日記なんて書けませんからねー(笑)。その辺、ご了解くださいね。

 今後の記事UPも、初七日となる13日が明けるまで控えたいと思います。

 

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 半年ほど前、体調不良で緊急入院した際、胆のうガンである可能性が高いという報告を担当医から受けました。「今年いっぱい持つかどうか」と。それから半年以上、何度も危ない時期がありましたが、まご、ひ孫に囲まれて最後の正月を迎えることができたのは、本当にテルおばぁの最後の頑張りだったと思います。

 7日の夜10時ごろ、「おばあちゃんが息をひきとった」と携帯電話から父の震える声が届きました。いつかは来ると覚悟していましたが、一瞬、世界が止まりました。急いで妻と、テルおばぁが救急車で搬送された病院へ向かいましたが、到着するとすでに医者から死亡証明が出されたあとでした。搬送用ベッドの上に寝かされたテルおばぁの顔は本当に眠っているかのようでした。何だが信じられない思いで頭がおかしくなっていて、ハチローはそれほど涙が出てきませんでした。

 実はその日、というかその数時間前、ハチローは自宅のテルおばぁのそばにいました。会うたびに弱っていく状態でしたが、もう声もほとんど出せないようでした。ただハチローが行くと認識したかのようにうなずきました。妻が常に用意しておいた飲料用ペットボトルでいつものように「水飲むねぇ?」と聞くと「うん」とうなずくので、ストローを口に含ませたのですが、なかなか飲めません。やり方がおかしいのかといろいろ試しましたが、途中で気付きました。吸い込む力がなくなってきているのだと。何とかストローを逆さにして重力で水を口に流し込みましたが、スプーン5杯程度の量を飲むと、「もういいよ」というような手振りを見せました。

 いつもなら「早く元気になってまた外にご飯食べに行こう」とか「お正月には全員集まるからそれまでに元気になろうね」などという言葉が言えたのですが、このときはもうどんな言葉も軽いなぐさみのように思えて、「また来ようね」としか言えませんでした。するとテルおばぁはうんうんうなずきながら、ハチローに向かってVサインをしたのです。元気なときからたまにしたポーズでしたが、その時も「大丈夫」という意味でやったのでしょう。でも明らかに死期が迫っているのを感じたハチローは、帰り際父に「Kおじさんも呼んでいたほうがいい」と話しました。

 Kおじさんは父の唯一の弟で、テルおばぁにとっては次男にして末っ子。もう還暦を越えましたが訳あって20年以上も本土で働いており(家族も一緒)、帰省は数年に一回ほど。テルおばぁは常に案じていました。長男である父は厳しく育てたようですが、次男のKおじさんは本当に猫かわいがりしたようです。父が苦笑しながらよく言ってました。間違ってハチローにKおじさんの名前を呼びかけることもよくありました。遠く離れてしまった次男の姿を、背格好の似た孫に見ていたのかもしれません。

 看病疲れも激しい父は深刻な顔で「そうだな。便が取れたら明日にでも来い、と今から連絡する」と。その数分後に電話をしたそうです。しかし、残念ながら、Kおじさんは間に合いませんでした。テルおばぁは数時間後、天に召されました。

 最後を看取ったのは父でした。外で夕飯を取って(独り者なので外食なんです)帰宅すると、テルおばぁはガタガタ震えていたようです。これは完全に危篤だと慌てた父は、冷たくなった手を握って「お母さん、お母さん」と何度も呼び続けたようですが、ほとんど反応はなくそのまま呼吸が止まったそうです・・・。すぐ救急車は呼んだようですが・・・。ハチローに電話したのもその時間帯なので、もう分かったのでしょう。ただ父は泣きながらこう言いました「最後の瞬間カッと目を見開いて僕の顔を見た。手も強く握ってきた。息子がそばにいることを確認したんだろう」と。僕もそう思います。長男である父に最後のメッセージを伝えたのだろうと。

