日曜日の天気予報は、はじめは「曇りのち雨」しばらくしたら「晴れのち曇り・雨」に変っていました。そして実際は、夕方まで晴。とりわけ午前中は、雲一つない快晴。そこで、連れ合いともども、犬たちと散歩に出ました。
近くに「まぎのうち」と呼ばれる集落があります。正式の住所名は別にあり、これは通称。
かなり広い小高い台地上を、いくつかの矩折(かねおり)はあるものの、ほぼ東西に幅1間半ほどの道がまっすぐに通り、その南側の、台地の終る斜面までは畑、道の北側に広大な「屋敷」、そのさらに北側背後には杉、檜、欅などの混交林があり、その一部を開いて北側にも畑が広がります。
道の曲がり角には、江戸の頃のものと思われる石の道案内や道祖神が立っています。
「まぎのうち」と呼ぶのは、かなり昔は一帯が「まぎ:牧」であったからだと思われます。近くにある「椎名家」(「日本の建築技術の展開-26・・・・住まいと架構・その3」)は、馬の放牧をやっていたと言いますから、出島一体では牧畜が盛んだったのかもしれません。
南側の畑の斜面の終わりには、遺跡地図上で中世~近世の墓とされる高低差60㎝ほどの小丘があり(下の写真)、そこだけは開墾されずに残されていますから、古い歴史が埋もれている一帯であることはたしかです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/76/27482bb350166c67a518570464805f85.jpg)
中・近世の墳墓跡 手前は最近までサツマイモ畑だった。
今は集落沿いの道は生活道路専用になり、南側の畑を横切って車も通る広い道路ができています。
下の写真は、あるお宅を、新しい道路から見たものです。
手前の畑は、今は何もつくっていませんが、秋までは、陸稲と落花生がつくられていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/18/84729fc7b64fdf12645b2f1c6f597448.jpg)
屋敷と道の境には、生垣で柵がつくられますが、最近は石の塀に変りつつあります。手入れが大変だからではないでしょうか。
写真の石塀の前を通っているのが、昔からの道です。
集落の家々は、一軒の茅葺を除いて瓦葺きで、多くは平屋建て、二階建てが数戸。
二階建てはその外観から、第二次大戦後に建てられたものと思われます。一時期、二階建てが流行った時期があるのです。どれも天守閣のように異様に背が高い。
平屋建てには、茅葺を小屋だけ変えたかな、と思われるお宅もありますが、多くは最初から瓦葺きで計画したのではないか、と思われます。
建てられた時期は、昭和の初めか大正、ことによると明治末もあるかもしれません。いずれ、調べてみたいとは思っています。
石塀のお宅に近付いてみます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/1c/e92c1fc66f2ee68553f46230eddf8ffa.jpg)
門を入ってすぐの右手には納屋があります。このあたりでは「までや」と言います。「までる」=「かたづける」という意味だと聞いたことがあります。
納屋の屋根の構成が美しい、見事です。何度か増築をしているらしい。
道は、車のとまっているあたりから先は、今は樹木が繁って通りにくくなっています。
門に近付いて、中を撮らせていただきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/e8/fb7e429ac55da44f98f55cec11e88398.jpg)
見えているのは東面、その一番奥に、少し引っ込んで「玄関」があります。
その部分は化粧の「数段の出桁」で屋根を受けています。他の部分の軒も「出桁」ですから、軒の出はかなりのものがあります。
軒高はそんなに高くありません。見ていて安心できる、馴染める大きさです(ある時期から、やたらに背丈を高くすることが流行ります)。
東面のガラス戸の内側には「縁側」があり、「縁側」は矩折(かねおり)に南面へ回っています。
「縁側」がLの字型に付いた典型的な農家住宅。
「縁側」の内側には、多分、二部屋続きの座敷:接客空間があるはずです。
建てられた頃には、ガラス戸はなく、雨戸があるだけだったかもしれません。
「縁側」のL字は、全面が開口部です。
この「縁側」のガラス戸の鴨居位置に、全長にわたって入っているのが、「差鴨居」です。これが、全面開口を可能にしているのです。
「差鴨居」は「縁側」に沿って途切れることなく続き、玄関のところでも矩折に曲がり、玄関の引き戸の上の鴨居:「差鴨居」に連なっている筈です。
そして、一般的な例から推察して、「座敷」の部屋境(「縁側」側も含め)「差鴨居」が入っているものと思われます。
「差鴨居」から小屋の「桁」までの間:「小壁(こかべ)」は、写真で分るように、壁にするか欄間にするか、まったく任意です。
