叢になっている庭の一画のムラサキシキブ(コムラサキ)。
別の場所に植え替えたはずだったのに、根が残っていたらしく、植え替えた方よりも健やか!さすが山野草。
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[図版更改 15日8.19]
昨日の毎日新聞(東京版)朝刊のコラム「発信箱」に、興味ある一文が載っていました(下記)。
人は常に自分中心の「地図」を描いている。
ところが時に、その地図が、唯一にして絶対のものと勘違いする場面がある。
そしてそれは時に、中華思想に連なる。簡単に言えば、ひとりよがり。
註 中華:自国を、世界の中心に在る、最もすぐれた国と見なしたこと(新明解国語辞典)。
人それぞれがそれぞれの地図を描き、なおかつ互いにその地図が分る。そうあってはじめて共通の地図が生まれる。私はそう思っています。
TVのニュースの時間の始まりには、どのTV局も、かならずと言ってよいほど、バックに都会の映像が流れます。
なぜ、農山村の映像がないのか、私はいつも不思議に思っています。農山村の映像が出てくるのは、「ふるさと・云々」というような番組のときだけ。「ふるさと」って何?
おそらく、製作者の頭の中には、そういう「地図」が「固定・定着」しているのでしょう。
そういうニュースの中で、「限界集落」がどうのこうのと言ってみたところで、リアリティに欠けるではありませんか。
そんなことを思わず思ってしまった記者の発言でした。
そしてそれは、日本中にいかんともしがたく蔓延っている、中央と地方、都会と田舎、という固定的な二項対立的発想をも思い起こさせてもくれました。
これについては、以前、下記で、ある論説を紹介させていただいていますhttp://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/09699199453fa9aa7c71caa15a2ba471。