唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
次男坊の誕生祝
久しぶりに長男としての義務を果たして本日帰京。ホントは帰浜と云うべきなのですが、次男坊の誕生祝いの為に渋谷から自由が丘へ。誕生日は二日前だったのですが、私が帰省していたために二日遅れの祝いとなりました。30歳になりました。次男坊が30ですからね、私も歳を取る訳です(^^;
多分、4歳の時の次男坊。当時の私の愛車、YAMAHA RC100(後にレースの時に必備となったサイドボックスが付いていないので、2台乗り継ついだうちの初代)のシートに座ってご満悦のように見えますが、実はサーキットの周りにたくさんいるバッタの方に多大な興味を示し、モータースポーツにはまったく興味を示しませんでした(^^;
月見草
実家の月見草です。この種をもらって増やした横浜の自宅の月見草は何だか余りパッとしませんが、実家の庭では、その数は100を超える程盛大に咲いています。除染のため表土は入れ替わっているのですが、余程気候があっているのでしょうか。
福島の歴史的建造物 【旧福島県尋常中学校本館】
1889(明治22)年に竣功した旧福島県尋常中学校本館は、明治期の代表的な洋風建築として1977(昭和52)に国の重要文化財の指定を受け、1978年の半解体修理と2011年3月11日の東日本大震災後の修復を経て現在に至っています。
旧福島県尋常中学校はその後県立安積(あさか)中学校を経て、県立安積高等学校として130年の歴史を誇る県内有数の名門校です。
私は卒業生ではありませんが、父が勤務していたことがあり宿直の折りには何度か一緒に泊まったこともあるなど、個人的にも想い出の深い建物です。
お盆
昨年までの仕事では、8月中旬、まさに「盆の入り」と云う時期に職責上どうしても外すことの出来ない仕事がありお盆の時期に帰省するとこができませんでしたが、今年からはそれもなくなりましたので休みと取って実家に帰ってきました。父が亡くなったのは6月でしたので2ヶ月後には新盆となりました。気持ち的には今年が新盆のような感じがするのですが新盆は、実は一年前に済んでおり、どうも妙な感じがします。
東京都心部では7月がお盆なんですね。横浜では7月がお盆だと云う地域と、福島同様8月がお盆だと云う地域とが混在しているようで、百貨店やスーパーなどではお盆用品が二回売られることになりますので、これもなんだか妙な感じです。福島で生まれ育った郷秋<Gauche>としては、お盆はやはり8月ですし、東京都心部にある会社だって「お盆休み」は8月のこの時期ですよね。
福島県内の多くの地域では、新盆(家族の誰から亡くなってから迎える最初のお盆)には、高灯篭と云って背の高い竹を切って来てその先に灯篭を結わえて建てたものでした。亡くなって初めてのお盆に家に帰る霊が迷わないように、ここに帰って来るんですよと云う目印だったわけですね。そんな風習も、10メートルもあるような竹を切って持ってくるわけにもいかなくなり、軒下に吊るす、玄関脇に吊るす程度に変って来ているようです。
昔はきゅうりと茄子で作った馬と牛も、今では出来合いのものがスーパーで売っている訳ですから、まぁ、風習も時代と共に変わってくるわけですね。ただ、その変るスピードが昭和30年代までと比べるといかにも早くなって来ているのが気になる訳ですが、これも致し方の無い事なのでしょうね。
玉川学園商店街の40年(その弐)
独断と偏見に満ちた40年の学園街の変遷-飲食店を中心に-
昨日の南口編に続く「その弐」は、北口(購買部側)編
学園寄りから順に(☆は今もある店 ★が無くなった店)
★みその寿司=学生時代にはあまり行った記憶がありません。家庭内の事情で閉店と聞きましたが、その後おやじさん一人で町田よりの高ヶ坂団地に店を出していたようです。
★鬼無里=みその寿司閉店後に居酒屋が入ってその次に入ったのが鬼無里だったか。町田にあった鬼無里の出店で弟さんがやっていた。学園の店は女子が一人でも入れる雰囲気だったかな。
★シグマ=芸術学科美術専攻の連中がたむろしていた喫茶店。結構美味しいコーヒーを出していましたね。建物取り壊し。
★ラマンチャ=ラマンチャポテト!みその寿司・鬼無里の向かい辺りにありました。
★和風レストラン千扇=いつ行っても他の客の姿を見たことの無い不思議な店でした。コンパで何度か使いましたね。道路用地となり取り壊し。
★喜楽=改札口から階段を下りてすぐのところにあった小さな中華料理屋。二品以上頼むとおつりの計算ができない中国人のおやじさんがやっていました。
★幸楽=喜楽と幸楽の名前が逆だったかも知れませんが、喜楽の向かいの普通の中華料理店。甘辛い麻婆豆腐が美味しかったような記憶。
★下高井戸旭鮨=幸楽閉店後の建物に増築して暫く営業していましたが、建物取り壊し。
★大黒屋=1年ほど前に閉店。後には奈良北団地にあったそば屋、砂場が入店。
☆レストラン富士=1年の時のコンパで吐くまで飲まされたりしたのであまり印象の良くない洋食系食堂でしたが、鉄筋三階建てに建て直し、いかにも洋食屋さんらしい店構えで商売中。一度だけ職場の会で行きましたがフツーでした。
★つくし=細い階段を上った二階にあった喫茶店。マロンパフェを良く食べました。
★カクタス=分厚いホットケーキが美味しい喫茶店で落研のたまり場。いつの間にか無くなっていました。
★マハロカフェ=学園で営業していたのは10年くらい?今は蓼科に移転し、リストランテとして営業しているようです。月末に蓼科に行くので寄って来よっかな。http://www.mahalocafe.com/intro.html
★大蔵=ラーメン屋。おやじさんが中華鍋の振り過ぎで腱鞘炎になり閉店と聞きましたが、その後町田街道沿いで店を出しているのを見かけました。
★小川亭=肉チャーハン、中華丼、韮そばが美味しかった中華の店。南大谷寄りに移転してから良く行きました。おやじさんが亡くなり暫くはVn弾きの息子さんがやっていましたが残念ながら閉店、取り壊し。
★かあさん=古くからあったらしい小料理屋。この店を知っているのはかなり古い塾生だけ?
