[解説文言追加:1月22日23.22]
1月12日、災害復興の名の下に行われた区画整理事業によって、長年住み慣れた町が変貌してしまい、目の見えない方の「心の地図」が消されてしまった、という新聞報道を紹介した。
そして、実は、目の見える人も、日ごろ、「心の地図」「頭の中の地図」を拠りどころにして暮しているのであり、だから同様に「頭の中の地図」を消されてしまっているのだが、ただ、そのことに気付いていないだけなのだ、とも書いた。
しかしおそらく、この点についての認識の欠如、つまり、人は日常「頭の中の地図」を頼りに暮しているという認識の欠如は、とりわけ、現代のいわゆる「都市計画・設計、地域計画・設計」「建築計画・設計」にかかわる専門家たちに於いて著しいのではないかと思う。
なぜなら多くの「計画・設計」は、「公共のため」という「大義」の下、この認識を欠いたまま、あたかも白紙の上にフリーハンドで描くかのごとくに為されているからだ。
註 このような「頭の中の地図」の存在を忘れた考え方の設計を
病院を例にして、06年11月23日に触れた。
「道・・・・道に迷うのは何故?」参照。
上に掲げた3枚の航空写真は、いま日本中で最もはなばなしく「開発」が行われていると考えられる「つくば」界隈の、撮影時の異なる写真である。
上から、①戦後間もなくの1945年、米軍の撮影、②研究学園都市の開発が始まったころの1976年、国土地理院の撮影、そして、③最近のつくば新線開通後のgoogle- earth からの転載。①と②は同一縮尺(①②は原版の撮影範囲が異なっているので、「刈間集落」を目印にして見てください)。
この一帯は、太古よりの河川の氾濫原と言ってよく(07年12月18日、「千年前の利根川周辺」の地図参照)、霞ヶ浦や牛久沼にそそぐ何本かの河川のほかは、台地状の土地が広がっている。それらの台地は、一見可耕地・耕作地、居住可能な地に見えるが、実は全てがそうなのではない。
氾濫原であるため、粘土層、腐植土層、礫層が数メートルずつ交互にあり、堅い盤に到達するには40メートルほど掘らなければならない(江東区とほとんど同じだという)。
また、良質の地下水も、その程度の深さでないと得られない。
実際には、ほんの数メートル掘ると水は出るが、それは上層の粘土層上に溜まった水。降った雨が、浸透してそこに溜まったもの。飲み水にはならない。逆に言うと、水はけもきわめて悪い。だから、つくばでは、今でも雨が降ると、非舗装部分の水が溢れ、あちこちに水溜りができる。
このことは、台地上の大部分が、水道ができないかぎり、居住にも向かないことを意味していて、台地上には、ほとんど住居址など古代の遺跡がない。
そしてそこは、雑木林や松林となり、燃料が石油やLPガスに替るまで、長いこと周辺の集落の人びとの薪炭林の役割を果たしていた。
註 人びとは、台地を刻む大小の谷地田の周辺に集落を構えていた。
これは航空写真、特に1945年の写真でよく分る。
また、江戸時代には、この薪炭林で得られた薪炭は、水運で江戸に運ばれていたという。写真にある「刈間(かりま)」集落「上宿」は土浦~下妻、北条~谷田部の街道が交差し、元は、街道筋の半商半農の集落であった。
①の1945年の頃は、台地上はほとんど赤松林になっていた。戦争のため、燃料:松根油を得るために松が植えられたのである。そのことを除けば、江戸時代以来の姿を残していると言えるだろう。
この頃、この一帯では、多分、土浦と下妻を結ぶバス路線以外、徒歩が交通手段だった(土浦、下妻、そして筑波山麓・北条へは、それぞれおよそ15キロほど、歩けば4時間)。
この台地に、戦後、満蒙開拓から帰国した人たちが数多く入植した。つくば市内に松見・竹園・梅園という名のついた場所があるが、それらはその人たちの入植地の名という。そのほかにも入植はしたが諦めざるをえなかった土地が、あちこちに残っている。それほど、開拓には不適な土地だったのである。
②の1976年の写真には、自動車研究所の周回高速実験コースと研究学園都市の特徴的な南北に「鼓型」をした街路が見える。
なお、「鼓型」をなす二本の道路の一番狭くなっている所の間隔が1キロである。
自動車研究所のコースは、1960年代につくられたらしい。この頃は燃料がガスに替りだし、薪炭林:雑木林が荒れだした頃。研究学園都市の開発が始まる15~20年ぐらい前の計画。コースの用地は、1945年の地図から推定すると、林地と少しの畑地のようで、集落や水田は含まれていないようだ。コース内の畑地、林地へ行く道が見えるから、そこへの出入りは自由だったと思われる。
刈間集落の右に見えるのが、建設が始まった学園都市の街路。建物はまだ少なく、公務員宿舎、筑波大学など僅か。
06年12月6日に、この刈間集落を通る街道をはじめ、多くの道路が学園都市の開発計画で分断されたことを書いた(「道・・・・つくばの道は」参照)。なぜ、従来の街道を無視するのか、と訊いたところ、計画担当者から、以前よりも多い交通量をまかなえる道路を代替につくったから問題ない、という返事をもらい驚いたことも書いたと思う。
実は、その返事にこそ、人の空間認識のしかた、「頭の中の地図」の存在についての認識欠如が示されている、と言ってよいだろう。
註 従来の道は、今は「多くの交通量」をまかなえるはずの
新設道路の渋滞を避ける「抜け道」化している。
12月6日のときは地図だけで説明したが、航空写真で見れば、なぜ昔の街道がそのようなルートを採っているのか分り、そして、いかに無残に「開発」がそれを破壊したかもよく分る。
そして、あたりを歩いてみると、「心の和む空間」と、「無味乾燥な空間」とがないまぜになっていることを実感できる。もちろん、前者は昔の道筋である。
しかし、最近は、特につくば新線開通後、ますます「無味乾燥な空間」が増える一方だ。ちなみに、つくば新線は、刈間集落の真下をトンネルで抜けている。
この鉄道もまた、これまで培われてきた一帯の地図を破壊してしまった。
なお、つくば新線は、日本自動車研究所のコース移転地内を抜けていて、そこが現在、学園都市の新開発拠点となっている(「筑波研究学園」駅)。
註 今回は触れないが、関西・京阪神の私鉄、特に京阪、阪神と
阪急のルートの採り方は比較すると、明治の人間と、大正・
昭和以降の人間の考え方の違いが、きわめて顕著に分る。
関東では、東武、西武、京王、京成と東急、小田急の違い。
これについてはいずれ詳しく見てみたい。
そして、つくば新線は、阪急型の延長上にある。
すべての土地・大地には、かならず地物があり、自然の法則により成型された地形があり、植生を生み・・・、そしてそれらを勘案して人びとは暮しを営んできた。これが、この大地の歴史であり人の居住の歴史にほかならない。
しかし、現代の「開発」は、人が生きてゆく上で必須な「心の地図」「頭の中の地図」の存在はおろか、それを描く拠りどころとなっている地物、植生・・・をも、まったく無視してしまうのがあたりまえになってしまった。
しかし、人為的な計画都市:条里制の平城京、平安京では、そういうことはしていない。
私の知るかぎり、現代の開発のような暴挙は、現代以外では、古代ローマ帝国や、アメリカ大陸、列強諸国の「植民地」に於いてしか例がないのではないかと思う。
つまり、多くの「計画者」は、相変わらず、専制的「植民地主義者」なのだ、と言ってよいのかも知れない。[解説文言追加]