沖縄 8 Scene

沖縄で生まれ沖縄に生きる
      8郎家の日記

引っ越してGW

2016年05月05日 | 家族、親戚

 8郎家、ついに引っ越しました!

 ごらんください、新居となるマンション8階のベランダ、いやバルコニーから眺める美しい朝日を! 朝からエネルギーがみなぎります。お隣さんはうそついてなかったっ。てだこ祭りの花火もきれいに見えるとか。

 引っ越し作業はなかなか大変でした(まだ終わってませんが)。大型連休がなければどうなっていたことやら、です。家族力を合わせて、9割がた完了いたしました。

 うん十万円かけたソファセットも無事納品。座り心地は最高です。すでに愛息10郎が飛んだり跳ねたり、靴下から砂をばらまいたりしていますが・・・。テレビも、新しいテレビボードで壁かけにしました。新しい我が家で、新しい生活です。新調したパソコンでブログも適時更新していきますので、今後ともよろしくお願いいたします。WindowsXP(古!)からWindows10に変わったので作業環境のあまりの違いに戸惑っているところです。

 パソコン一式は9万円以内で購入できました。詳しい職場の先輩に聞いてよかったなぁ。

 キッチンは妻のイメージどおりにリフォーム。後ろの棚もリフォーム屋さんがきれいに作ってくれました。

 

 さて、大型連休に入る前、我が家の一年で最大のメモリアルを迎えました。それは10郎と妻の誕生日です。せっかくだからと、10郎が転出した保育園で親友だったR君のご両親が営むイタリアンレストラン「コンタディーナ」へと。パスタ、肉、デザートともにおいしゅうございました。

 シェフパパは10郎のためにメッセージいりケーキを出してくれました(写真はなし)。途中でR君もやってきて、旧交(?)を温めました。よかったね、10郎。

 引っ越す直前に再会したA君も合わせた仲良しトリオを、一生忘れるなよ!

 浦添市内間のコンタディーナは価格も手ごろで本格的なイタリアンが楽しめます。駐車場も数台あるので、みなさんもぜひ足を運んでみてください!

 

 連休初日は、引っ越し疲れをいやすため、近くの「ピノーステーキ」でランチを食べました。千円台で300㎏のオージービーフが売りです。さすがに肉質は絶品というほどではなかったのですが、これで千五百円程度なら、コスパ的に優れていると思います。それ以上に感動したのが、写真右上の牛すじカレー(250円)です。めっちゃおいしかったです。残念ながらサイドメニューでしか頼めないそう。また来ようっと。

 連休2日目は、10郎の希望で、南城市のおきなわワールドへ。冒険気分が楽しめるという「マヤー遺跡」に父子で入りました。下写真は、多少の不安を打ち消すかのように、気合を入れる10郎です。真っ暗な施設内ではずっと父の手を握っていましたが(笑)。

 施設内では、ちびっ子たちのために優しいお姉さんたちがエスコート。冒険気分は半減しますね(笑)。女子高生のバイト生だと思うのですが、みなさん愛想よく頑張っていました。おきなわワールドさん、ぜひ時給を上げてやってください! メーンのぐらぐら橋でお姉さんと記念撮影。

 そして、最後にお宝をゲット! 金貨に見せたチョコレートでした。

 恒例のヒーローショーも見学。最後尾だったので、8郎が約30分間、肩車してあげました。あまりの重さに今年こそ最後だと実感。体重20㌔の10郎に肩が脱臼するかと思いましたよ。生まれてから6年で体重が6倍超になるって、幼児の成長力に感嘆しきりの42歳です。

 楽しかったけど、疲れもたまった大型連休前半戦でした。

 さて、連休の後半は、名護からじいじばあばがやってきます。わが家の甘えん坊が、小皇帝に増長するときです(笑)。その模様は後日お伝えします。


8郎、家を買う

2016年02月20日 | 家族、親戚

 某番組のタイトルをパクったわけではありません。本当です。8郎、ついに家を買いました。

 と言っても、中古マンションです。土地資産のない8郎にとって、新築はほとんど夢ですから。ローン支払いの面でも、妻には可能な限り働いてもらうことになります。

 選んだ物件は、妻と10郎と歩き回り、行き着いたものでした。妻は当初から第一候補に挙げていましたね。買うか、買わないか、という判断を迫られてから、わずか一週間内で即決。

 人生初、自分の家となる物件は3LDKで価格は2千万円代前半。10年ものですが、リタイア組の70代男性がセカンドハウスとして利用していたもので、ほとんど生活感が残っておらず、きれいな内装です。周辺には徒歩圏内に小中学校、スーパー、病院など生活環境も充実しています。

 さらに8階なので、見晴らしも良好です。宅建業者と売主さんいわく「朝日が最高」だそうです。右方面には遠く首里城も見えました(画像ではほとんど無理)。 

 人生最大の買い物を、ほぼ一週間で即決したのには、大きな理由が二つあります。

 一つは、なんと、物件を紹介してくれた宅建業者の社長さんが、お隣に住んでいるのです! しかも、8郎家同様、昨年に中古で購入したそうです。家族持ちの不動産社長が「即決」した物件なら、マンションのグレードとしてお墨付きであることと、さらには、長いお隣づきあいとなる客にいい加減な説明はしないだろうとの判断がありました。実際、H社長はもうお隣さんであるかのように熱心に対応してくれます。10郎も「ふどうさん」と呼んで、遊んでもらっています。「ふどう」という名前のおじさんだと思っている様子(笑)。

 二つ目は、その10郎です。10郎はことし4月に幼稚園、来年には小学生です。小学校入学時はいつも遊んでいた友達と一緒に行かせたいという親心です。選んだ物件は浦添市内の住宅街なので、「一生の友達」というのができるのではないかと考えました。幼いころ、数回の転校を余儀なくされた父親の切なる親心です(転校したことでいろんな友達に出会えたけどね)。

 この二つの理由から、この物件を今買っても後悔はしないだろうと、妻と二人、業務中にメール交換し(笑)、最終決断しました。売主もどうしても年度内に売りたいらしく、最終的に1割近く値下げをしてくれたのも後押ししました。

 ただ、やはり一戸建てでないことには、無念も残ります。10郎に資産を残してあげられないわけですからね。マンションは一日経てば資産価値ゼロとはよく聞きます。ましてや中古物件です。余計な財産など残すつもりは毛頭ありませんが、いつか独り立ちした10郎が、正月には車で戻って来られる一戸建ては憧れだったのです。でも、経済的事情から断念となりました。ごめんな、10郎。その代わり、家族で楽しく充実した生き方をしようぜ!

