建物をつくるとはどういうことか-3・・・・途方に暮れないためには‐‐‐‐

2010-10-12 07:26:06 | 建物をつくるとは、どういうことか
◇「途方に暮れる空間」

先回、次のように書きました。
・・・
私たちは、「私たちを取り囲むもの」を常に(無意識のうちに)「観て」、それによって「私たちの中に生じる『感覚』に応じて行動をしている」ということを示しているのです。
私たちは「取り囲まれている」、言い換えれば、私たちは常に「私たちを取り囲むもの」の中に「居る」、あるいは「在る」のです。
そのような「もの」の海の中に居る、在ると言ってもよいでしょう。
この「私たちを取り囲むもの」を言い表す適切な言葉がありません。
通常使っているのは「空間」です。英語で space 、ドイツ語では raum 。
・・・

しかし、「空間に居る、在る」と言っても、私たちにとっての「空間」は「宙」ではありません。もしそれが「宙」であるならば、それこそ私たちは「宙に迷う」ことになるでしょう。私たちの場合、「空間」とは、常に「大地」と等値と言ってよいと思います。

そして先回、次のようにも書きました。
・・・
目の前にあった「平面図の黒い部分」が突如として消失してしまった場面を考えてみましょう。つまり、そこに在るのは自分だけ。
多分、「立ちすくむ」以外にないはずです。字のとおり、「途方に暮れる」という状態。
これは、目隠しをされて何もない荒野に連れてこられ、目隠しをはずされ放って置かれたに等しい。
・・・

なぜ立ちすくみ、途方に暮れるかといえば、それは、
私たちは常に自らの「定位」を拠りどころにして行動しているのに、その肝腎な「自分が現在在る位置」が、「その直前に在った位置」との「連続」を切り離されてしまったからなのです。
では、その「連続」は、どのように維持されていたのか。

私たちの「定位」:位置の確認は、私たちを取り囲む「空間の様態」を観ることで為されています。
常に、「空間の様態」を自分の中に取り込んで、自分なりの「地図」を描き、そこに自分を置いているのです。
私たちは「動いて」いますから、当然「地図」は、ひっきりなしに構成し直されます。
その「地図」を描けない状況になったとき、私たちは自分の所在が分らなくなり混乱に陥るのです。
このような「自分の地図」を構築・構成することのできる私たちの頭は、いかなるカーナビよりも優れものと言えるでしょう。

   カーナビとの違いは、カーナビはGPSなどにより、いわば他人がつくる地図。
   簡単に言えば、「余計なもの」まで入っている。
   私たちが自分の中に描く「地図」には、「必要なもの」だけ入っている。
   初めてのところへ駅からタクシーで向う場面を考えると、この事実はよく分ると思います。
   タクシーに乗れば、目的地には無事に着きます。
   では、次の機会に、自分で駅からスムーズに目的地に行けるか、というと、まずできないでしょう。
   できたとしても、いろいろ迷った挙句の果てのはず。
   初めての場所に人に案内されて行く場合も同じです。
   次回、一人で行けることは、まずありません。迷います。
   これは、タクシーに乗ったり、人に案内されて行くときには、自分の中に「地図」が描けていないからなのです。
   より正確に言えば、「地図」を描くために「必要なもの」を、「自分の目で見ていない」からです。
   自分の地図がつくられていない、ということ。
   それゆえ、一人で、自分だけで行動するときに、途方に暮れるのです。

したがって、人がこの「大地」という「空間」の中で過ごすようになって以来、人は常に、「途方に暮れる」ような場所ではなく、確実かつスムーズに、自らの「定位」のできる場所を探してきたはずだ、と言ってよいでしょう。
そうすれば、「安心して」日常を過ごせるからです。
「安心して」とは、そのたびに「地図」を描き「定位」する必要がない、「磁石」の針を見なくても、自分の位置を知ることができる。簡単に言えば、「慣れ親しんだ場所」「地図を描く必要のない場所になり得る」、もっと言えば、「目をつぶっていても歩けるくらいになり得る」場所、ということ。
容易にそのような状態になる場所を、人は選ぶはずです。

   もちろん、その場所で、人が生物として生きられることが条件です。
   つまり、生物としての生存条件:水と食料の確保:が得られること。
   以前、これを「必要条件」と書いています。
   そして、「なり得る」場所であっても不快と感じる場所は、最初には選ばれません。
   これを「十分条件」と書きました。

