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The Last of the Great Aisled Barns-8

2010-11-25 15:32:27 | 建物づくり一般
  ほぼ一段落しましたので、Aisled Barns の紹介から再開します。

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[文言追加 26日10.36、10.54][註記追加 27日16.56]

“Silent Spaces――The Last of the Great Aisled Barns ”( Little, Brown and Company 1994年刊)所載の建物紹介は、今回が最後です。

今回は、ヨーロッパから北アメリカに移住した人びとがつくった bahn 。
移住した人びとは、それぞれ、生まれ故郷のつくりかたで建物をこしらえたようです。
そのため、北アメリカには、ヨーロッパ各地域のつくりかたによる建物が、それぞれの入植地にあります。

今回は、同書に載っているオランダの入植者が18世紀に建てた建物。
Deertz bahn とありますが、Deertz の意味が不明です。固有名詞?

当初、Middleburgh(Schoharie Country), New York に建っていたと説明にありますが、この場所も手持ちの地図では見つかりません。末尾の h のないMiddleburg という地名はワシントンの北にありますが、そこは New York 州ではない。 New York 州は、オンタリオ湖の南部一帯。多分そのあたりの平野部にあるようです。

下の写真は、移築のために下見板( weather boards )を剥がした状態。
「差物」を多用した、と言うより、「横材」はすべて「柱」に「差口」で納めている、骨組が見えます。
「差物」「差口」は、前回までに紹介したヨーロッパの例にも多く見られます。
「差物」「差口」は、決して日本の木造建築の特技ではないのです。誰だって、同じことを考えるのです。




その実測図が下図。柱間は6間。平面は、60ft×50ft(18.25m×15.25m)。
ヨーロッパの bahn との大きな違いは、石の上に直かに柱を立てるのではなく、石の上に流した「土台」上に、「枘差し」で柱を立てていること( tenoned into longitudinal timber sills )。
緩い北斜面に建っていたようです。



「土台」が使われた、ということは、入植者たちが建物づくりに習熟した人たちばかりではなかった、ということを示しているのではないでしょうか。

「礎石」の上に直かに「柱」を立てるには、熟練の技を必要としますが(「礎石」の天端をすべて同じ高さに据えられるとはかぎりませんから、「礎石」ごとに「柱」の長さを調節しなければならない)、「土台」を使用すれば、誰にでもできるからです(「土台」を水平に据えることは比較的容易、そうすれば横材が角材なら、「柱」の長さは全部同じですむ)。
日本の城郭づくりと、同じような状況だったのでは。

「柱」の中途に、床位置とは関係なく「横材」が入っていますが、これは「飛貫」同様の役割を担っているものと考えられます。


以下は、移築時の建て方の様子です。
1990年代の移築ですから、クレーンが使われています。
先ず、「身廊」:上屋に当たる部分を建てます。両妻、そして中央の列を先行したことが分ります。



柱の外面に打たれている斜材は、「仮筋かい」。
「仮筋かい」は部分的に入れられていますが、本体に入る斜材は、同じ位置に、すべて入れられていることに留意してください。
入れるなら、全部に入れる、これが「斜材」を入れるときの鉄則。


次は、模型の写真のようですが、左が上の写真の段階の、長手方向から見た写真。
右は、軸部が側廊:下屋 aisle まで組み上がった段階。
まわりの景色は、ヨーロッパの風情ではありません。



次は、「仕口」(「枘差し・込み栓」)のクローズアップと合掌まで仕上がった写真です。これも、まるで模型のよう。



側廊側面の「柱」頂部の「斜材」:「方杖」は、両妻位置と中央の「柱」にのみ設けられていますが、「桁」を中央の柱上で継いでいるからのようです。日本では「肘木」を据えるところです。

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ここまで、各地域の木造を主とする Aisled Bahn を紹介してきましたが(イタリア・ドロミテの木造を主とする建物群も過日紹介しました)、人びとが考えることは、洋の東西を問わず、地域によらず、同じである、ということを、あらためて強く感じています。
その土地土地の状況において、人びとはそれぞれなりに建物づくりを考える。
しかし、そのとき人びとが考える「構築の原理」は、結局のところ、同じである、ということです。考えてみれば、きわめて当たり前のこと。

そして、今、日本で、「伝統」「伝統工法」・・と騒いでいることが、ますます馬鹿げたことだ、と私には思えてきました。
なぜなら、日本の建物づくりの「構築の原理」もまた、人びとなら必ず至りつく考えにほかならないからです。
「伝統」「伝統工法」と騒ぐ方がたは、それを「原理」という眼で捉えているようには、思えないのです。単なる「形」としてしか捉えていないように思えるのです。
「伝統」とは、形ではない。もちろんファッションではない。その意が、ますます強くなってきました。

このような日本の「特異な状況」は、ここ1世紀足らずの間の一部の人たちの考え方(耐力壁に依存する考え方)によって人為的に為されてきたこと、その結果生じた現象である、これは、今さら言うまでもないでしょう。
この人たちは、耐力壁に依存する考え方の《普及》のために、「普通の人びと」に「事実を知られないよう」に必死になった。その結果、人びとは「事実を知ること」から遠ざけられてきたのです。[文言追加 26日10.36]

なぜそうしたのか?
自らの《「学」の権威を維持するため》である、としてしか私には考えられません。なぜなら、この人たちの論理には「理」がないからです。

このような状況を「普通の」「当たり前の」状態に戻すには、人びとが「事実を知る」こと以外にありません。
広く、一般に「事実」を開示することです。
「事実」を「一部特権者」の下に秘匿しておいてはいけないのです。
普通の、一般の人びとの存在を無視して、《専門家》が専制的に勝手なことをする、そんなことを放置しておいてよいわけがないのです。

《専門家》が勝手なことができないようにする「最良の策」、それは、「皆が事実を知っていること」、これに尽きるのです。
私はそのように思っています。[文言追加 26日10.54]

   註 「伝統」「伝統工法」・・と騒ぐことを馬鹿げたことと思うわけを補足します。

      法令を「伝統的工法」の仕様が可能になるように改訂せよ、という「要望・要求」がなされています。
      たしかに、そうなれば、当面、「伝統的工法」が「可能になるように見えます」。
      けれども、建物づくりの「仕様」は、本来、「場面場面で工夫・考案される」ものです。
      法令で規定を定めると、どうなるか。
      使える「仕様」が規定され、それ以外は不可。「場面場面での工夫・考案」
      言い換えれば、工人の「創意・工夫」は禁じられてしまうに等しいのです。
      現に、現行の法令規定によって、私たちは苦労しているではありませんか。
      「伝統的工法」仕様が可能になったところで、「創意・工夫」が禁じられることに変りはないのです。
      それでいいのですか?「自由」が広がった?狭いより広いからいい?・・・

