建物をつくるとはどういうことか-4 の余談

2010-10-22 11:51:15 | 建物をつくるとは、どういうことか




[文言追加 16.55]
私の住むところの南側に隣接する元・柿の果樹園を東から見た写真です。
右手側、住居に近い側10mほどは、夏場は藪蚊の襲来を防ぐため、下草を刈らせていただいています。
それより南側は、成り行きまかせ。
そこは恰好の鳥の棲みか。キジをはじめ、いろいろな鳥が集まっています。
今は、地面ではコジュケイが、梢ではモズが、けたたましくときどき叫んでいます。
ノウサギやイタチもいるようです。[文言追加 16.55]

これから狩猟のシーズン。気になります。

下の写真は、成り行きまかせの箇所のクローズアップ。
縁辺植物:各種の蔦類がからんでいます。朱色の実のなるカラスウリもその一。少し中に入ると、蔦は減ります。それが縁辺植物の名の由来らしい。
この中にも柿の木があるのですが、実は少ない。右手の下草を刈った所の木には、いっぱいです。
手前の畑は、つい最近まではいろいろな作物があった。
草が生えていないのは、頻繁に耕しているのと除草剤によるもの。

元は大きな貝塚の一端であるため、場所によると、土器の破片が無数に散らばっています。貝塚は、貝殻の捨て場だけでなく、壊れた土器も捨てたようです。もちろん、食べ残しの食料も捨てたのでしょう。

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[註記追加 23日2.54]
先回紹介した臼井吉見氏のエッセイには、次のような話もあります。
概略以下のようなエピソードです。

上高地近くの温泉場のある湯治宿。その宿屋の北側に布団部屋があった。
その布団部屋が、大正の頃から、その宿の「最高の部屋」となった。
その部屋の窓から、北アルプスが一望できるからであった・・・。

どうやら、その頃から、今の《観光》が流行りだしたようです。
諏訪の宿に泊った客人も、その走りの《観光客》の一人でしょう。
そして、先回の「松の木川」の「奥入瀬(川)」というのも、然る文人が名付けたのが《普及》したと言います。
おそらく、地元の人たちは、そんな名では呼んでなかった。それこそ「松の木川」だったのでは・・・。しかも、上流と中流、下流では呼び名も違っていた。千曲川、筑摩川、信濃川などもその例かもしれません、

《観光》は、かなり古くから、上層の人びとには、その「気」があったようです。
「借景」もその一つ。
京都洛北の「園通寺」は、17世紀中過ぎに後水之尾上皇が修学院離宮をつくる前に探しあてた山荘の跡(後に「園通寺」になった)。「比叡山」を東に望む書院が「借景」。
たしかに、いい具合に「叡山」が見える。一時、「叡山」の手前の宅地開発などで「借景」が危ぶまれましたが、条例で規制して何とか持ちこたえているとのことです(最近行っていないので詳細は分りません)。

   註 大和小泉の「慈光院」でも、「借景」が危ぶまれていることは、以前書きました(下記)。[註記追加 23日2.54]
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/f84c80fa9dd1dd4ddba93e9143019ce8
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/d8d775756b82dc9e45d08d39f68f39dd


では、その「叡山」の眺望の素晴らしいところで、一般の人びとの家々はどういうつくりになっているか、大分前ではありますが、歩いてみたことがあります。
まったく関係なくつくってありました。
「叡山」が見えたからどうだっていうの?という感じ。
日ごろ、「叡山」の見えるところにいることは重々承知。なぜ、家の中から眺める必要があるか、ということでしょう。

これは、信州の「富士見」という名の町を歩いたときも同じ。
そこは、八ヶ岳や南アルプスが一望でき、南アルプスの先に富士が見える。信州で富士が見えるのはここ、ということから「富士見」という名をもらったようです。有名人が滞留したサナトリウムなどもあり、島木赤彦などの歌人もよく訪れたらしい。
別荘もある。そしてその別荘の多くは、家の中から八ヶ岳、あるいは南アルプスや富士を望むようなつくりになっています。
そこでも、村の人びとの家々を見て歩きましたが、ここでも、そういった山が見えるからどうだっていうの、という感じ。つまり、まったく無視。
第一、「富士見」という名前自体、後になって付けられた名前。元々はいくつかの小村。その小村には、景色がいいことなどを思わせる名前はまったくないのです。

ところが、建築家の多くは、たとえば「叡山」の見えるところに建つ住居では、かならず家のなかから「叡山」が望めなければならない、と勝手に思ってしまう。
私はそれをドライブイン建築と呼んでます。本当は建築家こそ、その地の人になりきらなければならないのに、「率先して」《観光客》になってしまうのです。

町の名や土地の名前に、「《富士》見」だとか「《田園》調布」、「〇〇《学園》」・・という名を付け始めるのは、どうも昭和のはじめ頃からのようです(阪急電車の創立者の小林一三の発案という説があります)。
「調布」というのは古い。それに《田園》を付けて、自然豊かであるかの装いをした。
その頃からの命名には、売り込みに使える「特徴的」景観や、あるいは「願望」を名前にすり込む例が増えるのです。後の「あざみ野」「美里」「豊里」「美野里」・・・というのと同じ。「あざみ」など消えてしまっても、「あざみ野」・・・。
だから、ごくあたりまえの風景・景観、「松の木がある」、などというのは名にならない。「六本木」などというのは、今でこそ有名ですが、今の人なら名付けない。けれども、「〇〇本木」という名は至るところにあります。「別れの一本杉」を作詞した人は、人びとの心が分る人。「別れの富士見坂」なんていったら、味気ない。

埼玉に「春日部」というところがあります。これは元は「粕壁」。住宅公団が開発にあたり団地名を「春日部」にした。「粕」の音:カスがイヤだったに違いありません。その結果、今はこれが《正式名》になっています。
千葉の柏の近くに「豊四季」というところがあります。
これも住宅公団が強引に付けてしまった名前。元は「十余四(とよし)」。それに「キ」をつけて「トヨシキ」→「豊四季」。
公団には《文人》がいたらしい。この《文人》は、語のイメージで商売をする《達人》。実際の住宅団地は、四季など感じられない味気ない姿だった。

ここにはまだ「十余二(とよふた)」・・などの名が残っています(交通情報で、国道16号の案内で、よく聞きます)。
これは、江戸時代、開拓地に付けた名前のようです。これもまた随分無機的な付け方ですが、要するに、地番。開拓地には結構多い。たとえば年貢額に係わる「三反田」「五反田」・・・など。

「地名」というのは、なかなか興が尽きないものです。
久しぶりに「地名の話」をぱらぱらめくっていたら、群馬の「下仁田(しもにた)」は、イノシシが好む泥田:ヌタから付いた名では・・、などという話が載ってました。

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