 ところが、死亡証明を出した担当医の話を後ほど父から聞いて、さらにビックリしました。「死後硬直はその2時間くらい前から始まっていたはずだ」と・・・。つまり父が最後を看取った時点ではテルおばぁはすでに息を引き取っていた、というのです。父が外で夕飯を取っているころに、もう命はとまっていたのだと。父いわく「遅れてきた息子のためにお母さんは最後の力を振り絞ったんだろう」と。僕もそう思います。

 

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  孫であるハチローにとって、テルおばぁはどういう存在だったのか・・・。

 ハチローらはほとんど父子家庭だったため、よく周りから「母親代わりのおばあちゃんだったね」といわれますがけしてそうではありません。テルおばぁはやっぱりおばあちゃんです。この世で一番優しいおばあちゃん、母親のいない寂しさを埋めてくれた本当に温かいおばあちゃんでした。

 心に残る思い出はいくつもあります。

 何度もいうように、かなり不安定だった家庭環境。まだ母親が同居していた頃(ハチロー小学校2年生)は、テルおばぁがいる実家の離れに居候していたのですが、転職を繰り返す父と、借金取りにおびえながら水商売をしていた母は毎夜、夫婦喧嘩(と言っても母が殴られるだけでしたが)。ふすま一枚挟んだ部屋のハチローら兄妹は、悲しくて悲しくて3人寄り添って耳をふさいで寝ていました。実家の主でありながら父と絶縁状態だったおじぃは全く無関心を装い、繁華街を楽しんでいました。そんなある夜、テルおばぁは我慢に耐えかねたのか夫婦喧嘩の最中に乗り込んできて「あんたたち、もうやめなさい!子供が寝ている隣で恥ずかしくないのか!」と号泣しながら、めったに出さない大声を張り上げました。ハチローが見た中でテルおばぁがあそこまで大声を出したのはその時だけです。というか激怒したテルおばぁを見たのもその時だけでしょう。酒を飲んで怒り狂っていた父もさすがに黙り込んでしまいました。鼻血を垂らしながら畳に横たわる母の姿も含めて、ふすまの隙間から見た光景です。

 その年、母はもう毎夜のごとく家を空けるようになり、父もノイローゼ状態、ハチローら3人兄妹は給食費も払えないまま、そして朝食もないまま、学校へ通う日々が続きました。今でいうネグレクト(育児放棄)でしょうね(笑)。そしてガス供給も停められていたのか(記憶にないのですが)、お風呂にも入れない日々が続きました。汚い話ですが、ある夏の日、ハチローは股間周りがもう擦り切れて痛くて痛くてどうしようもない状態になっていました。寝るころになると痛みはピークに達し(クーラーもないので暑いのです)、ハチローは我慢できず大声で泣いてしまいました。毎日の苦しい生活に対する絶望感もあったのでしょう。小学2年生とはいえ、男子たるもの情けない話です(笑)。しかし、いざというとき、強いのはやはり女ですね。姉と妹は僕が異常に泣いているのを見て、真夜中から隣のおばぁのもとへ駆け込みました(隣とは言え、口も利いてくれなかったおじぃが怖くて簡単に入れなかったのです)。テルおばぁは飛んできました。そして泣きながら僕のズボンを脱がして、股間周りを消毒し、濡れたタオルで拭いてくれました。そして「ごめんね。本当にごめんねぇ。悪いのはあんたたちじゃないんだよ」と何度も謝りながら・・・。本当に汚くて情けない話ですが、ハチローにとって一生忘れることのない大切な思い出です。

 結局その年、父と母はめでたく(?)離婚(ていうかなんで結婚したの?)。そして意外なことに、ハチローら3人は母方が引き取ることに(その以前も母方に預けられていたことはありますが)。ビックリしましたよ。子供心にも分かりましたから。こんな母親と住んだら今以上に最悪な生活になってしまうと(実際その後の3年間はハチローら3兄妹にとって地獄の日々でした)。結局、父は僕らを見捨てたのです。母の性格上引き取るつもりなど毛頭なかったはずですから。無理やりそういう形にしたのでしょう。数年後「あの時は僕も本当に苦しかったから一時預けただけだ。落ち着いたら引き取るつもりだった」と父は話しますが(実際3年後に引き取り、それ以降父子家庭としてやっていくわけですが)、僕は今でも父に対して心の底から怒りを感じます。その引渡し方もひどいものでしたから・・・おっとっと、テルおばぁの思い出をつづろうと思ったら変な方向に(笑)。