      いわゆる「伝統的工法」は、なぜ、一定の体系にまで仕上がったのか。
      それは、つまるところ、年月をかけての「醸成」にあります。
      しかし、この「醸成」は、工人たちの「場面場面での創意・工夫」がなければ「なされなかった」。
      第一、かつて、工人の「創意・工夫」を「規制」するようなことがあったでしょうか。

      法令や「指導」で「創意・工夫」を規制することは、
      「技術の固定化」「技術の衰退」を結果する、
      これは自明の論理ではないでしょうか。

      当面の状況の打開にのみ邁進するのは、私には不可解なのです。「姑息」に写るのです。
                                       [註記追加 27日16.56]

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   今回の最後に、講習会の「案内」をさせていただきます。
   下記をご覧ください。
   こういう event 案内に徹したHPがあるのを、初めて知りました!
   http://www.kenchiku.co.jp/event/detail.php?id=2416

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The Last of the Great Aisled Barns-7

2010-11-13 17:54:32 | 建物づくり一般
“Silent Spaces――The Last of the Great Aisled Barns ”( Little, Brown and Company 1994年刊)所載の建物紹介を続けます。

今回は、イギリス WILTSHIRE 州 BRADFORD-on-AVON にある事例。
BRADFORD という町はイギリス中部にもありますが、 WILTSHIRE 州は、辞書によるとイギリス南部の地域とあります。したがって、中部の町ではない。
BRADFORD-on-AVON の on-AVON は、地図を見ると AVON 川というのがありますから、多分、その川沿いの BRADFORD という意味と解釈し(日本の飛騨・高山、常陸・太田などというのと同じ)、下にそのあたりの地図を載せました(この地図には WILTSHIRE 州という名は載っていません)。
AVON 川には傍線を振り、その流域の地域を円で囲んであります。あくまでも推定です。



説明によると、tithe bahn とあります。tithe とは「十分の一税」のこと。それで納められた穀物を収納しておく納屋だそうです。
当時、農民は、収穫の「十分の一」を、その地の領主に「物納」していたようです。

この建物には、aisle 「側廊」:「下屋」がありません。
柱間が14間。平面の大きさは167.5ft(51m)×30.25ft(9m)。

壁部分を石積みでつくり、小屋は「木造アーチ梁」。
石の壁の高さは、梁行が30ftから推定して、16~7ftはありそうです。約 5m。
一個の石の幅が 1ft:約 1尺はありそうですから、壁厚はおそらく 2ft:約 2尺≒60cmはあると思われます(石の厚さ:高さは、0.8~1ft程度のようです)。



下は側面に設けられる出入口部分。
石壁と木造小屋組との取合いがよく分ります。
石壁上に「枕」になる木材(「枕木」)を据え(断面は石の断面に相当)、「束柱」を立て「垂木」を受けています。
木造のアーチ梁は、石壁の中途で、壁に「枕木」を埋め、そこで受けています。

小屋を「枕木」で受ける方法は、地域によらず組積造に共通する方法で、小屋が鉄骨になっても採られています(旧信越線「横川」の煉瓦造変電所や喜多方の煉瓦蔵も同じ方法です)。

以前に、日本の古代の寺院建築で用いられた「頭貫」は、「組積造」に「起源」があるのではないか、と書きましたが、この写真の出入口の上を飛んでいる「枕木」の様子を見ると、その推定は間違いないだろう、と思えてきます(中国の木造建築は、元来、組積造と木造のハイブリッド、そこで生まれた木造技法がそのまま日本に伝わった)。



小屋のアーチ梁の詳細が下の写真です。なお、部材の名称は、私が仮に(勝手に)付けた名称です。



アーチの形状は、両側の壁から出た「方杖」が受ける「登り梁」と、それが受ける「微妙に湾曲した陸梁(ろくばり)」、そして「登り梁」と「陸梁」との鈍角部に設けられる「微妙に湾曲した斜め材:火打ち」によって構成されます。

   日本では一般に、このような斜め材を「火打ち」と呼んでいます。
   火打石を使っていた頃、打ち付ける金物が三角形をしていたことから、
   「斜め」を称して「火打ち」と呼ぶようになったそうです。
   工人仲間の符丁だったのではないでしょうか。(「日本建築辞彙」より)

「火打ち」が「陸梁」「登り梁」に接する部分は、全長にわたって「枘(ほぞ)」をつくりだし、陸梁に彫られた「枘穴」にかませ、「込み栓」打ちにしてあるようです。

さらに、この「登り梁」は、1本で伸びるのではなく、その上部は、先の「陸梁」の上に新たに置かれています。あるいは、先の「登り梁」などで構成された小屋の上に、新たにAの字型の小屋を組んだ、と言ってもよいかもしれません。

いずれにしろ、このような方策は、まさに、広葉樹ゆえの仕事です。


次は、全体の形は似ていますが、壁部も含めてすべて木造の事例です。



この建物は、イギリス南西部の WORCETERSHIRE 州(ウスターシャー州)にある14世紀に建てられた柱間10間、平面が100ft(30.5m)×27ft(8.25m)、この地域最大の cruck bahn 、と説明にあります。

先の地図の上部、バーミンガムの南西にウスター: WORCETER という町があります。そのあたりが WORCETERSHIRE 州だろうと思われます。なお、WORCETER は WORCETER SAUCE :ウスター・ソース発祥の地とのこと。

cruck bahn の cruck とは、「中世の建物の土台から屋根の頂まで延びて屋根を支える湾曲した一対の大角材の一」とのこと(研究社「新英和中辞典」による)。
この建物の場合、角材の寸法は、土台に接する位置で、20in(51cm)×14in(35.5cm)の1本もの。たしかに巨大な木材です。当然広葉樹です。

cruck という「特殊な」語彙が存在することから考えると、中世のイギリスには、このようなつくりの建物が、当たり前のようにあったのではないか、と思われます。

壁は下部が煉瓦を充填した真壁。外部は、大壁になっているように見えます(煉瓦2枚あるいは3枚積み)。上部は板張りのようです。
ただ、外観の写真がないので、いずれも詳細は不明です。


