沖縄 8 Scene

沖縄で生まれ沖縄に生きる
      8郎家の日記

ありがとう

2008年01月10日 | 家族、親戚

  先日の7日、テルおばぁが亡くなりました。数え年で九十歳でした。

 

※当ブログはハチローの日記的側面もあるため、通常通りの形式でUPさせていただきますが、けして明るい話ではないので、お読みになることを特にお勧めはいたしません(今回は写真もないですよー)。単に、この日のことをいつまでも忘れないために書き留めておきこうかと・・・。今更手書きの日記なんて書けませんからねー(笑)。その辺、ご了解くださいね。

 今後の記事UPも、初七日となる13日が明けるまで控えたいと思います。

 

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 半年ほど前、体調不良で緊急入院した際、胆のうガンである可能性が高いという報告を担当医から受けました。「今年いっぱい持つかどうか」と。それから半年以上、何度も危ない時期がありましたが、まご、ひ孫に囲まれて最後の正月を迎えることができたのは、本当にテルおばぁの最後の頑張りだったと思います。

 7日の夜10時ごろ、「おばあちゃんが息をひきとった」と携帯電話から父の震える声が届きました。いつかは来ると覚悟していましたが、一瞬、世界が止まりました。急いで妻と、テルおばぁが救急車で搬送された病院へ向かいましたが、到着するとすでに医者から死亡証明が出されたあとでした。搬送用ベッドの上に寝かされたテルおばぁの顔は本当に眠っているかのようでした。何だが信じられない思いで頭がおかしくなっていて、ハチローはそれほど涙が出てきませんでした。

 実はその日、というかその数時間前、ハチローは自宅のテルおばぁのそばにいました。会うたびに弱っていく状態でしたが、もう声もほとんど出せないようでした。ただハチローが行くと認識したかのようにうなずきました。妻が常に用意しておいた飲料用ペットボトルでいつものように「水飲むねぇ?」と聞くと「うん」とうなずくので、ストローを口に含ませたのですが、なかなか飲めません。やり方がおかしいのかといろいろ試しましたが、途中で気付きました。吸い込む力がなくなってきているのだと。何とかストローを逆さにして重力で水を口に流し込みましたが、スプーン5杯程度の量を飲むと、「もういいよ」というような手振りを見せました。

 いつもなら「早く元気になってまた外にご飯食べに行こう」とか「お正月には全員集まるからそれまでに元気になろうね」などという言葉が言えたのですが、このときはもうどんな言葉も軽いなぐさみのように思えて、「また来ようね」としか言えませんでした。するとテルおばぁはうんうんうなずきながら、ハチローに向かってVサインをしたのです。元気なときからたまにしたポーズでしたが、その時も「大丈夫」という意味でやったのでしょう。でも明らかに死期が迫っているのを感じたハチローは、帰り際父に「Kおじさんも呼んでいたほうがいい」と話しました。

 Kおじさんは父の唯一の弟で、テルおばぁにとっては次男にして末っ子。もう還暦を越えましたが訳あって20年以上も本土で働いており(家族も一緒)、帰省は数年に一回ほど。テルおばぁは常に案じていました。長男である父は厳しく育てたようですが、次男のKおじさんは本当に猫かわいがりしたようです。父が苦笑しながらよく言ってました。間違ってハチローにKおじさんの名前を呼びかけることもよくありました。遠く離れてしまった次男の姿を、背格好の似た孫に見ていたのかもしれません。

 看病疲れも激しい父は深刻な顔で「そうだな。便が取れたら明日にでも来い、と今から連絡する」と。その数分後に電話をしたそうです。しかし、残念ながら、Kおじさんは間に合いませんでした。テルおばぁは数時間後、天に召されました。