 そんな10郎の保育園最後の参観に出席してきました。友達のR君と一緒に朝礼の司会を務め、エイエイオー。でも数日前から体調を崩していたのであまり元気はありませんでしたね。

 展示もありました。日頃からテレビの前で粘土に夢中の10郎、こんな力作を作っていました。ヘラクレスオオカブトムシです! 親バカながら、重量感があってうまい!

 話は戻りますが、新居への引越しは4月頭になりそうです。今、妻が内装を楽しげに選んでいます。

 ついに「家持ち」になり、長年のローンを背負うことになります。しかし、どことなく気持ちが安定しているような気がするのも事実です。ほぼ「終の棲家」を決めたことで、将来を見据えて、腹も据わった感があります。ふらふらしていた8郎も43歳を前に、ようやく大人になったのでしょうか(笑)。結婚したとき、10郎が生まれたときほどではありませんが、人生の転機の一つとなります。自分の家から、仕事も余暇も頑張ります!


休業決めた秋分の日

2015年09月22日 | 家族、親戚

 宅建の勉強にあてようと決めていたシルバーウイークですが、42歳の妻子持ちにとってはかなり厳しいものとなりました(泣)。平日に比べ勉強時間は確保できたものの、やはり家族サービスをまったくしないわけにもいきません。中南部をドライブした2日間の様子を報告いたします。追記:宅建模試の結果もかなりやばいものでした(これは後ほど報告します)。

 8郎の父(10郎にとってはKじいじ)を連れて、世界遺産の中城城跡にドライブに出かけました。Kじいじが歴史ガイドをしていたのと、本人がかねてから、10郎を泡瀬漁港の食堂に連れて行きたいと言っていたからです。親孝行と父の務めから、テキストをおいてエクストレイルを走らせました。 秋晴れの空に映える中城城跡です。

 入ってすぐのところにはジオラマも。分かりやすいっ。でも全景写真を撮るときはちょっとじゃまかな。

 早速、入り口へ。Kじいじいわく、実はここ裏門だとか(驚)。確かに正門はコースの最後にありました。10郎が「ここ風が気持ちいいね」と喜んでいました。君はなかなかの詩人だね。かのペリー提督ご一行も、この石積みアーチを「エジプト式だ」と評価したということです。 

  二の郭では城壁に登れます。さすが沖縄でも知名度トップクラスの城跡です。かつての城主、護佐丸(ごさまる)の栄華がしのばれる勇壮な眺めでした。

 

 10郎はKじいじと記念撮影。

  そして、またしてもアーチをくぐりぬけ、メーンの一の郭へと向かいます。

 アーチをくぐるとまず目に飛び込んできたのが、そうです、かの有名な廃屋ホテル「中城高原ホテル」です(写真奥)。まるで中城城跡の一部かのような存在感です。10郎も頭を抱えています(笑)。

 

 

 

 

 

 

 中城高原ホテルは1975年の海洋博と同じ開業を狙っていたようですが、「建築基準法違反」(Kじいじ談)で行政から開業にストップがかかり、その間に施主が倒産、40年近く風雨にされ続けてきた無残な形骸を残し、現在に至っているということです。作家の花村萬月も著書「沖縄を撃つ!」で詳しく紹介しています。

 一の郭から出るアーチを除くと、じゃじゃーん。真正面に位置する廃屋ホテルは、さならるインパクト。もう主役です。

 念のため全景もUPします。一番上はさぞや眺めがよいことでしょうね。素人の8郎が見ても耐震性が不足しているというのが感じられました(笑)。

 中城高原ホテルの入り口には立ち入り禁止の表示が(下写真)。実は8郎も、立ち入り禁止の表示などなかった10年近く前、一人で中に入ったことがあるのですが、あまりの殺伐とした雰囲気に怖くなって、30㍍ほどで引き返しました。夜なんてとても入れませんよ。

  廃屋ホテルに分かれを告げ、帰路で鳥の巣を発見しました。Kじいじが10郎にプレゼント。いいのかい!

  帰り間際に券売所となりのパーラーでマンゴーアイスを。まんまマンゴーの味でした。

  その後、泡瀬漁港まで車を走らせ、食堂に。一人で観光中だという台湾の女性と相席でした(謝謝)。8郎は海鮮丼を注文。イクラ、カニ、サーモンが入っていたのはご愛嬌! 

  Kじじい、ありがとう。10郎も中城城跡がとっても気に入ったようです。 

 最終日となった秋分の日は、10郎が行きたがっていた南風原町の本部公園へと。保育園の遠足で来たとき、この大型遊具がとても楽しかったとのこと。かーかーが近くの病院に行っている間に、父と二人、満喫です。 

  高いところから、おとーさーんと呼ぶ10郎。いつまで無邪気に呼んでくれるかなぁ。 

  すべり台も充実。秋分の日とはいえ、灼熱の太陽でした。

 父子で長いロングすべり台にも挑戦。すべリ終わったあとは、しりに火がついたようでした。

 1時間ばかり走り回り、汗びっしょりの10郎です。満足したかい? ジュースを2本近く飲んだね。

 診察を終えたかーか-を出迎えたあとは、車で20分のカフェへ。名前は忘れました。とーとーと10郎はハンバーグ。 かーかーは、チキンでした。

 10郎は帰宅したら昼寝をすると約束してくれました。(本当に寝てくれました)。いっぱい遊んだからね。アイスクリームも新垣ちんすこうバージョン(市販もされています)があり、おいしかったです。