今回の最後に、“Silent Spaces――The Last of the Great Aisled Barns ”に載っている中世イギリス(14~15世紀)の収穫風景(麦の収穫と思われます)の絵を、まとめて紹介します。



このような立派な納屋はありませんでしたが、この風景は、馬を牛に代えれば、私が子どもの頃に目にした風景そのものです。
   砂利道の坂を行く牛車を、学校の行き帰りに、よく押したものです。
   その道は、今の環状8号線。今から60年ほど前の話です。
私の家の隣は地付きの農家。茅葺の家の前庭で、麦秋の季節、梅雨の晴れ間を縫って、この絵と同じ方法で脱穀をしていました。
こういう工夫も、地域によらず同じなのです。
   日本はイギリスから学んだのだ、などと思わないでください!
私が見たのは、回転する部分がもう少し大きかった(長かった)ように思います。
これが、ぎーこ・ぎーこと唸る足踏みの脱穀機に代るのはしばらく後になってからのこと。

ものすごく印象に残っているのは、作業終了後、あたりの地面には一粒も麦が散らばっていなかったこと。今は、コンバインが去った田んぼには、かなりの籾が散らばっています!
コメント (3)
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The Last of the Great Aisled Barns-6

2010-11-05 17:26:16 | 建物づくり一般
[文言訂正 6日 7.47]

“Silent Spaces――The Last of the Great Aisled Barns ”( Little, Brown and Company 1994年刊)所載の建物紹介を続けます。

今回はイギリスとベルギーの例。

はじめにイギリス南部のケント州アッシュフォードにある農家。

ケント州アッシュフォードは、下の地図で地名を円で囲んでありますが、このシリーズのはじめに紹介したフランスの事例の所在地、SEINE-MARITIME:セ-ヌマリティム、CALVADOS :カルバドス の対岸にあたります。[地名に英文追加]



下は外観。緩い傾斜地に煉瓦の基礎・擁壁をつくって、その内側に盛り土をして平坦にしているのでしょう。

屋根は板を並べてゆく板葺きと思われます。下の内観で垂木に直接載っているのが分ります。あるいはシングル葺き(割り木を重ねてゆく)。

最近つくられた、と言ってもおかしくありませんが、つくられたのは15世紀中ごろとのこと。

写真の説明によると、当地域の「自作農」:「自由民」( yeoman )が、まわりの修道院にある bahn のつくりかたに影響されてつくったのではないか、とあります(西欧中世の「身分」「階級」は、調べていないので、よく分りません)。[英文追加]



下は内部です。まさに納屋そのものの使い方。脱穀に使っているようです。



梁を受ける「方杖」の「柱」と「方杖」の両者には、下の写真のように、「記号」が彫られています。
これは、日本の「番付」に相当する組立ての際の利便のため。

日本の「番付」は、現在は「いろは・・」と「一、二、三・・」の組合せで付けられますが、中世には「絵」で表しています。
組み合わせる2材に同じ「絵」「記号」を記しておくいわば「絵合わせ」。それと同じ発想と考えられます。ただ、日本の場合は、彫らずに墨で記した。

   
  
   ただし、現在の建築教育では、
   水平方向はX、Y、縦方向をZで示し、それと洋数字の組み合わせで示すように教えられる。
   たとえば[X2・Y5(・Z2)]のように表示され、記入文字が多すぎ、しかも分りにくい。
   これは、現場のことを知らない(忘れた)偉い人たちの机上の《アイディア》。


次はベルギーの LIMBURG:リンブルフ地域の農家。1697年に建てたという記録があるようです。
リンブルフというのは、下の地図の円で囲んだあたり。
先に紹介したドイツの LOWER SAXONY : NIEDERSACHSEN の南西、陸続きの一帯です。と言っても、数百キロ離れていますが・・・(この地図の右上が NIEDERSACHSEN )。



下の写真は外観。
屋根は茅葺、寄棟。
図面がないので不詳ですが、上屋:nave (身廊)の四周に下屋:aisle (側廊)がまわされたつくりと思われます。
上屋の端部を斜めに切り上げて「寄棟」型にしてあるわけですが、切り上げなければ「入母屋」型になる。ただ、西洋では見かけないようです。[文言訂正 6日 7.47]

壁のつくりが分りません。目地のような線が見えますから、厚いパネル状のものを張っているようにも見えます。



この写真は、出入口部分。
上屋の垂木の上に、もう一段垂木を束柱で支えています。その二段目の垂木の勾配を少しずつ変えて曲面をつくりだす。これは日本でもやる方法です。



なお、この建物は、現在「屋外博物館」( open-air museum )に移築されて保存されているとのこと。


こうして見ると、現在の所属する国名は違いますが、往時は、海を挟んだ地域も含め、ほぼ同じ環境の地域一帯には、同じようなつくりかたの建物が多数つくられていたことが分ります。

考えてみればそれは当たりまえ。基本は「人」。
その同じような環境で、「人」はどのように暮すか。おそらく似たような暮しになるはずです。

「国」概念は、人の歴史で言えば、ごく最近のもので、第一次世界大戦まで、明確な線としての国境はなかった、と聞いたことがあります。
その大戦の因は、資源争いだった・・・!今になってもやっている。

太陽光利用が今以上に盛んになると、太陽のあの部分はオレのものだ、などと言って太陽に国旗を立てたがる人たちも出てくるのかも・・!現代のイカロス?

ある種の近現代の「偉い人」たちよりも、中世の「自由民」たちの方が、考え方が「自由」「柔軟」そして「真っ当」だった、私にはそう思えます(西洋にかぎらず、日本という地域でも)。
上掲の地図を見ていても、この「国境線」はいったいなぜ此処なのだ、と思わず考えてしまいます。多分、妥協の産物。

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The Last of the Great Aisled Barns-5

2010-10-26 09:09:11 | 建物づくり一般
“Silent Spaces――The Last of the Great Aisled Barns ”( Little, Brown and Company 1994年刊)所載の建物紹介の続きです。

今回は、ドイツの LOWER SAXONY : NIEDERSACHSEN (ドイツの州名)の地域の OSNABRUCK 近郊にある1750年に建てられた農家。
46ft(14m)×118ft(36m)。下の写真は、幅46ftの正面:妻面です。

今は移築されて博物館に在るようです(写真の解説文参照)。



NIEDERSACHSEN とは、「ザクセン低地」とでもいう意味なのでしょうか。
NIEDERLANDE:NETHERLANDS 低地の国:オランダ。

今回は、解説の文字が読めるように、図版を、ちょっと大きすぎるかな、という大きさにしました。

下に、平凡社「常用 世界地図帳 1985年版」から LOWER SAXONY 地域の地図を載せました。
1985年版ですから、まだ「ドイツ民主共和国」があった頃の地図です!