 最後を看取ったのは父でした。外で夕飯を取って(独り者なので外食なんです)帰宅すると、テルおばぁはガタガタ震えていたようです。これは完全に危篤だと慌てた父は、冷たくなった手を握って「お母さん、お母さん」と何度も呼び続けたようですが、ほとんど反応はなくそのまま呼吸が止まったそうです・・・。すぐ救急車は呼んだようですが・・・。ハチローに電話したのもその時間帯なので、もう分かったのでしょう。ただ父は泣きながらこう言いました「最後の瞬間カッと目を見開いて僕の顔を見た。手も強く握ってきた。息子がそばにいることを確認したんだろう」と。僕もそう思います。長男である父に最後のメッセージを伝えたのだろうと。

 ところが、死亡証明を出した担当医の話を後ほど父から聞いて、さらにビックリしました。「死後硬直はその2時間くらい前から始まっていたはずだ」と・・・。つまり父が最後を看取った時点ではテルおばぁはすでに息を引き取っていた、というのです。父が外で夕飯を取っているころに、もう命はとまっていたのだと。父いわく「遅れてきた息子のためにお母さんは最後の力を振り絞ったんだろう」と。僕もそう思います。

 

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  孫であるハチローにとって、テルおばぁはどういう存在だったのか・・・。

 ハチローらはほとんど父子家庭だったため、よく周りから「母親代わりのおばあちゃんだったね」といわれますがけしてそうではありません。テルおばぁはやっぱりおばあちゃんです。この世で一番優しいおばあちゃん、母親のいない寂しさを埋めてくれた本当に温かいおばあちゃんでした。

 心に残る思い出はいくつもあります。

 何度もいうように、かなり不安定だった家庭環境。まだ母親が同居していた頃(ハチロー小学校2年生)は、テルおばぁがいる実家の離れに居候していたのですが、転職を繰り返す父と、借金取りにおびえながら水商売をしていた母は毎夜、夫婦喧嘩(と言っても母が殴られるだけでしたが)。ふすま一枚挟んだ部屋のハチローら兄妹は、悲しくて悲しくて3人寄り添って耳をふさいで寝ていました。実家の主でありながら父と絶縁状態だったおじぃは全く無関心を装い、繁華街を楽しんでいました。そんなある夜、テルおばぁは我慢に耐えかねたのか夫婦喧嘩の最中に乗り込んできて「あんたたち、もうやめなさい!子供が寝ている隣で恥ずかしくないのか!」と号泣しながら、めったに出さない大声を張り上げました。ハチローが見た中でテルおばぁがあそこまで大声を出したのはその時だけです。というか激怒したテルおばぁを見たのもその時だけでしょう。酒を飲んで怒り狂っていた父もさすがに黙り込んでしまいました。鼻血を垂らしながら畳に横たわる母の姿も含めて、ふすまの隙間から見た光景です。

 その年、母はもう毎夜のごとく家を空けるようになり、父もノイローゼ状態、ハチローら3人兄妹は給食費も払えないまま、そして朝食もないまま、学校へ通う日々が続きました。今でいうネグレクト(育児放棄)でしょうね(笑)。そしてガス供給も停められていたのか(記憶にないのですが)、お風呂にも入れない日々が続きました。汚い話ですが、ある夏の日、ハチローは股間周りがもう擦り切れて痛くて痛くてどうしようもない状態になっていました。寝るころになると痛みはピークに達し(クーラーもないので暑いのです)、ハチローは我慢できず大声で泣いてしまいました。毎日の苦しい生活に対する絶望感もあったのでしょう。小学2年生とはいえ、男子たるもの情けない話です(笑)。しかし、いざというとき、強いのはやはり女ですね。姉と妹は僕が異常に泣いているのを見て、真夜中から隣のおばぁのもとへ駆け込みました(隣とは言え、口も利いてくれなかったおじぃが怖くて簡単に入れなかったのです)。テルおばぁは飛んできました。そして泣きながら僕のズボンを脱がして、股間周りを消毒し、濡れたタオルで拭いてくれました。そして「ごめんね。本当にごめんねぇ。悪いのはあんたたちじゃないんだよ」と何度も謝りながら・・・。本当に汚くて情けない話ですが、ハチローにとって一生忘れることのない大切な思い出です。