 以上、地味ですが、家族で満喫した2015年シルバーウイークでした。

        ◆        ◆        ◆        ◆

 さて、宅建ですが、やばいっす。本番まで1ヵ月をきった先日、最後の全国模試を受けたのですが、結果は最悪。手ごたえとしては「合格点には全くとどかないが、望みをつなぐ5割には届いているだろう」とおもっていたのですが、配布された解答とあわせると、なんと50点満点中21点。4割です! かなりのショックでした。何度もいいますが、合格ラインは7割です。

 冷静になって考えると、最近やっと通算200時間を超えたばかり。ネットで見ると、初学者で合格した人たちの平均勉強時間は250~300時間というので、それにまだ届いていないのです。まだまだ土俵にあがれるほどの土台が出来ていないんだと反省しつつ、希望を捨てずに、再びテキストに向かいます。過去問も3クール目が終わりそうです(まだ6割ラインですが)。4クール目で7割以上取れるように、テキストと心中じゃっ。最後の最後まであきらめないぞ~

 

 ということで、試験本番の10月18日まで、勉強を最優先に頑張ります。その日までブログも休業です。よろしくお願いいたします!


命のつながり

2015年05月22日 | 家族、親戚

 5月20日、父方の祖父がなくなりました。94歳でした。死因は、同居していた父によると風呂場での転倒による溺死ということです。そして今日家族葬をすませてきました。

 

 幼いころ、離婚した両親の元をいったりきたりさせられた8郎と姉妹は、祖父との交流がほとんどありませんでした。思い出も特にありません。これは祖父だけでなく親戚のほとんどがそうです。そういう意味では父を今でも恨んでいます。棺の中の遺体と対面したときも火葬のときも涙は出てきませんでした。7年前の祖母のときとは大きな違いでしたね。

 

 ただ、やはりなんだか胸を揺さぶるものがありました。それはやはり、血がつながっているということでしょうか。父とはうりふたつの祖父ですが、8郎とはほとんど似ていません(悲しいことにハゲ遺伝子はちゃっかり相続しました)。それでも、8郎にとって息子10郎に続く自分のルーツを考えると、切っても切れない人だったわけです。

 

 あくまでも昔父から聞いた話です。祖父は泡盛用の酒樽つくりを営む家で育ったようです。祖父の父(8郎にとってのひい爺さん)はものすごい大酒飲みで、当時沖縄に走っていた鉄道の線路上で寝て、危うくひき殺されそうになったりするなどいくつも迷惑話を残しているようです。そんなひい爺さんを見て育ったためか、祖父はほとんど酒を飲みませんでした。第2次世界大戦前に祖母と結婚し(親が決めたと祖母は言ってました)、すぐに海軍に召集され戦争に派遣されました。日本軍の上司に毎日殴られるなどつらい思いをしたと、かつて本人の口から聞いたことがあります。鉄の暴風と呼ばれた沖縄戦時中に祖母が8郎の父を生みました。

 

 戦後は、祖母が中心となった商店を営みながら、祖父は保険会社の営業マンなどし、父と父の弟の二人を育てました。ただ、父によると、あまりいい思いではないそうです。台風襲来のときに、母子を部屋に残して自分だけ玄関に避難したとか、弟ばかりをかわいがったとか。憎しみしかきいたことがありません(ここでは書けないみっともない話ばかり)。祖母も相当苦しんだようです。

 

 8郎きょうだいも、壁一枚へだてて同居していた時期もありますが、祖父はほとんど口を聞いてくれませんでした。幼いころ8郎が室内の壁に伝わるアリをライターで焼き殺していたら(子供って残酷!)、祖父がすっ飛んできためちゃくちゃ怒られた記憶は鮮明ですが(笑)。また、父により母方のもとへ強制移住させられた8郎きょうだいが夏休みに泊りがけで遊びに来ても、ほとんど無視していました。父と何十年も憎しみあっていたので孫すらもかわいく思えなかったのでしょう。祖母は泣きながら抱きしめてくれましたがね。祖父が8郎に積極的に話しかけてきたのは8郎が国立大学に入ったころからです。8郎が社会人となってからも、会社にまで来て父の文句をいうのには本当に閉口しましたよ。

 

 ここに書くだけでも、気の小さい人間だったというのがすぐ分かりますね(苦笑)。故人を偲ぼうにも、いい思い出がないのだから仕方ありません。そういう意味ではかわいそうな人だと思います。ただ、彼は彼なりに、一生懸命に生き、誰にもわかってもらえない苦しみを抱えていたのだろうとは思います。でも、周りに愛情を注げなかったのだから、周りも理解してあげられませんでした。

 

 ありがとう、おじいちゃん、といえる心境ではとてもありませんが、自分のルーツとして、祖父の人生をしっかり胸に刻んでおこうと思います。彼がいなかったら、8郎も、そして10郎もいなかったわけですから。

 

 おじいちゃん。生きている間はへどが出るくらい家族げんかをしたんだから、天国ではおばあちゃんと仲良くね。そして、自分のルーツのつながりである息子や孫、ひ孫たちのこれからの人生を見守っていてください。

 

 94年の激動の人生、おつかれさまでした。

 

 

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 さて、その8郎も先日、めでたく42歳となりました。毎年恒例、家族3人で祝いました。主役をおしのけローソクを消す5歳の王子です。

 そして誕生日当日は、久方ぶりに8郎の好きなサムズへ。豊見城のバイザシーです。カメハメハ大王がお出迎え。

  サムズは室内の雰囲気も8郎は好きです。冒険ロマンチックですよね。

 10郎のお子様メニューについてきたジュースはどくろに入っていました。真っ赤なジュースだったというのもあって妻は気味悪がっていましたが、この遊び心、いいですね。

 一応主役の8郎はふんぱつして4000円ほどのメニュー。フィレステーキに大きなエビフライ、魚フライもありました。もちろん満腹ですっ。お味はというとB級かなぁ。でも雰囲気を楽しめるレストランだからよしとしましょう。

 振り向けばあっというまの42年間でした。こうやって気付けば50になっているのでしょうね。仕事も宅建ももっともっと頑張らなければっ。頑張れるうちに頑張って、後悔することはないでしょうから。

 

 最後に、またしても潮干狩りをしてきたので写真でご報告です。

 貝、見つけたど~。

 小さなタカセガイでした。これって条例で捕獲が禁止されているんですね。もちろんリリースしましたが。

 さ、週末は宅建頑張るぞ。42歳の尻を叩きます! 


