座禅の時に一番大切なことは、如何に意識を一点に集中出来るかです。 禅宗のHPには数息法のことしか書かれていませんが、私は数息法を行なったことがありません。 従って数息法を云々できません。 数息法とは、ひたすら数を数えることによって、意識を一点に集中する方法です。
私自身は長く吐く呼吸に、意識を集中する方法しか行なっていませんが、吐く息に意識を集中するほうが、良いのではないかと感じています。
私の場合は、口を閉じ鼻だけで呼吸し、大きく吸ってから出来るだけ長く吐きます。 吐く時にイメージで体の中へ吐きます。 吸った息が喉から気管支、胸を通り下腹の臍下丹田(どこにあるか分からなくても良いのですが)へ向けて吐きます。 体の中へ入っていく息を追うようにして、そのことだけに意識を集中します。
この呼吸を繰り返し行います。 出来るだけ長く吐く呼吸に慣れるに従い、1時間の座禅時間は、あっという間に過ぎていきます。 足のしびれも、座禅に慣れる従い、痺れも感じなくはずです。
目を一点に集中しながら半眼にし、ひたすら数を数えながら意識を集中する(曹洞宗の場合)よりは、体の中へ吐く呼吸に意識を集中するほうが、簡単にできるのではないかと感じています。
臨済宗・黄檗宗でも、長く吐く息に集中しなさいとは、HPに記載はなく、やはり数息法のことしか、書かれてはいません。
私は、いつも下腹の臍下丹田はどこだろうと思いながらも、ひたすら体の中へ吐く息に、意識を集中しながら座禅を行なっていました。 今は3時間続けて座禅を行なってきたことが、懐かしく思い出されます。
私自身は数年前に、こんな素晴らしい座禅を毎日行なっているお寺はあるのだろうかと、ネットで検索し、近くのお寺に参禅するようになってから、初めて禅宗のHPを見るようになりました。
私は自宅で、暗闇の中で1時間の座禅を行なってきましたが、目を半眼にするとか、あぐらは結跏趺坐か半跏趺坐にしなさいということを、参禅したお寺の和尚さんに注意されて、改めてその意味について、坐禅の雑念の中で考えてみました。
その結果、目は半眼にするのではなく、力が抜けてくれば究極的に、半眼になるのではないかと、考えるに至りました。
また結跏趺坐にするのは、お寺の和尚さんがいうように、逃げられぬためではなく、自分と宇宙が一体になる理想の座り方ではないかと、感じたのです。
多分、お寺に参禅しなければ、お寺の和尚さんに注意を受けなければ、禅宗の座禅の作法にも、関心がなかったに違いありません。
禅宗の和尚さんは、瞑想はいけないという話を、よくされるようですが、禅宗であっても仏教には変わりがなく、ましてやお釈迦さまは、菩提樹の下で瞑想され、悟りを開いたと云われているわけで、私は「座って静かになる」という点では、何ら変わることもなく、特別視するべきものではないと、思っています。
然しながら、ご意見をいただいて、改めるべきところは改め、気をつけながら「座って静かになる」の素晴らしさを、ブログで表現していきたいと思います。