つまり、「小壁」を全面壁にしなくても、構造的に大丈夫なのです。
「方丈建築」や「客殿建築」(いわゆる「書院造」)では、内法位置に「内法貫」を設け、その上の全面壁に仕上げた「小壁」部分、それと「拮木(はねぎ)」でつくった四周にまわした軒(庇)部の架構、この両者で全面開口を可能にしていると考えられますが(下記註参照)、「差鴨居」方式では、「差鴨居」を設けるだけで、全面開口が数等容易に可能となり、しかも「小壁」の扱い:壁にするか欄間にするか:は、まったく任意なのです。
註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-29・・・・継手・仕口(13):中世の様態・5」
「建物づくりと寸法-1・・・・1間は6尺ではなかった」
「建物づくりと寸法-2・・・・内法寸法の意味」
このお宅は、ある部材だけが際立って目に飛び込んでくる、ということのない、これ見よがしのところのない、大らかで素直なつくりです。
各部材が「全体」に馴染んでいる、と言ってもよいかもしれません。
こういうつくりは、一般に、建設時期の古い建物に見られる傾向です(不必要な大きさの材、不必要な量の材料は使わない)。
こういうつくりの「形式」が定着してくると、「目立ちたい」という気持ちが前面に出てくる、
そういう傾向が一般にあるように思います。
人の性(さが)なのかもしれません。今の世の言葉で言えば「差別化」です。
そんなことをしなくたって、「個性」は自ずと滲み出てくるもの、と思うのですが・・・。
こういう性(さが)は、建て主だけではなく、つくる大工さんにもあるようです。
天守閣のような二階建てをつくるのも、その一例と言えるでしょう。
下は、この建物の南面を、塀の外から見たところです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/55/e6f8227437a5c3f9104e9037a1906b06.jpg)
この集落には、このお宅と同じ姓の方がたくさんおられます。これも調べなければ分りませんが、屋敷構えや建物のつくりなどから、このお宅は「本家」にあたるのではないか、と勝手に想像しています。
このお宅を離れ、道を西に向います。たいてい建物が奥に建っているので、姿が良く見えません。
神社の隣りに、ほぼ全体が見えて写真の撮れるお宅がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/48/2be83b31645a290fbdf16c9f35947664.jpg)
最初のお宅に比べ、規模は小さいですが、玄関のつくり方は同じです。
ここでも同じように「差鴨居」の回ったL字型の「縁側」がつくられています。
ただ軸部に対して、小屋:屋根の大きさ:被りが少し大きすぎる、頭でっかちの感があります。軒高と軒の出の関係だろうと思います。
この集落にはもう一つ多い姓がありますが、このお宅は、その「本家」筋ではないかと思われます。
さらに西へ進み、集落の道が終るあたりにも写真の撮れるお宅がありました。
下は、そのお宅の門から見た正面と、南面の写真です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/37/739c315559b9709a7ce76a3c69afbeaf.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/3c/4fa528ab109dd39b1e3d4cc28f905325.jpg)
このお宅の建設時期は、比較的新しい、もしかしたら戦後かもしれません。
「縁側」をL字型にまわすなど、基本的には、先の二軒のお宅と同じですが、玄関のつくり方が大きく違うからです。
切妻屋根の突き出し部分を設け、それを玄関にあてています。
このやりかたが何時頃から始まったのかはよく分らないのですが、二階建ての建物は、皆この方式です。
突き出し部の納まりに苦労していますが、どういうわけか、この形式は今でも望まれているようで、最近つくるお宅にも多く見かけます。
「方丈建築」の入口がこれに似てます(前掲註参照)。言うなれば、はるか昔の「中門廊」への先祖返り?
若干、必要以上に大きな材かな、とは思いますが、この建物の写真が、一番「差鴨居」全体がよく見えます。つい最近、まわりの道路拡幅工事があり、植えられていた庭木の多くが移設されたため、建屋が丸見えになったからです。
本当は、それぞれのお宅に伺い、謂れをお聴きすればよいのですが、まだこの地に暮して10年足らず、もう少しお付き合いができるようになったら、お尋ねしてみようか、と思っています。
以上、散歩がてら、「差鴨居」を使ったお宅を観てきた、その報告です。
書き忘れましたが、これらの建物は、皆、礎石建(石場建て)、土台を使っていますが、礎石に緊結するようなことはしていません。
この一帯は、「幸いなことに」都市計画区域外、確認申請が要りません(工事届だけ)!