不惑の入り口で思うこと

2013年06月17日 | 家族、親戚

 先日、ついに40歳になった8郎です。思ったほどの感慨はありませんでしたね。

 これまでの40年を振り返ると、我ながら波乱万丈でした。地獄のようだった少年時代に夢見たかっちょいい大人には決してなっていませんが、精神的に安定した生活を送ることが出来ている今、支えてくれる妻と愛息10郎に感謝です。

 

 誕生日は自宅で家族3人で過ごしました。妻が8郎の好きなものを並べてくれました。牛ステーキトロうなぎ! 3品が一度に並ぶ豪勢なディナーとなりました。やっぱり我が家での食事が一番ですね。

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 ケーキに立てられた4本のローソクを10郎とともに消します。主役を完全に奪われたぁ。

Tannjoubi

 40歳、完全なおっさんですが、一心不乱に働ける最後の10年だと思って、チャレンジしきった40代にしたいと思っています

 

 先だっての日曜日は、8郎の簿記3級の試験と重なっていたため、かーかーと10郎は名護に里帰り。じいじばあばと本部伊豆味のよへなあじさい園に行ってきたようです。楽しそうだね~。Photo_3

※とーとーは試験はだめだめでした(泣)。甘く見ていました。合格発表を見るまでもなく落ちているでしょう。11月の2級試験で名誉挽回いたします!

 

 名護のばあばが、衝撃写真を撮影してくれたので、みなさんにも公開いたします。名護の家にキジムナー(木の妖精)が出たのを、激写したとのことです!その衝撃の写真をどうぞ。

 いた! キジムナーだ!! すたこらさっさ~ すたこらさっさ~ 

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 元気いっぱいのキジムナーですなぁ(笑) 風呂上りかなぁ

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 そのキジムナーは、浦添の自宅アパートに帰ると、じいいじばあばからの電話に対し、日頃の感謝はどこへやら、寝たまま耳に乗っけて会話する有様です。写真奥は爆笑するかーかーです。

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 そんな10郎も、今ではマイリュックを背負い、登園します。その後姿に成長を感じてまぶしいくらいです。ゆっくり成長していいんだよ。親バカご免。

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 個人的には順調な毎日を送っているのですが、心配なのは、姪っ子甥っ子のことです。親の病気が原因で悲惨な生活を送っています。助けようにも、その病気が障壁となってにっちもさっちもいかない最悪の状態が続いています。力になれない自分が情けないです。二人の将来のことを考えると、夜中におきてしまうこともあります。なんとかしないといけないんですが…。


次世代へのリレー

2012年10月09日 | 家族、親戚

 天高くわれ肥ゆる秋 姪っ子甥っ子の運動会に参加してきました。下写真は、リレーで激走する姪っ子のひまりんです。お母さん譲りの健脚を披露してくれました!

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 甥っ子たいちんもご覧の通り元気いっぱい(下写真中央)。友達といっしょに楽しんでいた様子。

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 幼いながらも、家庭的にいろいろ苦しい時期を迎えている二人。どんなことがあっても姉弟二人手を取り合ってたくましく生きていくんだぞう! おじさんも一生懸命応援するからな

 この二人に、NAOTA、その妹のYUNAちゃん、そして我らが10郎と。ハチロー家のいとこが始めて全員集合した記念すべき日でした。おじさんは涙が出そうでした。おじさんにはそういう経験がなかったからね。じいじも来てみんなでお弁当を食べたね。おじさんは一生忘れません。

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 さて、愛息10郎ですが、最近、いかにして楽をするかということに頭を使い始めています。その一例が下写真。ほぼ毎日かかってくるばあばの電話を、受話器をほほに乗せたまま会話しているのです。笑っちゃうなー。 

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 この知恵は将来きっと活かせるはずだ…多分。

 そんな愛息と先日、初めて二人で居酒屋に行きました! 楽しかったなー。母ちゃんには悪いが、男同士の楽しみが増えたね(さすがにあとから妻も呼びましたが…) 。よく息子が成人したら酒を飲みたい、などどいいますが、8郎はそう思いません。自分と自分の父親がそうだったように、成人したら、友達や職場の先輩とのみにいったほうが、人生のためになるからです。

 だからこそ、物心つくまえに、たくさん二人で飲みに行きたいのさ。つまりはとーとーの親心であり、わがままでもあります。ちびスケ、また行こうぜ!

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 自分の残されたサラリーマン人生より、愛息や姪っ子甥っ子たちのこれからの人生のほうが楽しみに感じる39歳のおっさんでした。次世代にバトンをしっかり渡すために、仕事をがんばろうっと。


ウークイに新しい命

2012年09月01日 | 家族、親戚

 旧盆でしたね。あの世(ぐそー)からご先祖、友人らが戻ってきて交流する日です。8郎は、4年前に亡くなったいちどぅしヤスーンと久々に飲もうと、どぅしぐわぁたちに呼びかけました。多くが集まってくれました。写真撮るの忘れたので絵はありませんが、楽しかったなぁ。みんな、またやろうぜ。ヤスーンも喜んでいただろう  

 さて、旧盆中に、8郎の妹が2人目の赤ちゃんを授かる可能性が出てきたので妹の長男NAOTA(6歳)を1日預かることに。10郎も大好きなNAOTA。4人で豊崎アウトレットモールで開催中のトリックアートを見てきました。

 遠近感を利用したトリックブースで撮影。10郎がNAOTAの半分になっている!