SAXONY というのは、英和辞書によりますと、エルベ川とライン川とに挟まれた地域で、古代 SAXON:サクソン民族が居住した地域、とのこと。
エルベ川、ライン川には黄色の線で、そして LOWER SAXONY: NIEDERSACHSEN にはオレンジの線でアンダーラインを付けました。
OSNABRUCK (オスナブリュック)はオレンジの線の四角で囲んであります。

この町の緯度は、北緯52度。北海道のさらに北、樺太(サハリン)の中部にあたります。 LOWER SAXONY全体が、51度以北!

エルベ川とライン川:この二つの大河の間の距離は約500km。東京~大阪がすっぽり入ってしまいます。
日本を見慣れた目には、ちょっと想像できない大きさの平野です。

下の写真は、出入口の詳細。
この建物も、上屋+下屋(母屋+側廊)のようなのですが、図面がありません。
正面:妻面の繁く入っている柱は、46ftという幅から計算して、@約0.9m程度ではないかと思われます。
ほぼ柱と同じピッチで、柱と同じ断面と思われる横材が入っていますが、各材は柱に「枘(ほぞ)差し、込栓打ち」で納めてあります。要は差物。こうしてできあがる軸組の空隙部を煉瓦で充填して壁になる。
北緯52度ですから、極力、開口部を少なくし、保温性のよい煉瓦にしたのでしょう。もちろん、それ以前は小舞を掻いた土壁のはず。
日本なら「貫」にするところ。厚い壁にしたいためだと思われます。

   註 煉瓦と土の保温性能は、ほぼ同じです。
      そして、その「保温性能のよさ」は、伝導率ではなく、
      「潜熱」に拠るもの、と考えられています。

建て方には大変に手間がかかったものと思われます。中世には考えられない。



写真の解説には、この出入口の構えは、石造の教会建築の影響だろう、とあります。

全般に凝ったつくりで、中世の建物にあった素朴さは感じられません。
日本でも近世も末になると同じような現象が見られますから、こういう傾向は、いずこも同じなのかもしれません。

次は、妻面の詳細と棟飾り。
よく見たら、茅葺でした。
この破風の飾りかたは、日本でも見かけます。こうしたくなる「気持ち」も、いずこも同じ、という感じを受けます。



次は、妻面の出梁・桁部分の詳細。
梁の小口に彫物がつくれるのは、材が堅木だからだと思います。日本では、「木鼻」がせいいっぱい。
よく見ると、一本ずつ、彫られているものが違うようです。



迫出しの支えに設けられている「方杖」は、日本では「肘木」でつくるところ(方杖がないわけではありません)。
柱へは、多分、「枘差し」と思われます。そして、梁へは「枘差し 込み栓」、しかも2本。

「方杖」に施された「彫り」。日本でも、こういう箇所には同じような「彫り」が見られます。たとえば、雨戸の戸袋の側板の下部。
そうしたくなる「気持ち」も分ります。
もっと激しいのは、禅宗様の寺院。中国伝来ですから、中国の人たちも、同じような「気持ち」を抱いたのでしょう。
もっとも、これも、当初、中世以前なら、何も彫らずに素材のままだったはず。

少しゆとりが生まれると「彫りたくなる」。この気分、気持ちはよく分ります。
それをどの程度で止めておくか、何となく、その「程度」に、「時代」が反映されるような気がします。
「程度」を決めるのは、所与の目的を、どう意識しているか、その「意識」の程度。
ひどくなると、「所与の目的」が何だったかをも忘れてしまう。つまり、意識下にもなくなる。それが多分「現代」。

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The Last of the Great Aisled Barns-4

2010-10-16 11:20:54 | 建物づくり一般
[文言更改 16.51][文言追加 16.57][文言追加 17.03]

“Silent Spaces――The Last of the Great Aisled Barns ”( Little, Brown and Company 1994年刊)所載の建物紹介の続きです。

今回は巨大なスケールの事例。
13世紀初頭の修道院。
場所はフランス。多分、パリの南西約200km、ロアール川~アンドレ川の流域、別掲の地図の赤線で囲んだあたりと思われます。



一点透視図で描くと下図のようになります。この方が分りやすいかも知れません。

上屋および一段目の下屋の柱列、桁行方向に、「飛貫」様の材が入っています。これは、洋の東西を問わない「現場で工人たちが生みだした知恵」と言えるでしょう。[文言追加 17.03]



平面図のように、木造の建物の四周に石積みの壁をまわしたつくりになっています。
柱間( bay )は13間ありますが、木造部分は11間で、両妻側の1間は、石積みの壁によってつくられています。
側廊:下屋が二段構え。日本の例で言えば、母屋(上屋)に庇(下屋)、孫庇(孫下屋)がついた形。
平面は170.5ft×80ft(52m×24.5m)、棟高44ft(13.5m)。すごい広さです。

この巨大な空間を、修道院では、どのように使っていたのかは、よく分りません。



建物内の写真ではよく分りませんが、母屋:上屋のトラス梁を受ける柱は、柱頭を内側にバチ型に広げ、柱直上に「桁」を据え、「桁」にトラスの「梁」を掛ける方法を採っています。日本の「京呂組」です。
その部分の図解および組立て手順の説明が下図です。

組立ては、先ず、「桁」の取付いた上屋の側面にあたる部分を地上で組み、それを立ち上げ、「梁」を掛ける、トラスを組む・・・という手順(クレーンのある今ならトラスを地上で組んで持ち上げるでしょう)。

柱頭には、b のように、「桁」を納めるためと、「梁」を取付けるための2個の「枘(ほぞ)」がつくられています。
そのうちの「梁」を取付けるための「枘」が内側に飛び出したバチ型の部分に刻まれています。つまり、この「枘」は、柱の直上ではなく、内側にずれていることになります。