近くに「まぎのうち」と呼ばれる集落があります。正式の住所名は別にあり、これは通称。
かなり広い小高い台地上を、いくつかの矩折(かねおり)はあるものの、ほぼ東西に幅1間半ほどの道がまっすぐに通り、その南側の、台地の終る斜面までは畑、道の北側に広大な「屋敷」、そのさらに北側背後には杉、檜、欅などの混交林があり、その一部を開いて北側にも畑が広がります。
道の曲がり角には、江戸の頃のものと思われる石の道案内や道祖神が立っています。
「まぎのうち」と呼ぶのは、かなり昔は一帯が「まぎ:牧」であったからだと思われます。近くにある「椎名家」(「日本の建築技術の展開-26・・・・住まいと架構・その3」)は、馬の放牧をやっていたと言いますから、出島一体では牧畜が盛んだったのかもしれません。
南側の畑の斜面の終わりには、遺跡地図上で中世~近世の墓とされる高低差60㎝ほどの小丘があり(下の写真)、そこだけは開墾されずに残されていますから、古い歴史が埋もれている一帯であることはたしかです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/76/27482bb350166c67a518570464805f85.jpg)
中・近世の墳墓跡 手前は最近までサツマイモ畑だった。
今は集落沿いの道は生活道路専用になり、南側の畑を横切って車も通る広い道路ができています。
下の写真は、あるお宅を、新しい道路から見たものです。
手前の畑は、今は何もつくっていませんが、秋までは、陸稲と落花生がつくられていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/18/84729fc7b64fdf12645b2f1c6f597448.jpg)
屋敷と道の境には、生垣で柵がつくられますが、最近は石の塀に変りつつあります。手入れが大変だからではないでしょうか。
写真の石塀の前を通っているのが、昔からの道です。
集落の家々は、一軒の茅葺を除いて瓦葺きで、多くは平屋建て、二階建てが数戸。
二階建てはその外観から、第二次大戦後に建てられたものと思われます。一時期、二階建てが流行った時期があるのです。どれも天守閣のように異様に背が高い。
平屋建てには、茅葺を小屋だけ変えたかな、と思われるお宅もありますが、多くは最初から瓦葺きで計画したのではないか、と思われます。
建てられた時期は、昭和の初めか大正、ことによると明治末もあるかもしれません。いずれ、調べてみたいとは思っています。
石塀のお宅に近付いてみます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/1c/e92c1fc66f2ee68553f46230eddf8ffa.jpg)
門を入ってすぐの右手には納屋があります。このあたりでは「までや」と言います。「までる」=「かたづける」という意味だと聞いたことがあります。
納屋の屋根の構成が美しい、見事です。何度か増築をしているらしい。
道は、車のとまっているあたりから先は、今は樹木が繁って通りにくくなっています。
門に近付いて、中を撮らせていただきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/e8/fb7e429ac55da44f98f55cec11e88398.jpg)
見えているのは東面、その一番奥に、少し引っ込んで「玄関」があります。
その部分は化粧の「数段の出桁」で屋根を受けています。他の部分の軒も「出桁」ですから、軒の出はかなりのものがあります。
軒高はそんなに高くありません。見ていて安心できる、馴染める大きさです(ある時期から、やたらに背丈を高くすることが流行ります)。
東面のガラス戸の内側には「縁側」があり、「縁側」は矩折(かねおり)に南面へ回っています。
「縁側」がLの字型に付いた典型的な農家住宅。
「縁側」の内側には、多分、二部屋続きの座敷:接客空間があるはずです。
建てられた頃には、ガラス戸はなく、雨戸があるだけだったかもしれません。
「縁側」のL字は、全面が開口部です。
この「縁側」のガラス戸の鴨居位置に、全長にわたって入っているのが、「差鴨居」です。これが、全面開口を可能にしているのです。
「差鴨居」は「縁側」に沿って途切れることなく続き、玄関のところでも矩折に曲がり、玄関の引き戸の上の鴨居:「差鴨居」に連なっている筈です。
そして、一般的な例から推察して、「座敷」の部屋境(「縁側」側も含め)「差鴨居」が入っているものと思われます。
「差鴨居」から小屋の「桁」までの間:「小壁(こかべ)」は、写真で分るように、壁にするか欄間にするか、まったく任意です。
つまり、「小壁」を全面壁にしなくても、構造的に大丈夫なのです。