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 二人の立ち位置を変えると…。 逆転! 

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 それにしても10郎よ、君はとーとー似で仮分数だねぇ。池乃めだかとも記念撮影しました。

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 ウークイは8郎の実家、前島に。ヤスーンと同じく4年前に無くなった8郎の祖母テルおばぁにうーとーとーする10郎とNAOTA。10郎が合掌する姿に涙が出そうになった8郎です。NAOTAの視線が面白くて思わずモザイクを忘れたおじさんを許しておくれ。Photo

 さて、妹はウークイに無事出産。病院に急いで向かいました。女の子です。名前はユナに決定だとか。ご先祖さまが厄から守ってくれたのでしょうか。元気に3500グラムです。生まれたてのユナちゃんをまじまじと見る10郎。お前ももうお兄さんだぞう!Photo_4

 10郎のまるまるとしたほっぺもちょっとだけお兄ちゃんに見えました。帰宅すると、近くで青年会が道ジュネーをしていました。太鼓の音が、市街地に響いていました。沖縄の夏の風物詩ですね。 妻が200円寄付してあげました。Photo_6

 さて、明日は日曜日なのに出勤に(泣) 風邪気味で疲れもたまっていますが、頑張ります。


この暑いときに

2008年08月23日 | 家族、親戚

 先日、那覇の家族が、名護に遊びにやってきました。父、姉妹とその子供達計6人です。子供達の夏休み中にぜひやんばるで遊びたいという姉妹たっての(半ば強引な)お願いのためです(笑)。やはり那覇という大都会にいると息がつまるのでしょうかねぇ。市内の21世紀ビーチバーベQをやることに。ビーチの予約、買出しなどなど、ほとんど妻がやってくれました(謝謝)。下写真はその風景。当然ながら真夏日が続く沖縄ですが、夕暮れ時を選んだのでそこまで暑くはなかったです。さらに平日に敢行したのが功を奏し、混んでもいませんでした。

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 ハチローも泳ぎたかったのですが、チビどもとその母連中が水遊びしている間、見張りをしなければならなかったので、実現せず(残念!) しかし野外で家族とメシを食うというのも、たまにはいいものですねー。

 その後、場所を移して、ハチロー妹の長男NAOTAの二歳Photo_2の誕生日を祝いました。誕生直後は「ぶさいくベイビー」と不名誉なあだ名を命名されたNAOTAですが(犯人は伯父です)、今やまさに可愛い盛り。ヨチヨチ歩きながら言葉も覚えてきています。お昼の水遊び終了後はフルチンで芝生を走り回っていました。平和な光景でした(笑)。最近の得意ギャグは「オモロー」。しっかり両手の親指立ててます(笑)。愛嬌たっぷりで親戚中のアイドルNAOTA。くれぐれも甘やかさないように、気をつけなければなりませんなぁ。NAOTAよ、伯父さんはとっても怖いのだぞう。

 左写真は満月の夜、大宜味の塩屋大橋で撮影した月の道です。うぅ~ん、月が高すぎて、しかも小さい。失敗作ですなPhotoぁ。東村の海岸ならもっといい絵が取れるのですが、そこまでして撮ろうとも思わない体重が重けりゃ腰も重い、なんちゃってカメラマンのハチローです。

 いや、来年撮ります!

 話は変わって…。皆さんは夏休みは取得されたでしょうか。お盆で終わったという方が多いのでしょうか。ハチロー夫妻は来週、取得します。ハチロー5連休(土日含む)を頂きました。会社に感謝です。一年を通して一番ヒマだといわれるこの時期。同時にエアーチケットが一番高い時期(泣)。同僚らがあえて避けるシーズンですが、ハチローはあえて選びました。やはり、いざというときに職場にいない、というのだけは避けたいものですからね。妻にも事情を理解してもらい、休みを取ってもらいました、すまんのう。本当はチケットの安い時期を望んでいただろうに。

 さて目的地ですが、県外に行ってきます。二泊三日の旅で、場所は湯布院です。そうです、このくそ暑いときに温泉旅行です(笑)。一年で一番高い時期に、一番安いパックを選んだのですから当然です(泣)。それはともかく、福岡から大分由布院まで電車の旅(初体験)、阿蘇までのバスの旅など、これまでにないのんびり系の旅になりそうです。楽しんできます。

※どうでもいい話ですが、ブログ開設2年半、初めて絵文字も使えるということに気付きました。早速(いや遅いって)、温泉マークを使わせていただきました。

 そんなことより、台風、来るなよ!


テルとナツコ

2008年01月28日 | 家族、親戚

 昨日はテルあばぁの三・七日でした。少ないながらも家族・親戚が実家に集い、喪に服しました。

 ※しかし、この儀式を七・七日つまり四十九日まで毎週続けるという儀式、ハチローはどうも腑に落ちませんなぁ。亡き人を悲しむ気持ちはいつの時代も変わりません。でもその弔い方には、変化があってしかるべきだと強く思います。

 それは置いといて・・・(笑)、久々に姪っ子、甥っ子に会いました。すっかり話すのが上手になったひまりん(姉の長女4歳)、甘えん坊ざかりのたいちん(同長男3歳)、そして家族一の人気者NAOTA(妹の長男1歳)です。みんな可愛いのですが、特にNAOTAの笑顔を振りまきながらえっちらおっちら歩く姿は、なんとも言えません。でもハチローを見ると必ず一瞬固まるNAOTA・・・(笑)。大丈夫だ、捕って食うわけじゃないぞー! テルおばぁの遺影をバックに(いいんでしょうか?)男三人記念撮影。左はたいちん、中央がNAOTA、そして右が怖い怖い伯父さんです。たいちんは変顔ポーズをしておりますが、目鼻立ちの整った顔、そして年齢の割りには手足が長いことから、将来モデル系のイケメンになることを期待しております! ジャニーズに写真送ろうかなぁ・・・。伯父の欲目でしょうか?(笑)Photo