※家族がケンカすることをとても悲しんだテルおばぁ。その心をおもんばかりハチローは父を許すことにしています。そうでなければテルおばぁを生涯苦しめたアホおじぃと父のような親子関係になってしまいますから。アホなおじぃはもうろくしているので許すというより、どうでもいいと思っています。

 ・・・ということで、小学校も転校することに。ハチローは今後が不安でしょうがなくテルおばぁに泣いてすがりました。「ママのとこなんか行きたくないよう、こっちにいたいよう」と。またも情けない日本男子です。テルおばぁはハチローを抱きしめながら号泣しました。「ごめんね。おばあちゃんにはどうすることもできないさぁ。おばあちゃん一人であんたたちを育てたいんだけどねぇ。あんたたちには親がいるからねぇ。困ったときはいつでも逃げて帰ってきなさい」と・・・。ハチローらが独り立ちしたあとも、テルおばぁはたまに泣きながら「あの時が一番つらかったさぁ」と言っていました。

 いいんだよ、悪いのはおばあちゃんじゃないんだよ。本当に困ったときは、本当にいつでも助けてくれたからね。親に恵まれなかった孫3名は、海より深い愛情をおばあちゃんからももらったんだよ。

 さかのぼって、あれは幼稚園か小学1年のころかと・・・。お菓子など買える状況でもなかったため、いつも腹をすかせていたハチロー。あるとき学校で読んだ絵本(たぶん『グリとグラ』?だったかなぁ)に、主人公のねずみ達が玉子を使って大きな分厚いケーキを作るシーンがありました。それを読んでいるうちにとってもお腹が空いてきて、材料だけを見ると、家にもありそうな気がしたので「もしかしておばあちゃん、このケーキつくれるねぇ?」と聞きました(笑)。するとテルおばぁは「あい、簡単さぁ。つくれるよぉ。はい、一緒につくってみよう」とハチローを自分の前にたたせ、手をもち、玉子を割りながら作り始めました。わずか5分ほどで完成したそのケーキは、まず形が薄っぺらで、しかも食べてみると全然甘くなく、予想していたものとは違いました。でも味自体はおいしかったので空腹のハチロー、もちろんたいらげました。それから10年ほどたち、ハチローが高校生になった頃、思い出話で出すとテルおばぁは覚えていて、「あれは結局、塩と砂糖だけでヒラヤーチー(俗にいう「沖縄風お好み焼き」)をつくったんだよ」と笑っていました。具も何も入っていなかったヒラヤーチーですが、忘れられないおばあちゃんの味です。

 働きモノだったテルおばぁ(G商店は女手一つで繁盛させました。一戸建てを建て、息子二人を本土の私立大学に現金払いで通わせました)。勉強家だったテルおばぁ(読書量はハンパではなく新聞の投書欄にもよく載っていました)。現代的な感覚をもっていたテルおばぁ(アメリカ文化が好きでした。「アメリカぁより日本軍が悪い」と言っていました。無宗教でした。宝塚にも本気で憧れていたようです。60年以上前は当時花形職業だったバスガイドでした)。沖縄の女性らしく唄、踊り、琴、三線が好きだったテルおばぁ(ほとんど独学で学んでいたのです。アホなおじぃが禁じましたが)。そして何よりも子や孫、ひ孫を大切にしたテルおばぁ

 思い出してみても、いいところしかよみがえりません。

 ハチローが人生で一番尊敬する人です。女性の強さ、美しさを学びました。でも同時に女性の弱さも・・・。どれだけ素晴らしい能力がある女性でも、パートナーの人間力次第で、こんなにも人生を悲しまされるものなのかと・・・。それだけが本当に悲しいんです。 

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 テルおばぁの思い出は本当に語りつくせぬほどあります。ただ人間は常に未来に向かう生き物ですから、過ぎ去りし過去は少しずつ忘れていくのでしょう。そのために出来るだけ書き残しておきたいのですが・・・。古い記憶を思い出すというのも、なかなかというかかなり疲れるものなので・・・。いつか書き足す機会があればと・・・。未来の「俺」、忘れるなよ!