 結局その年、父と母はめでたく(?)離婚(ていうかなんで結婚したの?)。そして意外なことに、ハチローら3人は母方が引き取ることに(その以前も母方に預けられていたことはありますが)。ビックリしましたよ。子供心にも分かりましたから。こんな母親と住んだら今以上に最悪な生活になってしまうと(実際その後の3年間はハチローら3兄妹にとって地獄の日々でした)。結局、父は僕らを見捨てたのです。母の性格上引き取るつもりなど毛頭なかったはずですから。無理やりそういう形にしたのでしょう。数年後「あの時は僕も本当に苦しかったから一時預けただけだ。落ち着いたら引き取るつもりだった」と父は話しますが(実際3年後に引き取り、それ以降父子家庭としてやっていくわけですが)、僕は今でも父に対して心の底から怒りを感じます。その引渡し方もひどいものでしたから・・・おっとっと、テルおばぁの思い出をつづろうと思ったら変な方向に(笑)。

※家族がケンカすることをとても悲しんだテルおばぁ。その心をおもんばかりハチローは父を許すことにしています。そうでなければテルおばぁを生涯苦しめたアホおじぃと父のような親子関係になってしまいますから。アホなおじぃはもうろくしているので許すというより、どうでもいいと思っています。

 ・・・ということで、小学校も転校することに。ハチローは今後が不安でしょうがなくテルおばぁに泣いてすがりました。「ママのとこなんか行きたくないよう、こっちにいたいよう」と。またも情けない日本男子です。テルおばぁはハチローを抱きしめながら号泣しました。「ごめんね。おばあちゃんにはどうすることもできないさぁ。おばあちゃん一人であんたたちを育てたいんだけどねぇ。あんたたちには親がいるからねぇ。困ったときはいつでも逃げて帰ってきなさい」と・・・。ハチローらが独り立ちしたあとも、テルおばぁはたまに泣きながら「あの時が一番つらかったさぁ」と言っていました。

 いいんだよ、悪いのはおばあちゃんじゃないんだよ。本当に困ったときは、本当にいつでも助けてくれたからね。親に恵まれなかった孫3名は、海より深い愛情をおばあちゃんからももらったんだよ。

 さかのぼって、あれは幼稚園か小学1年のころかと・・・。お菓子など買える状況でもなかったため、いつも腹をすかせていたハチロー。あるとき学校で読んだ絵本(たぶん『グリとグラ』?だったかなぁ)に、主人公のねずみ達が玉子を使って大きな分厚いケーキを作るシーンがありました。それを読んでいるうちにとってもお腹が空いてきて、材料だけを見ると、家にもありそうな気がしたので「もしかしておばあちゃん、このケーキつくれるねぇ?」と聞きました(笑)。するとテルおばぁは「あい、簡単さぁ。つくれるよぉ。はい、一緒につくってみよう」とハチローを自分の前にたたせ、手をもち、玉子を割りながら作り始めました。わずか5分ほどで完成したそのケーキは、まず形が薄っぺらで、しかも食べてみると全然甘くなく、予想していたものとは違いました。でも味自体はおいしかったので空腹のハチロー、もちろんたいらげました。それから10年ほどたち、ハチローが高校生になった頃、思い出話で出すとテルおばぁは覚えていて、「あれは結局、塩と砂糖だけでヒラヤーチー(俗にいう「沖縄風お好み焼き」)をつくったんだよ」と笑っていました。具も何も入っていなかったヒラヤーチーですが、忘れられないおばあちゃんの味です。