 藤崎マーケット(ららららい♪)や小島よしお(はい、オッパッピー♪)を協同で披露してくれた姪っ子甥っ子。暗くなりがちな三・七日を、若く新しい命がにぎやかにしてくれました。遺影のテルおばぁもきっと目を細めたことでしょう。

 さて、雨天が続くここ沖縄。なかなか双眼鏡で「一人野鳥の会」(寂!)を決行することがで きないでいます。それならばと、読書に転じた34歳宅ハチローです。オススメは右下の二冊。「ナツコ 沖縄密貿易の女王」(奥野修司:著)と「真相」(横山秀夫:著)です。

 まず「真相」から。ご存知「平成の松本清張」こと横山秀夫の短編集なんですが、相変わらPhoto_3ずいいっす。犯罪を起こした、もしくは巻き込まれた人間たちの心理を見事に書きあげ、読ませます。一番どれがいい?と聞かれると答えに窮するくらい小粒でもピリリなストーリーが5編収められています。あえて言うと4番目の「花輪の海」以外全部面白いっす。

 もう一冊「ナツコ」は副題の通り、終戦直後の米軍政府による占領時代に、いわゆる密貿易で一時代を築いた金城夏子という女傑の人生を追ったノンフィクション。取材に12年もかけたという奥野氏は本書で大宅賞を受賞しました。ウチナンチュの間でも伝説化しつつあった密貿易の女王を、現実的手法で丹念に取材し、リアリティーを持った一人の沖縄女性として甦らせたのは、素晴らしいことです。これをウチナンチュができなかったのはある意味悔しいことですがね。

 まだ完読していないのですが、すでにひき付けられています。ナツコという女傑の姿もそうですが、終戦直後の混乱の中を強く生き抜いた無数無名のウチナンチュの姿がそうさせるのです。生き延びるために与那国から本島まで密貿易にきた若い女性が、真夜中の海に飛び込み泳いで浜に上がり、まだ沖縄戦での戦死者が無数に横たわる浜を密輸品を持って駆け抜けていくSCENEは圧倒的でした。みんな「ただ生きるため」に必死だったんですね。

 調べてみると、金城夏子とテルおばぁ、ほぼ同年代でした。

 あの時代に生きた女性は、こうも強かったのですね。

 一読をお勧めします!


ありがとう

2008年01月10日 | 家族、親戚

  先日の7日、テルおばぁが亡くなりました。数え年で九十歳でした。

 

※当ブログはハチローの日記的側面もあるため、通常通りの形式でUPさせていただきますが、けして明るい話ではないので、お読みになることを特にお勧めはいたしません(今回は写真もないですよー)。単に、この日のことをいつまでも忘れないために書き留めておきこうかと・・・。今更手書きの日記なんて書けませんからねー(笑)。その辺、ご了解くださいね。

 今後の記事UPも、初七日となる13日が明けるまで控えたいと思います。

 

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 半年ほど前、体調不良で緊急入院した際、胆のうガンである可能性が高いという報告を担当医から受けました。「今年いっぱい持つかどうか」と。それから半年以上、何度も危ない時期がありましたが、まご、ひ孫に囲まれて最後の正月を迎えることができたのは、本当にテルおばぁの最後の頑張りだったと思います。

 7日の夜10時ごろ、「おばあちゃんが息をひきとった」と携帯電話から父の震える声が届きました。いつかは来ると覚悟していましたが、一瞬、世界が止まりました。急いで妻と、テルおばぁが救急車で搬送された病院へ向かいましたが、到着するとすでに医者から死亡証明が出されたあとでした。搬送用ベッドの上に寝かされたテルおばぁの顔は本当に眠っているかのようでした。何だが信じられない思いで頭がおかしくなっていて、ハチローはそれほど涙が出てきませんでした。

 実はその日、というかその数時間前、ハチローは自宅のテルおばぁのそばにいました。会うたびに弱っていく状態でしたが、もう声もほとんど出せないようでした。ただハチローが行くと認識したかのようにうなずきました。妻が常に用意しておいた飲料用ペットボトルでいつものように「水飲むねぇ?」と聞くと「うん」とうなずくので、ストローを口に含ませたのですが、なかなか飲めません。やり方がおかしいのかといろいろ試しましたが、途中で気付きました。吸い込む力がなくなってきているのだと。何とかストローを逆さにして重力で水を口に流し込みましたが、スプーン5杯程度の量を飲むと、「もういいよ」というような手振りを見せました。

 いつもなら「早く元気になってまた外にご飯食べに行こう」とか「お正月には全員集まるからそれまでに元気になろうね」などという言葉が言えたのですが、このときはもうどんな言葉も軽いなぐさみのように思えて、「また来ようね」としか言えませんでした。するとテルおばぁはうんうんうなずきながら、ハチローに向かってVサインをしたのです。元気なときからたまにしたポーズでしたが、その時も「大丈夫」という意味でやったのでしょう。でも明らかに死期が迫っているのを感じたハチローは、帰り際父に「Kおじさんも呼んでいたほうがいい」と話しました。

 Kおじさんは父の唯一の弟で、テルおばぁにとっては次男にして末っ子。もう還暦を越えましたが訳あって20年以上も本土で働いており(家族も一緒)、帰省は数年に一回ほど。テルおばぁは常に案じていました。長男である父は厳しく育てたようですが、次男のKおじさんは本当に猫かわいがりしたようです。父が苦笑しながらよく言ってました。間違ってハチローにKおじさんの名前を呼びかけることもよくありました。遠く離れてしまった次男の姿を、背格好の似た孫に見ていたのかもしれません。

 看病疲れも激しい父は深刻な顔で「そうだな。便が取れたら明日にでも来い、と今から連絡する」と。その数分後に電話をしたそうです。しかし、残念ながら、Kおじさんは間に合いませんでした。テルおばぁは数時間後、天に召されました。