桁と梁の仕口が a で、大きな「蟻型」をつくっています。日本でも、京呂組で梁を桁の内側に納めるときには「蟻掛け」を使いますが(通称「兜蟻(掛け):かぶと・あり(かけ)」、こういう大きな「蟻型」ではありません。

このように柱頭をバチ型にする方法は、フランスだけではなくイギリスなど各地にあり、いずれの場合でも、柱頭に割れが入ることが多いようです。
下の写真は、左側がこの建物の柱頭の割れ、右は同様のつくりのイギリスの例で、割れの拡大を防ぐために、柱頭のバチ型部を帯鉄で締めて補強してあります。



この書物の説明では、この割れの原因を、「梁」の乾燥による収縮に求めていますが、それにしては割れが大きすぎるように思います。
むしろ、風などによる小屋の揺れの影響ではないでしょうか(勾配の急な屋根は、風圧を受けやすい)。
梁は桁に大きな「蟻型」で取付いていますが、それよりも、柱頭の「枘」との取付きの方が強いと考えられます。
したがって、「蟻型」で取付く「桁」と「梁」の接合部は容易に緩むのに対して、長い「枘」で取付いた「梁」と「柱」の固定の程度は強く変形しにくいため、揺れが繰り返せば、「枘」を設けてある柱頭のバチ型部分に力がかかり、その結果、その部分に割れが入ってしまう、と考えられます(図に赤線で示してあります。a、bの符号と赤線、写真の赤丸は筆者記入)。[文言更改 16.51]
このバチ型の発想は、ことによると、石積みなどのハンチを基にしているのかもしれませんが、木理のある木材には、いかに堅木のオークといえども、不向きの方策なのではないでしょうか。

その点、柱上に「肘木」を使う方法はすぐれていると言ってよいでしょう。[文言追加 16.57]

なお、下の写真のように、側廊が一側で石積みの壁がまったくない、つまり木造の柱だけの建物もあります。
市場:Market‐Hall で、あちらこちらに似たような建物があったようです。この例は、下屋は一重です。
これだけしっかりと立体に組まれれば、地震国日本でも、簡単には壊れないでしょう。

書き忘れましたが、これまで紹介してきた諸例は、いずれも、木造部は礎石に据えただけです。



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The Last of the Great Aisled Barns-3

2010-10-08 09:58:26 | 建物づくり一般
“Silent Spaces――The Last of the Great Aisled Barns ”( Little, Brown and Company 1994年刊)所載の建物の紹介続きです。




写真下の説明によると、
これは先回紹介したノルマンディのセーヌ・マリティム地域の南西にあたるカルバドス地域(地図の黄色線の四角に囲んだ一帯のどこか)に残されている12世紀後半~13世紀初頭に建てられたと思われる Benedictine 派の修道院(abbey)に属する小修道院(priory)。
近年、半分に仕切る壁が設けられ、農作業用の納屋として使われている。

先回の例とは違い、石積み造りの上に木造の小屋(この場合はトラス)を載せる方法です。
アーチで支えられた石の壁の上に、小屋梁を受ける「枕木」が据えられています。
そのあたりは、版築土壁の中国の寺院と同じです(その流れをくんだと思われるのが古代日本の木造寺院で使われた「頭貫(かしらぬき)」)。

この書の著者:写真家(Malcolm Kirk 氏)は、このような Aisled Barns を Multifunctional Buildings と呼んでいますが、まったくその通りです。
「上屋+下屋」方式でつくる方法は、もしかしたら、地域や建築材料によらず誰もが考え付く工法なのかもしれません。

下の写真は、「小屋」と「柱頭」( capital )の詳細。「柱頭」がそれぞれ違っています。
10~13世紀の頃、各地にあったローマ時代の遺構から「材料」を集めてつくることが多かったそうですから、もしかしたら、これもそうかもしれません。しかし、それにしては、大きさが同じ・・・。

壁部分の詰物には煉瓦も使われているようです。

壁に見えるいくつかの窪みは、各柱の直上で、同じ高さにあることから推定すると、壁を積んでゆくときの足場用ではないでしょうか。
先ず石でアーチをつくり(形枠の上)、煉瓦や石を詰めてゆく(セメント:接着材は石灰:漆喰:シックイでしょう)、そのときの足場。
丸太など木材を柱の手前に柱ごとに縦に立てる。アーチの逆V字型部分に少し詰物を積んだ後、そこに横材になる木材の片方の端部を載せ、もう片方を先の縦丸太に結わえる。
この横材間に足場板になる材を渡し、詰物を積み続ける。詰物の材料は、バケツのような容器にいれてロープで持ち上げる。
一定の高さまで積むと足場を一段上げる・・・。多分こういう工程をとったのではないかと思います。
詰物がそのまま見えているところが、いい。後には、そうした詰物の上に化粧の材を貼り付けるようになる。


よく見ると、部分的に亀裂補修の跡が見えます。色から判断して、今の一般的なセメント:ポルトランドセメントを使用していると思われます。

   蛇足 石灰:シックイは気硬性、ポルトランドセメントは水硬性。
       シックイは石灰の中国読み。




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The Last of the Great Aisled Barns-2

2010-10-02 12:31:44 | 建物づくり一般
先回紹介した barn の詳細です。
“Silent Spaces:The Last of the Great Aisled Barns”からの転載です。



建っている場所はノルマンディ、下の地図の黄色の円で囲んだあたりにあるようです。
上の写真の説明に、地名が出ていますが、この地図には見当たりません。
蛇行している河はセーヌ川。地図は、昭文社刊「世界地図帳」より。



13世紀の Templar Barn とありますが、 Templar が何を意味するのか、よく分りません。
どなたかご存知でしたらご教示ください。

なお、 five-bay とは、「柱間」が5、つまり5間という意味です。「柱間」を bay と言います。

また、柱の説明もよく分りません。
説明文の字が小さくなってしまいました。
そこには、こう説明が書いてあります。
 Each arcade post carries double plates, one cantilevered inward above the other.

double plates とはどのことか分らないのです。
どなたかその解釈を・・・。

柱はオーク、樫のようです。
上まで一木で、方杖の足元を載せるための柱の突起部の刻み、感動します。まったく素直。何の衒いもない。

垂木は棟位置で相欠きで交叉しているように見えます。

いずれにしても、現在は(写真撮影時は)農業用の納屋に使われていた。
こういう事例は、つまり宗教施設が農業などの用に供されるなどということは、日本では、聞いたことがありません。
もしかしたら、昔はあったのかもしれませんね、廃寺などで。
もしご存知でしたら、お教えください。

