「第Ⅳ章ー3-B3 西川家」 日本の木造建築工法の展開 

2019-12-10 11:26:25 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「第Ⅳ章ー3-B3西川家」A4版6頁

 

B-3 西川家  宝永3年(1706年)~   所在 滋賀県 近江八幡市 新町2丁目

 

近江八幡 位置図       黄色部 近江八幡 印  他の近江商人町:湖岸より 能登川,  近くに 五箇荘,  山側 日野       明治20年 迅速図より

 

 

 近江八幡 市街図              旧西川家住宅主屋・土蔵修理工事報告書より

 

 西川(利右衛門)家は、近江八幡を拠点に蚊帳を主とした商いを営んでいた。

 琵琶湖周辺:近江一帯からは、多くの商人が生まれ、全国的に活躍し、商社の伊藤忠、百貨店の高島屋、布団の西川・・・など現在に続く多くの商店等が生まれている。

 その独特な商いに対する考え方は有名で、その点を含め近江商人と呼ばれている。各地にある酒造業、醸造業には、その地に居付いた近江商人が多い。 ただ、近江商人の商いに対する考え方が、継承されているとは言いがたいのが現状である。

 

近江八幡 町割図  色の街路は、西川家のある新町通り   旧西川家住宅修理工事報告書より(着色は編集) 

 

  旧西川家住宅修理工事報告書より(黄円は編集)

 

 

 

 

     

  

平 面 図              ← 新 町 通 り →

 

 

桁行断面図                            図面・写真共に旧西川家住宅修理工事報告書より

 

 

 

 

 

 

 

  2階 見上げ図

 見上げ図

                梁行断面図   左が新町通り

 

2階キープラン

 

   A 上り端 梯子を掛ける 

 

B 通り側を見る          図面・写真共に旧西川家住宅修理工事報告書より                       

 

 

 旧西川家住宅修理工事報告書では、開口装置:建具についても時代考証を行い、詳細な図が掲載されている。

 下に、主出入口の摺り上げ戸はね上げ戸の部分の矩計図はね上げ戸詳細図を例として挙げた。

 また、土蔵の土壁部分は新造に等しく、他事例の調査を基に施工され、その工程の記録も詳細に報告されている。ここでは一般図のみ転載する。

 

主出入口の開閉装置(右手が新町通り

 

 

 

  

図面・写真共に旧西川家住宅修理工事報告書より図中の文字・着色は編集)                

 

 

西川家の土蔵  主屋とともに重要文化財指定されている。

 

1階内部                          (文字は編集)  

 

 3階内部  

  

土蔵 平面図 下から1階、2階、3階

 

梁行 断面詳細図     図、写真共に 旧西川家住宅(主屋・土蔵)修理工事報告書 より 

 

 

 以上観てきたように、商家住宅では、継手仕口に刻み:加工に手間のかかる技法が使われているほかは、居住空間確保の原則すなわち、先ず全体を当初に構想し、次いで部分をその全体の中で構築してゆく、所要空間と架構を整合させる(間仕切と架構の一致)、必要以上に大寸の材料は使わない、横材の継手は柱通り上に設け、持ち出した位置で継がない・・・などは農家住宅とまったく変らないと言えるでしょう。 註 破風板付長押など一部の仕上げ材、化粧材などでは関係なく継いでいます。

 

 残念ながら、これらの原則と、それを具現化した工法について、現在の建築教育の場面で説かれることはありません。 そして、木造建築の一例として下図のような工法が、「在来軸組構法」の呼称で示されているのが現状です。 

 

 

 

 図で明らかなように、これは、全体から部分を考えるのではなく、部分を足してゆくと全体になる、という考え方の架構であり、横材は柱から持ち出した位置で継ぎ、材寸を場所ごとに細かく変える・・・など、明らかにこれまで観てきた農家住宅、商家住宅とは異なる考え方による架構です。

 建築の教材の中には、奈良・今井町高木家住宅が「伝統和風木造」の呼称で紹介されているテキストもありますが、「在来軸組構法」と「伝統和風木造」の両者の違い、あるいは関係についての解説はなされていません。おそらくそれは、その教材を使う人に委ねられているものと思われますが、その点について知り得る的確な資料などは、どこにもないと言ってよいでしょう。

註 上記のような工法は、木造建築についての解説などでも多用されていますから、一般の人が、これが「模範的な」木造建築という「理解」を持ってしまってもおかしくありません。

 

 このような「工法」が生まれた背景には、近代:明治になってから急増したいわゆる「都市居住者の住宅」が、他の既存の住宅に比べ、震災などで大きな被害を蒙ったことと無関係ではありません。

 このような「都市居住者の住宅」がどのようなものであったか、次に、武家住宅とともに観てみたいと思います。

 なぜなら、「都市居住者の住宅」の被災には、その立地とともに、「武家住宅」特に中小以下の「武家住宅」のつくりが、大きくかかわっていると考えられるからです。 

 

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