 

 9日、火葬と告別式を行いました。少ないながらも親戚が集まりました。前日の天気予報は晴れだったのですが、翌朝には雨になっており実際に午前9時に出棺するときには、静かな小雨が降りました。60年以上も住んだ那覇市の空気をテルおばぁが天から清めてくれたのかもしれません。

 8日の朝に駆けつけたKおじさんテルおばぁの遺体に抱きついて号泣しました。息子として最後を看取れなかった悲しみの大きさを、震える背中が物語っていました。大人の男が泣くのはさすがに見ていられなかったです。その夜は父と二人でテルおばぁの安置室で眠ったようです。親子三人みずいらずの話ができたことを祈ります。そしてKおじさんの長男でありハチローにとっては同い年のいとこであるタカユキも夜遅く到着しました。次回はぜひ観光で来てくれ、そして20年以上をたったけど、また一緒に遊ぼうぜと約束しました。

 テルおばぁを火葬施設に入れ終えたとき、ハチローも涙が止まりませんでした。自分でもこんなに涙が出てくるもんだとは・・・。我慢しようと思っても腹の底から震えがきてどうしようもありませんでした。やはり遺体の状態では、まだ死んだ気がしなかったのでしょうね。いざ、これから焼く、となると、こらえきれない別れの悲しさがこみ上げてくるんですね。

 父がおじぃの手を強引につかみ火葬開始のボタンを押させました。

 

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 生前最後に会ったとき、ハチローに見せてくれたVサイン。茶目っ気たっぷりなテルおばぁが、ハチローに送った最後のメッセージかもしれません。息をするのも苦しかったでしょうに、細く黄色くなった右手を出してピースをしてくれました。僕は、死ぬまで忘れないよ。

 「ぜいたくしたらダメよぉ。お金なんてあるだけでいい。人間は塩をなめてでも生きていける。でも戦争したら終わり」が口ぐせでした。あまり書くとがばい婆ちゃんみたいになってしまいますが(笑)

 感謝の気持ちはこれからの生き方で返すしかないのでしょう。

 天国ではおいしいものを食べてるかな。きれいな着物を着けたり、カラオケしたり、三線を弾いたりしているかな。地上では許されなかったことを、思いっきり楽しんでくださいね。何十年後に僕が行ったとき、またヒラヤーチーを作ってくださいね。

  おばあちゃん、海よりも深い愛情をありがとう。

 僕達孫3名はおばあちゃんがいなかったら、愛情というものを知らない悲しい大人になっていたはずです。

 ありがとう。そしてお疲れ様。

 そして残された家族を、いままで通り優しく見守っていてくださいね。

 

 おばあちゃん、心の底から、ありがとう。

 

 


七人の語らい

2008年01月07日 | どぅしぐわぁ

 6日に東京に戻るというヤスーン!の激例会をかねて5日の夜、新年会を開きました。場所は二転三転したあげく、久茂地川沿いのじぇいやというところに。全然客が入っていませんでしたが(泣)、料理はおいしいところでした。不思議です。参加者はいつもの野郎6名。一番遅れてやってきた森ドゥが例のCDを差し出しました(遅!)。全員分を用意してきたのが、森ドゥの優しいところではあります。その際の記念撮影が下です。受け取るところを撮ろうと思ったら、みんながポーズ(笑)。スナップショットの難しさを感じました・・・。ポン先生、CDで顔を隠しながらも変顔をチラ見させるテク、さすがです。

 そして出ました!右下のヒルズ院長。今日もご機嫌、はっぴ~いぇい! 