 最後を看取ったのは父でした。外で夕飯を取って(独り者なので外食なんです)帰宅すると、テルおばぁはガタガタ震えていたようです。これは完全に危篤だと慌てた父は、冷たくなった手を握って「お母さん、お母さん」と何度も呼び続けたようですが、ほとんど反応はなくそのまま呼吸が止まったそうです・・・。すぐ救急車は呼んだようですが・・・。ハチローに電話したのもその時間帯なので、もう分かったのでしょう。ただ父は泣きながらこう言いました「最後の瞬間カッと目を見開いて僕の顔を見た。手も強く握ってきた。息子がそばにいることを確認したんだろう」と。僕もそう思います。長男である父に最後のメッセージを伝えたのだろうと。

 ところが、死亡証明を出した担当医の話を後ほど父から聞いて、さらにビックリしました。「死後硬直はその2時間くらい前から始まっていたはずだ」と・・・。つまり父が最後を看取った時点ではテルおばぁはすでに息を引き取っていた、というのです。父が外で夕飯を取っているころに、もう命はとまっていたのだと。父いわく「遅れてきた息子のためにお母さんは最後の力を振り絞ったんだろう」と。僕もそう思います。

 

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  孫であるハチローにとって、テルおばぁはどういう存在だったのか・・・。

 ハチローらはほとんど父子家庭だったため、よく周りから「母親代わりのおばあちゃんだったね」といわれますがけしてそうではありません。テルおばぁはやっぱりおばあちゃんです。この世で一番優しいおばあちゃん、母親のいない寂しさを埋めてくれた本当に温かいおばあちゃんでした。

 心に残る思い出はいくつもあります。

 何度もいうように、かなり不安定だった家庭環境。まだ母親が同居していた頃(ハチロー小学校2年生)は、テルおばぁがいる実家の離れに居候していたのですが、転職を繰り返す父と、借金取りにおびえながら水商売をしていた母は毎夜、夫婦喧嘩(と言っても母が殴られるだけでしたが)。ふすま一枚挟んだ部屋のハチローら兄妹は、悲しくて悲しくて3人寄り添って耳をふさいで寝ていました。実家の主でありながら父と絶縁状態だったおじぃは全く無関心を装い、繁華街を楽しんでいました。そんなある夜、テルおばぁは我慢に耐えかねたのか夫婦喧嘩の最中に乗り込んできて「あんたたち、もうやめなさい!子供が寝ている隣で恥ずかしくないのか!」と号泣しながら、めったに出さない大声を張り上げました。ハチローが見た中でテルおばぁがあそこまで大声を出したのはその時だけです。というか激怒したテルおばぁを見たのもその時だけでしょう。酒を飲んで怒り狂っていた父もさすがに黙り込んでしまいました。鼻血を垂らしながら畳に横たわる母の姿も含めて、ふすまの隙間から見た光景です。

 その年、母はもう毎夜のごとく家を空けるようになり、父もノイローゼ状態、ハチローら3人兄妹は給食費も払えないまま、そして朝食もないまま、学校へ通う日々が続きました。今でいうネグレクト(育児放棄)でしょうね(笑)。そしてガス供給も停められていたのか(記憶にないのですが)、お風呂にも入れない日々が続きました。汚い話ですが、ある夏の日、ハチローは股間周りがもう擦り切れて痛くて痛くてどうしようもない状態になっていました。寝るころになると痛みはピークに達し(クーラーもないので暑いのです)、ハチローは我慢できず大声で泣いてしまいました。毎日の苦しい生活に対する絶望感もあったのでしょう。小学2年生とはいえ、男子たるもの情けない話です(笑)。しかし、いざというとき、強いのはやはり女ですね。姉と妹は僕が異常に泣いているのを見て、真夜中から隣のおばぁのもとへ駆け込みました(隣とは言え、口も利いてくれなかったおじぃが怖くて簡単に入れなかったのです)。テルおばぁは飛んできました。そして泣きながら僕のズボンを脱がして、股間周りを消毒し、濡れたタオルで拭いてくれました。そして「ごめんね。本当にごめんねぇ。悪いのはあんたたちじゃないんだよ」と何度も謝りながら・・・。本当に汚くて情けない話ですが、ハチローにとって一生忘れることのない大切な思い出です。

 結局その年、父と母はめでたく(?)離婚(ていうかなんで結婚したの?)。そして意外なことに、ハチローら3人は母方が引き取ることに(その以前も母方に預けられていたことはありますが)。ビックリしましたよ。子供心にも分かりましたから。こんな母親と住んだら今以上に最悪な生活になってしまうと(実際その後の3年間はハチローら3兄妹にとって地獄の日々でした)。結局、父は僕らを見捨てたのです。母の性格上引き取るつもりなど毛頭なかったはずですから。無理やりそういう形にしたのでしょう。数年後「あの時は僕も本当に苦しかったから一時預けただけだ。落ち着いたら引き取るつもりだった」と父は話しますが(実際3年後に引き取り、それ以降父子家庭としてやっていくわけですが)、僕は今でも父に対して心の底から怒りを感じます。その引渡し方もひどいものでしたから・・・おっとっと、テルおばぁの思い出をつづろうと思ったら変な方向に(笑)。

※家族がケンカすることをとても悲しんだテルおばぁ。その心をおもんばかりハチローは父を許すことにしています。そうでなければテルおばぁを生涯苦しめたアホおじぃと父のような親子関係になってしまいますから。アホなおじぃはもうろくしているので許すというより、どうでもいいと思っています。

 ・・・ということで、小学校も転校することに。ハチローは今後が不安でしょうがなくテルおばぁに泣いてすがりました。「ママのとこなんか行きたくないよう、こっちにいたいよう」と。またも情けない日本男子です。テルおばぁはハチローを抱きしめながら号泣しました。「ごめんね。おばあちゃんにはどうすることもできないさぁ。おばあちゃん一人であんたたちを育てたいんだけどねぇ。あんたたちには親がいるからねぇ。困ったときはいつでも逃げて帰ってきなさい」と・・・。ハチローらが独り立ちしたあとも、テルおばぁはたまに泣きながら「あの時が一番つらかったさぁ」と言っていました。