なお、この書物は、一貫して、「ロマネスク建築」・・・という言い方で括ることをしていません。

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The Last of the Great Aisled Barns-1

2010-09-28 19:21:42 | 建物づくり一般
25日に日帰りで岐阜に行ってきました。ブログが縁で、岐阜県建築士会の研修会で「日本の建築は、壁に依存してこなかった」という話をさせていただいてきました。
近くなったとはいえ、日帰りはさすがに疲れました。

ボーッとしながら見ていた書棚に、標記の書物がありました。正式の標題は“Silent Spaces"。
The Last of the Great Aisled Barns はその副題です。出版社は Little,Brown and Company 1994年刊。
ある写真家( MALCOLM KIRK という方です)が西欧と北米で見出した Aisled Barns の数々。
Aisled Barns とは、「側廊のあるがらんとした建物」というような意味になろうか、と思います。

「側廊」とは、日本の「下屋(げや)」「庇・廂(ひさし)」にあたる部分。つまり、 Aisled Barns とは、「上屋+下屋」「身舎(母屋)+庇・廂」構造の(大きな)建物と解釈してよいと思います。
したがって、 Aisled Barns には、大きな納屋、家畜小屋などとともに、教会堂も含まれます。
下の写真は、この書物の表紙に載っている建物。教会なのか納屋なのか、ちょっと分りません。
   註 車両の座席の「通路側」も Aisle です。



ところで、CDをお送りした方から、到着した旨の連絡とともに次のような「ご要望」が書かれたメールをいただきました(当初お送りした12名の方で、到着した旨の連絡を直ぐにいただいたのは女性の方3人全員。1週間経った今日、男性はまだ2人ほど音沙汰がありません。男はそんなに忙しい?!ある女性曰く、もしかして、カタログ請求と同じ感覚かも・・・。)。

  ・・・・
  自分は木造住宅を中心に設計業をしておりますが、いつも小屋組の架構に悩んでいます。
  ・・・この悩みは自分だけでなく多くの未熟な設計者が持っているのではないでしょうか。
  それで「小屋組架構」をテーマにしたカテゴリーがあればと勝手に考えている次第です。
  一般的な架構法や、いろんな建物の小屋組を、先人達が到達した考え・解決した手法を
  解説していただけたらなあと空想しております。
  ・・・・
若い方なのではないか、と思われます。そして、はっと思い至りました。かつて、私も、同じようなことで困惑したことがあったことを。

学生時代、いわゆる「平面計画」、簡単に言ってしまえば「間取り」「用」の良し悪しをいろいろと指示はされても、それをどうしたら「形」にするのかは、まったくと言ってよいほど、何も教示されなかったからです。
すべて設計者の《個性》:個人的設定:に委ねられてしまっている。
つまり、「形」設定の「論理」が示されない。
「間取り」「用」と「形」の間には、冷たい冷たい溝がある。
おそらく、今でもそうでしょう。 
  
  私の学生時代、どちらかというと「用」が重視された。切羽詰っていた時代だからです。
  大分前に、西山卯三氏と丹下健三氏の「論争」があったことを紹介しました。
  言ってみれば「用」派と「形」派の「論争」です(下記)。
  http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/b5a67ec08d6e1846269fc5e2c03aa961
  しかし、今は《豊か》になった。だからでしょう、「用」より「形」。
  世の中には人の目を剥くような「形」が「評判」になる。
  設計者も、それを目指してシノギを削る・・・。
  そして、昨今、私の目には「目に余る」形だらけ・・・。

しかし、そのような学生時代の「環境」は、まことに皮肉なことですが、
「建物をつくるということは、どういうことなのか」私に考える機会、契機を与えてくれたのです。

本当は、もっと早く、その点について考えたことを書くべきだった、と今思っています。
そこを端折って、住まいの原型はワンルームの一つ屋根、だとか、居住するための必要十分条件、・・・などと言っても、靴の下から足の裏を掻くようなじれったさをどうしても拭いきれないはずだ。そう思い至ったのです。
私は少しばかり《省エネ》に過ぎた・・・・。

先の「ご要望」は、小屋の架け方についてのもの。
しかし、それもまた、この「原点」に帰らなければ話ができないのです。そして、原点からその話に到達するには、かなり時間がかかると思います。しかし、端折るわけにはゆかない・・・。

そこで、しばらく、今の私の考え方の基になっている「建物をつくるということ」についての私なりの考えを書くことにします。
ただ、毎回それではくたびれます。そこで、しばらく、先の Silent Spaces の紹介と半々で行こうかと思っています。

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閑話・・・・「建築」とは何なんだ?!

2010-07-19 12:52:48 | 建物づくり一般
[事実誤認部分 訂正 20日 17.36][変換ミス訂正 21日 12.42]

昨日は講習会「伝統を語る前に」で話をさせていただいてきました。それにしても、いつものことながら、上野公園の人出には驚きます。ただでさえ暑いのに、人ごみはそれに輪をかける・・・。いつのまにか、お上りさんになったようです。
終わった後、懇親会。何となく、「世の中の様子」が分りました。若い人たちが、「囲い」の中に押し込まれ、自由に羽ばたけないでいる、そんな感じを受けました。



今朝の合歓木です。晴れた空に浮かんでいました。樹木は自由です。枝振りに現われています。やはり、合歓木は、晴天に合うようです。


さて、少し前にメール配信されたケンプラッツの案内の一隅に、「建築が社会に学ぶもの」というのがあり、ずっと気になっていました。その記事の出だしには、次のようにあります。

  「ソーシャル」という言葉を目にすることが、極めて多くなった。
  ほぼ何にでも「ソーシャル」という言葉の“冠”が付く勢いにも見える。
  もちろん、これを単に「社会化(socialize)したもの」といった程度の意味で使うのであれば、
  何を指し示しても不思議ではない。
  流行に乗っただけのものは確かにありそうだ。しかし、これだけ頻出するのには訳がある。
  その幾つかに的を絞り、21世紀の現在ならではの潮流として建築(設計)との関係を考えてはどうか。

私には、「引っ掛かる」記事です。以前にも「建築は社会に何ができるか」という講演会があり、やはり「引っ掛かった」。これは何、いったい?