Cd

※配布された森ドゥバンド4EDGEのオリジナルCDは、インストゥルメンタルの全1曲入り(少な!しかもモニター表示は5分19秒ながら実際は4分21秒で終わります)ですが、この1曲がとてもいいっす! 完成されたメロディーラインをギターが辿っていき最後までその世界に引き込まれます(終わり方が少々あっけないのですが)。今すぐにでもすぽるとのメインテーマに使えますよ!女子高生などに聞かすのはまったくもって「タラの耳に禁酒宣言」・・・ではなく「馬の耳に念仏」ですな。森ドゥバンドにもっと大人の客層が集まれば、そのよさが分かると思うんですが・・・。ご興味のある方は当ブログメインの勝手にLINKから4EDGEにアクセスを!

 さて二次会は久々に桜坂のエロスへ。そうです、亀さんがでっぷり、いやどっぷりハマっているレトロ調のBARです。細身でスタイルのいいお姉さんがいました。そうか亀さん、なるほどねぇ、みずくさいなぁ・・・・。下写真はエロスのカウンター。雰囲気を感じていただければ。

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 オシャレなBARでも飲むのはやっぱりオジサンの酒菊の露ブラウン。水割りをまったり飲んでいるところへ、Tら~が衝撃の一言を放ちました!それはハチローにはまさに幻聴のように聞こえたのです。

 砂吉(すなきち)が来るってよ」

 「はぁ?砂吉ぃ?」 みんなが目を点にして聞き返しました。砂吉はこの場にいる6人と同様、N高の同級生。高校時代はいつもつるんでいた男です。※その当時の語りつくせぬ青春の日々♪はこの過去記事をお読みください⇒「開けない革の表紙」07/10/16記事

 中流もしくは比較的裕福な家庭に育った他の5名(まぁ人様の家庭事情は外からは分かりませんが)に対して、そういう意味ではいつも重度のコンプレックスを感じていたハチロー。勝手ながら唯一、同じ匂いを感じていたのがこの砂吉でした。貧乏くさい、という意味ではありません。いやそれもあります(笑)。「世の中が本当は汚ねぇってことを俺はいっぱい見てきたんだよぉ」的なある意味の屈折感、嫌世感などが体からにじみ出ていたのです(笑)。本当に勝手なハチローの印象ですが、彼は独特の存在感でした。※下写真はTら~撮影の桜坂。雰囲気でてますなぁ。勝手なトリミングお許しください・・・。

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 しかし二十歳を過ぎてから徐々にその存在感が薄くなり(本土に行ったとか、那覇市内に引きこもっているとか情報が錯綜)、ハチロー的にはかれこれ7、8年くらい会っていませんでした。Tら~だけが何度か音信をとっていたようです。

 そんな砂吉が今日この新年会に飛び入り参加するというのです! 会える嬉しさ以上に「生きてたんだ!」という安堵感の方が大きかったのも事実(笑)。

 亀さんに案内されて入ってきた砂吉「いったぁよぉ(お前たち)、で~じ久しぶり」とごくごく本当にごくごく普通の挨拶をしました(笑)。意外にもスーツ姿で右手には黒いカバン。高校時代からは想像できない普通のオッサンになっていました(笑)。そのいかにもなネクタイ姿が「まるでM-1用の衣装だ」というのはハチローと亀さんの共通した意見。しかし、三十路をすぎ顔の輪郭が多少たるんできているものの相変わらず贅肉はついておらずひょうひょうとした雰囲気はそのままでした。数年ぶりの再開は淡々としたものでしたが、砂吉、会えてよかったぜ!あの時の七人が下町のBARで勢ぞろいするなんて・・・オジサンの酒菊の露ブラウンがとても美味しく感じました。

 下写真は実は中学も一緒だというヤスーン!とのツーショット。もちろん、やらせ写真ですが「中学でも肩くんだことないぜ」という二人、この笑顔ならやらせもアリですね。Photo_2

