ちょっと休憩・・・・「工」か「構」か

2010-04-19 10:23:41 | 「学」「科学」「研究」のありかた

ボケのキメラです。天然ものもあるようですが、接木でつくるらしい。

「建物づくりの原点を観る」は図版編集工事中で一休み********************************************************************************************
[解説追記 22日 9.11]

「・・・工学屋・土質屋さんは、時間的背景を気にしない、発達史的背景を考えず、いまそこにあるままに解析してしまうから、数値だけがひとりあるきしやすい・・・」
私がよく寄る下河敏彦氏のブログに、的を突いた話が書かれていました。

http://blog.goo.ne.jp/geo1024

昨18日、「伝統を語るまえに」という題目で、「伝統木構造の会」の講習会で話をさせていただきました。第一回です。そこでは、「木構造」については、まったくと言ってよいほど、何も話しませんでした。

思ったことがうまく伝えられるように話せたかどうか、いささか不安ではありますが、要は、なぜ今のような状況に(建築の世界も含めて)なってしまったのか、早い話、伝統、伝統と叫ばなければならない世の中になってしまったのは何故か、という話。そしてその因は明治の近代化に始まっている、という例によって例の如きなかみです。

簡単に言えば、(木造)「工法」と言う言い方を(木造)「構法」と言い換える、まさにそれを言い換える「思考」にある、ということです。
現在、世界の中で「表意文字」を使っている唯一の地域になってしまったと言ってよい日本で、「工」を「構」に言い換えるというのは、思考の「幅」と「奥行」が極端に狭くなった、というより、自ら進んで「狭めようとしている」証拠だからです。そこに、まさに、明治新政府が推奨した「一科一学」の《精神》が具現化しているのです。

   註 元来、「工法」という言い方があたりまえであったものを、比較的最近になって、
      「構法」に書き換えるようになったのです。
      「土木」の呼称を変えるかどうか、というつまらない議論?があった頃だったと思います。    
      変更する「理由」が何であったのか、何か「工法」では不都合があったのか、
      不明です。
      そして今は、「構法」を使う人が増えました。[解説追記 22日 9.11]

「工」の字義を、白川静氏の「字統」(平凡社)から、抜粋します。
  「工」は工具の形(象形文字)。  
  人が規(矩と同じ)をもつ形で・・・。工具としての工は、規の形というよりも、鍛冶(たんや)の台の形ともみえ、
  器物の制作のことをいう字のようである。
  ただその古い用義法はかなり多端であって一義をもって律しがたいところがある。
  たとえば・・・「工祝告る(いのる)ことを致す」「ああ臣工 璽(なんぢ)の公に在るを敬め(つつしめ)」と(いう文に)ある
  「工祝」は「はふり」、「臣工」は神事につかえるもので、いずれも工の義に近い。
  また、「厥(そ)の工を広成す」は高位にあってその治績を成就することをいう。・・・・
  宗工・百宗工といわれるものを、高官の列位として並べていることと対応する。
  軍事行動も戎工(じゅうこう)と呼ばれ・・・・。
  工作・工事を意味することもあって、「工を成周に立つ。・・・工を尹(いん:長官)に献ず。咸く(ことごとく)工を献ず」
  というのは、成周における儀礼の執行にあたって、その式場の設営を完成し、引き渡したことをいう。
  すなわち工には、工祝の儀礼のことから政治や軍事、また土木造営のことにまで及び、いわゆる百工とは、
  その全般を総称する語であろう。
  百工は・・・・官廟や特定の機関に属しており、起原的には職能的品部として使役されていたものである。
  百工はのち百官の義となり・・・・。
  のち殆ど工作・工芸、また巧工などの意に用いられる。
  [周礼(しゅうらい)]において、器物の制作や造営に関する諸職のことを記す部分を、「考工記」という。
  古代技術史研究の重要な資料である。

では「構」はどういう字義か。おなじく「字統」から引用します。
  「構」は、形声文字。木偏に「冓(こう)」を付け、「こう」と読む。
  「冓」は組紐をつなぐ形で、結合を象徴する字である。・・・
  木を組み合せることを「構」といい、構架・構成・構図・構想・構造のように用いる。・・・

つまり、「工」には、何か事を為すにあたって必要な事柄をすべて含めて検討する意味が含まれるのに対して、「構」は、木を組み合せることだけに限定される意なのです。
その意味では、「構法」はきわめて「一科一学」的、近・現代的用法ではあります。

「一科一学」的思考とは、別の言い方をすれば、5W1Hという疑問詞のうち、what と how しか使わない考え方だ、ということ。
あとの when where who why は視界にないのです。そしてさらに、A か B か、白か黒か、二者択一的 which が隆盛をきわめる・・・。
つまり、今、(建築)工学の世界では、what which と how だけが幅をきかし、それで事を進めようとしている、ということ。

このように視界が狭くなった、ということは、現代人は、かつての人びとよりも、考えることが少なくなった、ということに他なりません。いったい、ヒマになった分をどこに使っているのか、それとも休眠しているのか・・・。
工学系の人びとは、きっと、数値化に励んでいるのでしょう。しかし、それだって、数値化できないものを棄てるわけですから、楽であることは変りない・・・。

かつて、人びとは、数字よりも何よりも、目の前にする「現実」を必死になって考えた。それこそ、脳のすべてを駆使して考えた。どっちが凄いことか、自ずと分る筈です。

というわけで、昨日の話は、建物づくりとは何なのか、集まって住む、定住するとはどういうことか、街はどうして育つのか、あるいはまた、「下野」と書いて、なぜ「しもつけ」と読むのか、・・・といった類で、「最先端を行くのをよしとする方がた」にとっては「役立たずの」睡眠導入剤のような話だったのかもしれないな、と少しばかり思っています。
そしてだから、冒頭に引用させていただいた文言が、私の目に引っ掛かったのでした。

   註 参加者の名誉のために
      全員がそうだった、というのではありません。
      そういう方が少し居られたのではないか、と思えたということです。
コメント (3)
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