このことは、初めに人びとがどのようなところを「好んで」「定着・定住」したかを観ると、如実に分ります。

下は、現在の奈良盆地の地図です(帝国書院刊「最新 基本地図帳 2008年版」より)。



今、奈良盆地は、主として、大阪のベッドタウンとして「開発」され、ほとんど家々に埋め尽くされようとしています。
しかし、今から半世紀ほど前、1960年代には、まだ昔の面影:この盆地に定着した人びとの「大地との付き合い方の歴史」:を遺していました。

奈良の盆地の東半分には、古代、南北に大きく3本の道が通っていましたが、その跡は現在でも、部分的ですが、残存しています。
盆地中央を南北に走り、後に「平城京」の「朱雀(すざく)大路」になるのが「下つ道(しもつみち)」。
盆地の東の縁辺を南北に走るのが「上つ道(かみつみち)」。これはほぼ、いわゆる「山の辺の道」。
そして、この二本の道の中間を南北に走るのが「中つ道(なかつみち)」です。

この中で、最も古くからあると考えられるのは「上つ道」つまり「山の辺の道」です。
「上つ道」沿いに、古代の遺跡が多く見られることがそれを示しています。
「上つ道」沿いには、南の桜井あたりから、「三輪山」山麓の「大神(おおみわ)神社」、今話題の「巻向:纏向:(まきむく)古墳」「箸墓(はしはか)古墳」、「石上(いそのかみ)神宮」などがあります(天理教の本部も・・・)。「上つ道」の北端が「東大寺」「興福寺」界隈になります。
この「上つ道」「中つ道」「下つ道」は盆地南端で盆地の縁をなす丘陵にぶつかりますが、その山あいには、他と比べものにならないほど多数の古代遺跡が見られます。

この「盆地南端の山あい」が、「飛鳥」「明日香」と呼ばれる一帯。「藤原京」「平城京」になる前の古代奈良の中心の一なのです。
なお、奈良盆地の西の端を形づくる山沿い一帯:葛城:にも古代に発する遺構が多数あります。

   註 「あすか」は2000mに近い山々の連なる紀伊山地・山塊の北辺にあたります。当然、鳥獣も多い。
      「あすか」に「飛鳥」の枕詞が与えられたのも、多分、それに由来したのでしょう。    
      「日の下」の「くさか」と呼ばれた地域が生駒山系の西にあります。
      「くさか」では、上る日が、そこを通る。ゆえに、日の下。
      そこから「日下」と書いて「くさか」と読むようになったと言います。

つまり奈良盆地には、古代、盆地の周囲に人が住み着き、盆地中央部、広大な平坦部には、初めは人が住んでいなかったのです。そこはおそらく低湿地だったのです。

下の写真は、飛鳥の地を航空写真、地図は飛鳥の史跡図です。
航空写真は、おおよそ上の地図の赤枠内にあたります。
史跡図は、門脇禎二著「飛鳥」(NHKブックス)からの転載。




飛鳥の一帯には「のどかな農村風景」が広がります。航空写真は、それを見事に物語ります。
そして、古代には、森林の被う部分は、面積も密度も、この写真よりも遥かに大きく濃いものだったと思われます。

ちなみに、ドイツ語の raum は、語源的には、「開墾ないしは移住の目的で、ラオム、すなわち森林内の間伐地をつくること」を意味していると言います(Otto Friedrich Bollnow 著「MENSCH UND RAUM」、邦訳 せりか書房刊「人間と空間」より)。
日本でも、人びとは、初め、山裾の森林を切り開いて定住・定着したと考えてよいのではないでしょうか。

   関東平野の西北の山沿い:群馬から埼玉にわたる
   「多胡(たこ)の碑」の「吉井」から「越生(おごせ)」「高麗(こま)」「飯能(はんのう)」あたりにかけて、
   朝鮮半島からの渡来人たちが定着した、と考えられている一帯がありますが、
   そこも緩やかな起伏の多い、のどかな田園風景が広がります。
   開墾される前は、ここも森林で被われていたと思います。
   なお、一帯にある地名:「甘楽(かんら)」「烏川」「鏑川(かぶらがわ)」「神流川(かんながわ)」は、
   いずれも「カラ」「韓(から)」が語源と言います。
 
   佐賀の弥生期の「吉野ヶ里遺跡」も、
   当初は、森に被われた襞の多い丘陵の縁辺のいくつかのムラが始まりだったようです。

これらのことは、少なくとも日本では、先ず初めに、山や丘陵の麓の樹木に被われた「こじんまりとした潜み」が定住・定着の場所として選ばれている、ということを示しています。
そして、時が経つとともに、藤原京、平城京へと、徐(おもむろ)に、怖ず怖ず(おずおず)と、より広い空間:平野へと出てゆくのです。