 働きモノだったテルおばぁ(G商店は女手一つで繁盛させました。一戸建てを建て、息子二人を本土の私立大学に現金払いで通わせました)。勉強家だったテルおばぁ(読書量はハンパではなく新聞の投書欄にもよく載っていました)。現代的な感覚をもっていたテルおばぁ(アメリカ文化が好きでした。「アメリカぁより日本軍が悪い」と言っていました。無宗教でした。宝塚にも本気で憧れていたようです。60年以上前は当時花形職業だったバスガイドでした)。沖縄の女性らしく唄、踊り、琴、三線が好きだったテルおばぁ(ほとんど独学で学んでいたのです。アホなおじぃが禁じましたが)。そして何よりも子や孫、ひ孫を大切にしたテルおばぁ

 思い出してみても、いいところしかよみがえりません。

 ハチローが人生で一番尊敬する人です。女性の強さ、美しさを学びました。でも同時に女性の弱さも・・・。どれだけ素晴らしい能力がある女性でも、パートナーの人間力次第で、こんなにも人生を悲しまされるものなのかと・・・。それだけが本当に悲しいんです。 

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 テルおばぁの思い出は本当に語りつくせぬほどあります。ただ人間は常に未来に向かう生き物ですから、過ぎ去りし過去は少しずつ忘れていくのでしょう。そのために出来るだけ書き残しておきたいのですが・・・。古い記憶を思い出すというのも、なかなかというかかなり疲れるものなので・・・。いつか書き足す機会があればと・・・。未来の「俺」、忘れるなよ!

 

 9日、火葬と告別式を行いました。少ないながらも親戚が集まりました。前日の天気予報は晴れだったのですが、翌朝には雨になっており実際に午前9時に出棺するときには、静かな小雨が降りました。60年以上も住んだ那覇市の空気をテルおばぁが天から清めてくれたのかもしれません。

 8日の朝に駆けつけたKおじさんテルおばぁの遺体に抱きついて号泣しました。息子として最後を看取れなかった悲しみの大きさを、震える背中が物語っていました。大人の男が泣くのはさすがに見ていられなかったです。その夜は父と二人でテルおばぁの安置室で眠ったようです。親子三人みずいらずの話ができたことを祈ります。そしてKおじさんの長男でありハチローにとっては同い年のいとこであるタカユキも夜遅く到着しました。次回はぜひ観光で来てくれ、そして20年以上をたったけど、また一緒に遊ぼうぜと約束しました。

 テルおばぁを火葬施設に入れ終えたとき、ハチローも涙が止まりませんでした。自分でもこんなに涙が出てくるもんだとは・・・。我慢しようと思っても腹の底から震えがきてどうしようもありませんでした。やはり遺体の状態では、まだ死んだ気がしなかったのでしょうね。いざ、これから焼く、となると、こらえきれない別れの悲しさがこみ上げてくるんですね。

 父がおじぃの手を強引につかみ火葬開始のボタンを押させました。

 

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 生前最後に会ったとき、ハチローに見せてくれたVサイン。茶目っ気たっぷりなテルおばぁが、ハチローに送った最後のメッセージかもしれません。息をするのも苦しかったでしょうに、細く黄色くなった右手を出してピースをしてくれました。僕は、死ぬまで忘れないよ。

 「ぜいたくしたらダメよぉ。お金なんてあるだけでいい。人間は塩をなめてでも生きていける。でも戦争したら終わり」が口ぐせでした。あまり書くとがばい婆ちゃんみたいになってしまいますが(笑)

 感謝の気持ちはこれからの生き方で返すしかないのでしょう。

 天国ではおいしいものを食べてるかな。きれいな着物を着けたり、カラオケしたり、三線を弾いたりしているかな。地上では許されなかったことを、思いっきり楽しんでくださいね。何十年後に僕が行ったとき、またヒラヤーチーを作ってくださいね。

  おばあちゃん、海よりも深い愛情をありがとう。

 僕達孫3名はおばあちゃんがいなかったら、愛情というものを知らない悲しい大人になっていたはずです。

 ありがとう。そしてお疲れ様。

 そして残された家族を、いままで通り優しく見守っていてくださいね。

 

 おばあちゃん、心の底から、ありがとう。