今日の毎日新聞で、私は関心がないのですが、今年のベネチアビエンナーレ国際建築展の「全体テーマ」が「建築で人々が出会う」だと報じられていました。それを読んで、ここしばらく引っ掛かっていた話を引っ張り出した次第。

私が引っ掛かったのは、きわめて単純なことです。
「社会」って何なの?
「建築」って何ものなの? ということ。
私には、「建築」とは、人が自らの場所・空間をつくりだすこと、しか思い浮かばない。
この人たちの「建築」は、どういうものを言うのだろう。

私が東京に出るには常磐線を使いますが、途中に比較的最近できた「ひたち野牛久」という駅がある。かつて開かれた万博会場の臨時駅が昇格したもの。あたり一帯は、「都市再生機構」によって、将来「再生」を余儀なくさせられるであろう「開発」が進んでいます。

この駅舎が、ホームに立つ人はもちろん、電車に乗っている人の目にきわめて鬱陶しい。
プラットホームの上屋が、ホームの長手に対して緩いアーチ状の形の屋根がいくつも並ぶ形をしていて、それだけならまだしも、そのアーチ状の形をつくるための太い鋼管の母屋が、ホームに直交して繁く波を打って並んでいる。これがきわめて太く、うるさく人の目に飛び込んでくるのです。

ホームの上屋は、列車の進行方向に並行するのが普通です。長い通路に上屋を架けるときに、通路に沿ってアーケードを架けるのと同じです。それが、古来、「人の感覚に素直な」やりかた。いわば「常識的な」方法だと私は思います。

おそらくこの駅舎の設計者は、「単に」、そういう「常識的な」解答を「避けたかった」だけなのではないか、と私は思っています。何故?、設計者の「アイデンティティ」を表現するために。

   蛇足 こういうのは、本当の「アイデンティティ」ではありません。

なかでも、ホームの上に直交して何本も横たわる太い鋼管の母屋のわずらわしさは「逸品」です。
先ほど、アーチ「状」と書きました。本当にアーチなら、こんな母屋は不要で、もっとすっきりします。そして、どう見ても本当のアーチにできるはずです。鋼材をアーチ型に加工することは簡単、その上に屋根材を葺くことも簡単。

何故そうしないのか、と考えると、まさか設計者がアーチを知らないとは考えられないから、きっと、あの太い鋼管の母屋を見せたかった、としか考えられない。
と、そこまで考えて、思い至りました。
設計者にとって、列車に乗っている人や、ホームの上にいる人の目にどう映るかは一切知らない、そんなのはどうだっていい、「遠景が大事だ」と考えたのに違いない、と。
多分これが本当のところだと思われます。
何故なら、この駅が開業したとき、建築紹介誌には、遠景の写真(だけ)が紹介されていたと記憶しているからです。要は「写真映り」。

この駅舎の設計者が、今回のビエンナーレのディレクターを務める方です。

訂正:これは私の思い違いでした。読まれた方から、メールでご指摘をいただきました。
ディレクターを務めるのは、この駅前のガラス張りのビルを設計した人です。
謹んで、ご迷惑をお詫びします。
駅の設計者は、研究学園都市の「開発」に深く係わって来られた方です。
かと言って、駅の印象は変るわけではありません・・・・。
また、この後の内容:この一文の趣旨にも変りはありません。[訂正追記 20日 17.36]

「『建築で人々が出会う』というテーマは、社会や使い手との新しい関係を追及してきた(設計者)自身の建築観とも重なる」と、新聞記者は書いています。

私は思わず次の言葉が口をついて出ました。
「新しい関係」って何?
「社会はもちろん使い手は、あなた(たち)のつくる《建築》なる容器に詰められる単なる「物品」にすぎないのか、冗談じゃない!
あなたたちに、私たちをベルトコンベア上の物品のように、勝手に操作して「出会わせる」、そんな「特権」はないはずだ。
私たちにも「普通の感覚」があるんだよ!

そしてさらに、冒頭のケンプラッツの記事へと繋がったのです。
何か、私が「常識的に」考えている「建築」についての『概念』とはまったく違う概念が、今の建築界にはあるらしい。

しかし、寡聞にして、私はその「新しい概念」についての「解説」「教義」を、見たことも聞いたこともないのです。

どなたかご存知でしたら、ご教示ください。

はるか昔、明治25年:1892年、伊東忠太は、「造家」の用語を「建築(術)」に改称すべし、と説く一文で、「アーキテクチュールの本義は・・・実体を建造物に藉り(かり)意匠の運用に由って真美を発揮するに在る。・・」と書いています。
何だかタイムスリップしたみたいな感覚を覚えます。
   変換ミスで「伊東」が「伊藤」になっていました。
   その旨のご指摘メールをいただき、訂正しました。[21日 12.42]
コメント (2)
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「現場(発想)」と「理論」、あるいは「地上」と「机上」の関係・・・・それは「不可逆」

2010-03-08 18:16:53 | 建物づくり一般
註記追加
この記事の図面部分、拡大しても判読できないことが分りましたので、
新たに図版を作成中です。とりあえずは、概形をお読み取りください。[9日 15.48]


ここにA4判のコピー用紙があります。

その紙の短辺を画鋲で箱に止めると、写真①のように垂れ下がります。

しかし、紙に長手方向にいくつかの「折り」を入れると、短辺を画鋲で止めると写真②のように、水平に持ち出すことができます。


これを利用したのが、工場などの屋根に使われることの多い薄い鉄板を加工した「折版」。
いろいろな既製品がつくられています。

①がなぜ垂れ下がってしまうのか、②がなぜ写真のようになり得るのか、については、現在の「力学」で数字をもって「解説」をすることができるでしょう。

次の写真③は、先の紙を一旦モミクシャにして伸ばしたものを、同じく短辺を画鋲で止めたものです。


この場合、モミクシャの仕方、開いたときの形状で程度は異なりますが、垂れ下がることはありません。
では、この「現象」を数字で解説できるでしょうか。
①②の場合は、「一般式」でも解説できると思いますが、③は一般式ではできないはずです。
なぜなら、モミクシャのを開いてできる形状は不整形で、しかも、いつも同じ形になるわけでもありません。
それゆえ、いかなる状況にも対応できる「一般式」は、ない。
つまり、モミクシャの状況ごとに「式」をつくらなければならないはずです。