 いいんだよ、悪いのはおばあちゃんじゃないんだよ。本当に困ったときは、本当にいつでも助けてくれたからね。親に恵まれなかった孫3名は、海より深い愛情をおばあちゃんからももらったんだよ。

 さかのぼって、あれは幼稚園か小学1年のころかと・・・。お菓子など買える状況でもなかったため、いつも腹をすかせていたハチロー。あるとき学校で読んだ絵本(たぶん『グリとグラ』?だったかなぁ)に、主人公のねずみ達が玉子を使って大きな分厚いケーキを作るシーンがありました。それを読んでいるうちにとってもお腹が空いてきて、材料だけを見ると、家にもありそうな気がしたので「もしかしておばあちゃん、このケーキつくれるねぇ?」と聞きました(笑)。するとテルおばぁは「あい、簡単さぁ。つくれるよぉ。はい、一緒につくってみよう」とハチローを自分の前にたたせ、手をもち、玉子を割りながら作り始めました。わずか5分ほどで完成したそのケーキは、まず形が薄っぺらで、しかも食べてみると全然甘くなく、予想していたものとは違いました。でも味自体はおいしかったので空腹のハチロー、もちろんたいらげました。それから10年ほどたち、ハチローが高校生になった頃、思い出話で出すとテルおばぁは覚えていて、「あれは結局、塩と砂糖だけでヒラヤーチー(俗にいう「沖縄風お好み焼き」)をつくったんだよ」と笑っていました。具も何も入っていなかったヒラヤーチーですが、忘れられないおばあちゃんの味です。

 働きモノだったテルおばぁ(G商店は女手一つで繁盛させました。一戸建てを建て、息子二人を本土の私立大学に現金払いで通わせました)。勉強家だったテルおばぁ(読書量はハンパではなく新聞の投書欄にもよく載っていました)。現代的な感覚をもっていたテルおばぁ(アメリカ文化が好きでした。「アメリカぁより日本軍が悪い」と言っていました。無宗教でした。宝塚にも本気で憧れていたようです。60年以上前は当時花形職業だったバスガイドでした)。沖縄の女性らしく唄、踊り、琴、三線が好きだったテルおばぁ(ほとんど独学で学んでいたのです。アホなおじぃが禁じましたが)。そして何よりも子や孫、ひ孫を大切にしたテルおばぁ

 思い出してみても、いいところしかよみがえりません。

 ハチローが人生で一番尊敬する人です。女性の強さ、美しさを学びました。でも同時に女性の弱さも・・・。どれだけ素晴らしい能力がある女性でも、パートナーの人間力次第で、こんなにも人生を悲しまされるものなのかと・・・。それだけが本当に悲しいんです。 

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 テルおばぁの思い出は本当に語りつくせぬほどあります。ただ人間は常に未来に向かう生き物ですから、過ぎ去りし過去は少しずつ忘れていくのでしょう。そのために出来るだけ書き残しておきたいのですが・・・。古い記憶を思い出すというのも、なかなかというかかなり疲れるものなので・・・。いつか書き足す機会があればと・・・。未来の「俺」、忘れるなよ!

 

 9日、火葬と告別式を行いました。少ないながらも親戚が集まりました。前日の天気予報は晴れだったのですが、翌朝には雨になっており実際に午前9時に出棺するときには、静かな小雨が降りました。60年以上も住んだ那覇市の空気をテルおばぁが天から清めてくれたのかもしれません。

 8日の朝に駆けつけたKおじさんテルおばぁの遺体に抱きついて号泣しました。息子として最後を看取れなかった悲しみの大きさを、震える背中が物語っていました。大人の男が泣くのはさすがに見ていられなかったです。その夜は父と二人でテルおばぁの安置室で眠ったようです。親子三人みずいらずの話ができたことを祈ります。そしてKおじさんの長男でありハチローにとっては同い年のいとこであるタカユキも夜遅く到着しました。次回はぜひ観光で来てくれ、そして20年以上をたったけど、また一緒に遊ぼうぜと約束しました。

 テルおばぁを火葬施設に入れ終えたとき、ハチローも涙が止まりませんでした。自分でもこんなに涙が出てくるもんだとは・・・。我慢しようと思っても腹の底から震えがきてどうしようもありませんでした。やはり遺体の状態では、まだ死んだ気がしなかったのでしょうね。いざ、これから焼く、となると、こらえきれない別れの悲しさがこみ上げてくるんですね。

 父がおじぃの手を強引につかみ火葬開始のボタンを押させました。

 

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 生前最後に会ったとき、ハチローに見せてくれたVサイン。茶目っ気たっぷりなテルおばぁが、ハチローに送った最後のメッセージかもしれません。息をするのも苦しかったでしょうに、細く黄色くなった右手を出してピースをしてくれました。僕は、死ぬまで忘れないよ。

 「ぜいたくしたらダメよぉ。お金なんてあるだけでいい。人間は塩をなめてでも生きていける。でも戦争したら終わり」が口ぐせでした。あまり書くとがばい婆ちゃんみたいになってしまいますが(笑)

 感謝の気持ちはこれからの生き方で返すしかないのでしょう。

 天国ではおいしいものを食べてるかな。きれいな着物を着けたり、カラオケしたり、三線を弾いたりしているかな。地上では許されなかったことを、思いっきり楽しんでくださいね。何十年後に僕が行ったとき、またヒラヤーチーを作ってくださいね。

  おばあちゃん、海よりも深い愛情をありがとう。

 僕達孫3名はおばあちゃんがいなかったら、愛情というものを知らない悲しい大人になっていたはずです。

 ありがとう。そしてお疲れ様。

 そして残された家族を、いままで通り優しく見守っていてくださいね。

 

 おばあちゃん、心の底から、ありがとう。