初めに「こじんまりとした潜み」が選ばれる理由は、そこでならば「定位」が容易、つまり、「安心が容易に得られる」からにほかなりません。
その程度の広さ・大きさの空間が、字の通り「手ごろ」だからなのです。
言い方を変えれば、「定位」のために「手を加える」必要がない。つまり、そこなら「途方に暮れる」ことがないのです。一言で言えば「分りやすい」。

1960年代、このあたりをよく歩きましたが、「今を生きる人びとの集落」が、ごく自然に古墳や遺跡と並んで在る姿に「和み」を覚えたものです。
多分それは、その場所:空間に、「ここで暮せる」「ここなら暮せる」という気分を私が感じたからにほかなりません。

   このことについては、すでに、筑波山麓を例にして下記でも書いています。
   古代、筑波山麓にも人びとが初めに住み着いています。
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/3705be0597d34c5d34aa9c9d28009677
   http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/31a97d11acdc29d010ec4d548e7df7b5

それから30年後、あたりを歩いたとき、すでにその「空間」は失われていました。集落が、「現代の」家並に囲まれてしまっていたからです。
別の言い方をすれば、気持ちよく散策することもできず、「途方に暮れる」風景の連続だった。

おそらく、「現代」は、「ここで暮せる」という「空間」は自らの住居の中に限定され(それさえもきわめて怪しげなのですが)、「定位」の連続、その必要性を「失ってしまった」あるいは、「それで構わなくなってしまった」と考えてよいのでしょう。

かつては、私たちの暮す「空間」は、「面」に広がり「線」で繋がっていたのですが、いまや、個々バラバラの「点」の「無秩序な集合」になってしまった、と言えばよいでしょう。
前後左右無関係バラバラの「空間」で構わない・・・。それでも、表向きは「途方に暮れない《つもり》」でいられる。
「無縁社会」になってあたりまえなのです。

しかし、本当はそうではない。その証拠がカーナビの隆盛。人にとって、「定位」が重要なのです。しかし、自分でやれなくなってしまった。それだけの話。

   このことについて、
   すでに半世紀も前、唐木順三氏が、
   「途中の喪失」というエッセイで(筑摩書房刊「現代史への試み」所載)
   道草をしながらの登下校と通学バスでのそれとの比較、
   歩く旅と鉄道や飛行機によるそれとの比較などを通して論じています。
   私たちは、「途中」を無意味な過程と考えている気配があります。
   「古代」には「途中」があった。それは少なくとも「近世」までは継承された。
   そして、私たちの時代は、途中を省くことを奨め、それを「合理化」と言った。

以上は、日本の場合です。
世界中が日本と同じではありません。
たとえば、降雨量の少ない地域では、日本と違い、山裾に居を定めることはありません。山裾では、飲み水が得られないからです。
人びとは、水を得られる場所に向います。あたりで一番標高の低い場所、そこで辛うじて地下水に接近することができるからです。もしも、そこで水が湧いてでもいようものなら、そこは最高の場所です。それがオアシス。
多くの場合、そういうところは、日本の山裾のように「潜み」などはなく、いわば広漠としています。山々は、遥か遠くに見えるだけ。
つまり、基本的に「途方に暮れて」しまってもおかしくないところ。
しかし、人はそういうところに暮さなければならない。
彼らが「途方に暮れない」ために頼りにしたのは、きわめて壮大なものでした。天空です。
乾燥地域の空は澄み切っています。数限りなく星が耀きます。それが磁石の指針、現代のカーナビ。
彼らは、夜空の天体の様相を頼りにして「途方に暮れる」ことを避けたのです。

日本固有の星の呼び方:呼び名は、「昴(すばる)」だけだと言います。まして固有の「星座」名など・・・。
日本で知られる星座の名称に、「蠍」「水瓶」・・など乾燥地域でなければ見かけない、あるいは必需品でない、そういうものの名があるのは、いかに彼らが天空を観ていたか、その証なのです。日本はそれを必要としなかった。ゆえに、日本固有の星占いもない・・・。
第一、日本の天空は、湿気で霞んでいることの方が多い・・・。

そして彼らの住まいも、日本のそれとは、形状が異なります。自然の地形が頼りにならないため、人工的に「地形」をつくることに精を出すようになります。これは、いずれ、もう少し詳しく書こうと思っています。

日本の話に戻ります。
明日香のような山あいの地に居住した人びとが、平地へ、徐に、怖ず怖ずと出てゆく。
その「展開」はどのようにして可能になってゆくか、そのあたりについて、次回考えて見たいと思います。

長くなりました。ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

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