ということは、もしもこのような「現象」を利用した屋根架構を「構想」したとすると、現在の構造解析では、計算を断られるでしょう。
簡単に言えば、現在の構造解析の下では、日本では(おそらく他でも)こんな「構想」の設計は簡単にはできない。

ところが、このような「現象」を活用したと考えてよい設計例があるのです。
それを今回は紹介します。

まず、その建物の俯瞰写真。

写真③のようにはモミクシャではありませんが、不整形であることは同じです。

この建物は、フィンランドの「オタニエミ工科大学」の、日本で言えば「学生会館」にあたる建物。

左上の写真が、「学生会館」で、R・ピエティラの設計。
右上の写真では、手前が「学生会館」で、奥が同大学の主要な校舎棟、これはA・アアルトの設計。
右下は、それを逆の方向から見た写真。

「学生会館」は、1967年9月のフィンランドの建築誌“ARK”に載っているので、おそらく1966~67年頃の竣工。

   註 今回の図版は、下記からの転載です。
     “ARK”1967年9月号、
     “ARQUITECTURA FINLANDESA”(Ediciones Poligrafa, S.A 刊)

1960年代、フィンランドには、アアルトの考え方に賛同する多くの若手が輩出しています。ピエティラもその一人。
アアルトの考え方とは、「建築:建物づくりとは、人の在る空間を創出すること」と言ってよい、と私は考えています。

では、ピエティラは、なぜこういう建物を構想したか。
彼は、建設地の地形、そして針葉樹林とここかしこに露出している岩々によってつくられている「場所」に、人びとが活き活きと動ける「空間」を見出し、その「空間」に見合った「覆い屋」を架ければ建物になる、と考えたのだと思います。以前に触れた人が暮らすにあたっての「十分条件」です。屋根がなくたって「十分」なのです。
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/31a97d11acdc29d010ec4d548e7df7b5)。
つまり、現地の既存の空間の「自然体」に、暮す場所としての建物の原型を見出し、そしてそこに架けられたのが、この形状の「屋根」である、と考えると納得がゆきます。

平面図・断面図も建設地にあわせて「自由奔放」です。
しかしそれは、現代風の「設計者の勝手放題」という意味の自由奔放ではなく、あくまでも、建設地に順じて、という意味での自由奔放です。

下は地上階(Ground Floor)の平面図です。
場所の名称も記入されている“ARK”の頁をそのままコピーしたので見にくいかもしれません。拡大して見てください。右下は外観の部分写真。
   “ARK”という雑誌は、文章はすべてフィンランド語、
   唯一、図面の説明にだけ、英訳が付いています。 


次は断面図と外観。なお、左下の説明のうち12~14は他の頁の解説文です。


そして次は、上階(1st Floor)の平面図。日本で言えば2階にあたります。


では、内部はどうなるか、というと、これがなかなか写真になりづらい。
その一部が次の写真。

断面図で分るように、躯体をそのまま見せているところと、別途内装を施したところとがあります。

この建物は、建設地の地形や、そこに存在する樹林や岩などとともに見ないと、実際が理解できないのでは、と思います。
しかし、本当は、すべての建物がそうのはずです。そうでなければならないはずです。
とりわけ、日本の建物は、このこと抜きで見てはいけないのです。
   この場合、「日本の建物」とは、近世までの建物。
   該当する建物、「まわりとともにある建物」は、それ以後にもないわけではありませんが、
   明治以降はきわめて少なくなり、そして現代は皆無に等しいのではないでしょうか。

私はこの建物を訪れたことはなく、もちろんフィンランドへも行ったことはありません。
ただ、アアルトの建物に魅かれ、同時にフィンランドの現代建築にも関心をもった時期があり、比較的廉価だった雑誌“ARK”も購読していました。
しかし、フィンランドの建物も、1970年代になると急速に変ってきて(他の西欧と変りない建物が増えた)、そこで購読をやめた記憶があります。

さて、今回、突然この建物を紹介する気になったのは、先回のパリ万博・機械館のような、『「構想」が「理論」「学」よりも先行する建物づくり』が最近見られなくなっていることを、知っておいてよいのではないか、とあらためて感じたからなのです。つまり、清新で溌剌さがなくなっている、ということ。
パリ万博・機械館は、まだ、「見慣れた」形体に入る一例です。
しかし、見慣れた形体ではなく、しかも幾何学的に不整形な形体になったら、現在は「拒否反応」を起こすのが「普通」。
しかし、「拒否反応」を起こすこと自体が、本当は「正常ではない」のではないか、と私は思うのです。

なぜ、「拒否反応」が「普通」になってしまったか。
その理由は、「理論」が「現場」より先行する、「机上の考え」が「地上の考え」を押し潰すのが「普通」になったからなのです。そしてそれをもって「科学的」と称することが「普通」になったからなのです。
シドニー・オペラハウスはウッツォンの原設計とは似ても似つかない形になってしまったことは先回触れました(次回、その変遷を紹介の予定)。それも、「理論」が「発想・構想」を歪めてしまった一例である、と私は考えています。

レオナルド・ダ・ヴィンチも、「最高の不幸は理論が実作を追いこすときである」と言っていますから(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4f8f4651ffc6129b69ebb7e286bc8be9)、どの時代にもそういう傾向があったのでしょうが、現在ほど甚だしい時代はないでしょう。

私たちは、もう一度、私たち自身に自信を抱き、溌剌とした発想・構想を、自由奔放に展開してよいのではないか、と私は考えています。
そして、その行為・営為を、常に自省をもって顧みること、それこそが「科学」の基本なのだ、と私は考えます。

つまり、結論的に言えば、「現場・地上の発想」を通じて「机上の理論」は生まれる、しかし、「机上の理論」からは「発想・構想」は決して生まれない、両者の関係は「不可逆」である、ということです。

なお、末尾になりましたが、日本で明治以降、建築の「学界」で行われてきた「現場」を離れた「机上」の論議の中味を、それに携わり「世論」を「先導(扇動?)」してきた人たちの「言動」を精査し論及している方のブログを紹介します。
なぜ、「理論が実作を追い越す」ような状況に陥ってしまったのか、「理由・訳」が見えてくるはずです。
そのあたりについて関心のある方は、是非ご覧になることをお薦めします。
http://kubo-design.at.webry.info/

なお、私のブログでは、あえてリンク先を設けてありませんので、関心のおありの方は、「お気に入り」に追加してくださるようお願いします。
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