 そして下が、スタイルのいいお姉さんに撮ってもらった「あんときの七人」です。みんなすっかりおっさんになりましたが、会話の内容は15年前授業をさぼりすーぅじぐわぁ(細道)でゆくっていたあんときと同じでした(笑)。

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 さて、3次会はお決まりのカラオケへと。下写真は途中いきなり占いをしてもらうTら~。いったい自分の何を知りたかったのでしょうか?気になります。

Da

 ところで占い料は2000円だとか・・おいおい5分で終わっただろう!(時給を計算すると2000円×12=24000円!)。寒い中、大変な職業だと思っていたら、一発当てるとなかなかのビジネスかもしれません。Tら~よ、ちみがその「一発」になったのかも(笑)。ハチローに頼めば200円ポッキリで「休肝日を設けないとそのうち大変なことになるでしょう」とだけ言ってやるのに・・・。※占い師は写真を撮っても嫌がらない穏やかなお姉さんでした!

 カラオケはやはり往年のヒット曲でフィーバー。Tら~が歌う「夏の終わりのハーモニー」は相変わらずいい曲でしたなぁ(今は冬ですが)。下写真はTら~森ドゥのデュエット。恐らく長渕の曲ですが、ハモるというか「俺の歌どぉ」という自己主張のぶつかりあいだったような気もします(笑)。

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 さてさて、7日から仕事というヤスーン! 帰省疲れも取れないまま、今頃は、またどこかの水中で工事をしているのでしょう。でも本部の海よりは暖かいぞ!(笑) 負けるな!

 あんときの七人が久々に飲んだ時、見えないエネルギーをもらったハチローです。

 今年も頑張りましょう!


08潜り初め

2008年01月03日 | ダイビング

 どぅしぐわぁにしてダイブ師匠ヤスーン!と2008年度の潜り初めに行ってきました。向かったのは本部(もとぶ)町の崎本部(さきもとぶ)。数年前、ヤスーン!に連れられてハチローらが初めてダイブした思い出のスポットです。ヤスーン!の(会社の)車で向かいました(下写真)。アイポッドでR&B系ナンバーを聞きながらCOOLに飛ばす師匠です。

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 北風が吹き、ほとんどのスポットが閉鎖するなか、本部半島の南にある崎本部はほとんど状態でした(下写真)。そして写真右は名物の奇岩ゴリラチョップ。文字通りゴリラがチョップしてるように見えることから付いたもの。そのままダイビングスポットの名称にもなっています。Cカード講習によく使われるということで、20名ほどのダイバーの姿が見られました。※1DIVE後に撮ったので水滴が付いています(すんまそーん)。

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 ところで・・・寒かったです!(笑)。ダイコンを見ると水温は21℃。マイログで確認すると昨年2月の与那国ですら24℃。そりゃ冷たいっちゅーに! 更に海風に体温を奪われたヤスーン!は生まれたての子羊のようにブルブル震える有様。「沖縄の海の方が寒いなんて・・・」。先週まで東京の川底で仕事をしていたザ・潜水作業士の言葉が、全てを物語っています。

 さて、海中ですが・・・。あちらこちらで講習風景が見られました(下写真)。まるでプールのような穏やかな海ですからねぇ。やりやすいんでしょう。

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 次は、指を鳴らし餌付けするふりをして、無邪気なロクセンスズメダイを呼び寄せる「そば寄れ詐欺」師ヤスーン!。おかげでシャッターチャンスが増えたハチローです。

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 サンゴ礁的にはそう豊富なポイントではありませんが、意外にソフトコーラルが群れていまPhoto_4 した。小さなお花畑という感じですね。右写真はデバスズメダイなどが群れるソフトコーラルです。しかし、可愛い熱帯魚などはそれなりにいましたが、大きいサイズや希少モノにはなかなか出会えず・・・。「命のゆりかご」というには少々寂しい光景でした。近くで海岸工事も行われていましたから。影響があるのでしょうねぇ。

 そんな中、今回見た海中生物の中で一番の大物だったのがコブシメ(コウイカの一種)。でも残念ながら遠くて、写真にも小さくしか写ってないものでUPは控えます。でも一匹しかいなかったなぁ。今はまだ産卵の時期、相手の見つからないオスだったのかもしれませんね。ガンバレ~!