「方丈建築」や「客殿建築」(いわゆる「書院造」)では、内法位置に「内法貫」を設け、その上の全面壁に仕上げた「小壁」部分、それと「拮木(はねぎ)」でつくった四周にまわした軒(庇)部の架構、この両者で全面開口を可能にしていると考えられますが(下記註参照)、「差鴨居」方式では、「差鴨居」を設けるだけで、全面開口が数等容易に可能となり、しかも「小壁」の扱い:壁にするか欄間にするか:は、まったく任意なのです。
註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-29・・・・継手・仕口(13):中世の様態・5」
「建物づくりと寸法-1・・・・1間は6尺ではなかった」
「建物づくりと寸法-2・・・・内法寸法の意味」
このお宅は、ある部材だけが際立って目に飛び込んでくる、ということのない、これ見よがしのところのない、大らかで素直なつくりです。
各部材が「全体」に馴染んでいる、と言ってもよいかもしれません。
こういうつくりは、一般に、建設時期の古い建物に見られる傾向です(不必要な大きさの材、不必要な量の材料は使わない)。
こういうつくりの「形式」が定着してくると、「目立ちたい」という気持ちが前面に出てくる、
そういう傾向が一般にあるように思います。
人の性(さが)なのかもしれません。今の世の言葉で言えば「差別化」です。
そんなことをしなくたって、「個性」は自ずと滲み出てくるもの、と思うのですが・・・。
こういう性(さが)は、建て主だけではなく、つくる大工さんにもあるようです。
天守閣のような二階建てをつくるのも、その一例と言えるでしょう。
下は、この建物の南面を、塀の外から見たところです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/55/e6f8227437a5c3f9104e9037a1906b06.jpg)
この集落には、このお宅と同じ姓の方がたくさんおられます。これも調べなければ分りませんが、屋敷構えや建物のつくりなどから、このお宅は「本家」にあたるのではないか、と勝手に想像しています。
このお宅を離れ、道を西に向います。たいてい建物が奥に建っているので、姿が良く見えません。
神社の隣りに、ほぼ全体が見えて写真の撮れるお宅がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/48/2be83b31645a290fbdf16c9f35947664.jpg)
最初のお宅に比べ、規模は小さいですが、玄関のつくり方は同じです。
ここでも同じように「差鴨居」の回ったL字型の「縁側」がつくられています。
ただ軸部に対して、小屋:屋根の大きさ:被りが少し大きすぎる、頭でっかちの感があります。軒高と軒の出の関係だろうと思います。
この集落にはもう一つ多い姓がありますが、このお宅は、その「本家」筋ではないかと思われます。
さらに西へ進み、集落の道が終るあたりにも写真の撮れるお宅がありました。
下は、そのお宅の門から見た正面と、南面の写真です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/37/739c315559b9709a7ce76a3c69afbeaf.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/3c/4fa528ab109dd39b1e3d4cc28f905325.jpg)
このお宅の建設時期は、比較的新しい、もしかしたら戦後かもしれません。
「縁側」をL字型にまわすなど、基本的には、先の二軒のお宅と同じですが、玄関のつくり方が大きく違うからです。
切妻屋根の突き出し部分を設け、それを玄関にあてています。
このやりかたが何時頃から始まったのかはよく分らないのですが、二階建ての建物は、皆この方式です。
突き出し部の納まりに苦労していますが、どういうわけか、この形式は今でも望まれているようで、最近つくるお宅にも多く見かけます。
「方丈建築」の入口がこれに似てます(前掲註参照)。言うなれば、はるか昔の「中門廊」への先祖返り?
若干、必要以上に大きな材かな、とは思いますが、この建物の写真が、一番「差鴨居」全体がよく見えます。つい最近、まわりの道路拡幅工事があり、植えられていた庭木の多くが移設されたため、建屋が丸見えになったからです。
本当は、それぞれのお宅に伺い、謂れをお聴きすればよいのですが、まだこの地に暮して10年足らず、もう少しお付き合いができるようになったら、お尋ねしてみようか、と思っています。
以上、散歩がてら、「差鴨居」を使ったお宅を観てきた、その報告です。
書き忘れましたが、これらの建物は、皆、礎石建(石場建て)、土台を使っていますが、礎石に緊結するようなことはしていません。
この一帯は、「幸いなことに」都市計画区域外、確認申請が要りません(工事届だけ)!