座禅を行なって禅病になるという話を聞いて、おかしいなあと感じていました。 出来るだけ長く吐く呼吸を通して、体の中へ吐く呼吸を通して、1時間の座禅を行うことによって、全てのストレスから開放され、セクシャルなエクスタシーを遥かに超える、崇高な至福感を感得できる座禅を行うことによって、精神的におかしくなる禅病になるなんて。
どこかが、おかしいのではないかと、いつも感じていました。 座禅の修行方法が悪いのか。 師匠から弟子へ口承による伝承の仕方が良くないのか。
私は、仏教の経典を読むわけでもなく、決められた時間に座禅をするわけでもなく、長い間、足の組み方も普通の胡座でしたし、お線香も点てないし、お寺の和尚さんから教わった訳でもなく、いつも真っ暗闇の中で、ひたすら1時間、自分の好きな時間に、座って「静か」になることだけを、目指していただけです。
体の中へ吐く息だけに意識を集中することによって、体の微妙な変化を感じ、それを素直に楽しみ、その座禅を通して、様々なことを感得、学んで来ました。 心身を「静か」にすることによって、座禅の素晴らしさを感じて来ました。
修行するなどと思ったことはありません。 時として、大仏さまの懐で自分が胡座を組んでいると、感じたこともあります。 あるいは大きな手のひらで、座禅をしていると感じたこともあります。
いつもそう感じていただけに、修行僧が禅病になるということに、何かがおかしいと感じざるを得ませんでした。
幸いなことに、私の出発は静功ですし、その静功の会ですら、私は我流で感得したことを、何ども座禅のふと浮かぶ雑念の時に、考えてきました。
そのことを素直に、伝えているだけなのです。