Photo_5  そして今回、ある意味ハチローイチオシの写真をご覧下さい。左です!そうです、突如海底に現れたエイリアンです!逃げろ!ヤスーン!。・・・ではなく(笑)、変った形のサンゴ(?)でした。でも目らしきくぼみが二つあって、恐竜ティラノサウルスにも見えますなぁ。これだけ特異な形をしているので、常連さんらには何らかの名称を付けられているのかもしれませんね。

※そうでなければ、ハチローが発見した奇岩スポットにしてください(笑)。

 ところで、崎本部は白い砂地が広がるスポットでも有名。魚やサンゴを見飽きたら、フラフラと水中浮遊をしながら白と青Photo_6のコントラストを楽しむこともできます。右写真はまさにそういう世界に漂うヤスーン!。※実際は、ハチローのために一生懸命マクロ生物を探しているところなんですが(笑)。

 でもこういうところって、海中ながら空を飛んでいる気分を味わえるから不思議です・・・。

 満足の2DIVEでした。楽しかったぜ、ヤスーン!

 せっかく本部まで来たということで、お昼はハチロー一押しの岸本食堂へ! 中学生以来だというヤスーン!。10分ほど並んで待ちましたが、二人とも特盛り(700円)で腹を満たしました。名物ジューシーは売り切れでしたが、美味しかったですぅ。

 帰路はかなり込んでいました。北部からの帰省ラッシュでしょうね。

 帰宅後、器材を風呂場で洗っている最中も、太もも、ふくらはぎがパンパンです(泣)。仕事初めである明日、ハチローの肉体はどうなるのでしょうか・・・。

 前回、08年の決意を述べた以上、乗り越えなければなりませんな(笑)

 


ハチローの年がきました

2008年01月01日 | 年末年始

 あけましておめでとうございます。本年も当ブログへのご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。

 ていうか、コトヨロ~!

 さて、元旦の今日は妻と初詣に行っててきました。とは言え、K-1ダイナマイトやら無人Photo_2島100人パーティなるもののおかげで夜更かしし、更には寒さのため午前中もほとんど布団から出れなかったぐうたら夫婦。車で出たのは午後でした。なので初日の出なんてム~リム~リム~リム~リ! 右写真はあえて言えば初夕日に近いものでした。でも露出した肌が引き締まるほどの寒さの中、時折暖かい陽射しが注いできました。

 さて、向かっ たのは波之上宮です。午後4時だったので、そ れほど込んではいませんでしたね。屋台なども並んでいてお祭りっぽい雰囲気も出ていました(左写真)。

 妻は50円、ハチローは5円を(せこ!)を賽銭箱に投げ込み、新年の祈りを捧げました。昨年は病院で正月を迎えた妻Photo_3と今年は一緒に詣でることができ、普通の生活のありがたさを感謝し(神か仏か分かりませんが)、無病息災を願いました。

 そのままテルおばぁのところに行き、おじぃと四名で軽く正月祝い。テルおばぁは何とか座ることはでき、妻が作ったターンム(田芋)を少しですが、口にいれていました。ちょっとはホッとした新年の幕開けでしたなぁ・・・。

 さて、今年はいわずとしれた2008年。まさにハチローの年でもあります(こじつけます)。二度とこない年だと気合を入れなおし、公私ともに全力でいきたいと鼻息荒くするプチおじさんです。向かい来る荒波をすべてわが身のためと思い、真正面から立ち向かっていく所存でございます・・・。「言ったどぉぉぉ~!」

(注)明日のダンキンズ新春草野球大会脱力系で臨みます。だって明後日はヤスーン!と新春ダイブの予定ですから!スジを痛めたり風邪を引いたら大変ですぅ。

 皆さん、いい年にしましょうね!