★亀寿司=コンパで行ったことがあったけど、安かったのか?
★ボンファンテ=パン屋さん。二階に喫茶店。家庭内の事情により閉店と聞きました。
★薩摩=まともな小料理屋。まだ学園に住んでいた遠藤周作が飲んでいるのに遭遇したことがありました。自家製さつま揚げが美味しかった。
☆メシア=比較的新しい店。飯屋ではなくてメシア。凄い名前ですが健在です。コティーの向かい辺りの二階。ピアノがあるので某先生他OBも御用達?
☆ミ・ディーカ=コティーの並びに4、5年前にできた新しいリストランテ。ちょいとお高いですが時々行く上品美味しいお店です。学生は行かないか?
★コティー=度々秘密会議の会場となりました。「和風喫茶」の看板が出ていましたが、何が和風なのか判らずじまい。
★おかだ=まともな和定食屋。定食には食前の梅酒が付いていましたね。学生の財布には少し高かったけれど、仕送り直後には必ず食べに行ったものでした。ご夫婦が歳を取って閉店引退。店を自宅に改築して住んでいるようです。
☆住吉食堂=喧嘩しながら魚を焼いて配膳していたご夫婦は共に健在のようで商売続行中。鯖の塩焼き定食が240円でしたっけ。
★フローレンス=(個人的に)あまり良い思い出がありません。聞かないでください。
南口には古くから営業中の店が4店もあるのに、店舗数が多い北口商店街なのに古くから営業を続けている店は2店だけです。北口商店街の通りは駅から町田に向かって右側が道路拡張のために建物が取り壊されたり、玉川学園正門池の西側も道路の付け替え・建物取り壊しがあったりした影響があるのかもしれません。
玉川学園商店街の40年
新宿から小田急線に乗って30分(40年前には42、3分かかったように記憶していますが、新百合ヶ丘駅ができ、快速急行が走るようになってから近くなりました)の「玉川学園前」。大学入学と同時に住み着いた学園街です。普通は4年程度で想い出の街になるわけですが、何故か42年も界隈を徘徊することになってしまった学園街です。
ちなみに、武蔵野丘陵に南端に位置する谷あいに出来た街で、最初に住んだのが谷の最上流側でしたので、商店街(駅)方面を「学園下」と呼んでおりました。卒業生が懐かしいだろうと、Facebookのグループページ用に思い出しだし書いた、飲食店を中心に42年の変遷を書いた独断と偏見に満ちた記事です。
超ローカルネタですが、懐かしく思い出される方が少しでもおいでならと、初出に若干追加し、差し障りないようリライトしたものを二回に分けて掲載いたします。と云うか、私的アーカイブ。
学園街の変遷-飲食店を中心に-
その壱(南口・OX側)新宿寄りから順に
(☆は今もある店 ★が無くなった店)
☆うぃすかあ=フィンランドIIとして開店しましたがその後「うぃすかあ」に。オーナーが変わったようですが半分ギャラリーのようになって健在のようです。大きな丸テーブルの席で良く「ミーティング」をしました。
★もみの木=トルコライス大盛り!が名物でしたが随分前に無くなっています。跡地にあるのがファインエステートですか?
★歩歩=クラブではあまり行きませんでしたが、一人、もしくは二人で良くココアを飲みに行きました。スキー部のたまり場でしたかね。随分前に閉店しましたが、建物は健在。
☆イタリアーナ=大グランド寄りの二階にあったイタリアーナDue は無くなりましたが本店は健在で繁盛しています。シチリアの片田舎のトラットリア風が懐かしく今でも時々行きます。
★蔵人=小さな居酒屋。良く飲みに行きました。教育実習中に飲みに行って二日酔いになったっけ(^^; 建物取り壊しで消滅。今、センチュリー21がある場所だったか。
★龍門=カウンターとテーブル1、2の中華料理店。良く食べたのは中華丼とザーサイ丼。ラグビー部のたまり場でしたね。
☆風月堂=パン・ケーキ屋さん。二階に喫茶室がありました。立て替えて健在。二階は建て替え後に入ったマ・メゾン、洋琴房を経て今はスペイン&イタリア料理店。
☆花いちもんめ=出来た時には和風ラーメン屋だったような記憶がありますが、今ではすっかり居酒屋。
★松月庵=そば屋。おやじさんが歳になり閉店。隣の八百屋、大岡山でバイトをしていた時にはここで夕食を食べさせてもらいました。ちょっと前まで東京チカラめしが入っていましたが今はどうなっていたっけ?
☆スマイル=松月庵の二階にあったスナック。店内の感じは随分変わっていますが健在です。
★チコリ=同期のAくんが大得意でしたね。独特のピラフ?が結構美味しかった。何度か違う店が入り今は空き家のようですが、外壁に「チコリ」の文字跡が残っています。
★フィンランド=練習の後に度々行きましたね。いつも空いていたので大勢で行き随分騒いでいましたがさして迷惑でもなかったか?今はもうありません。青葉台の三菱化学の前にあった本店も閉店。
★ジロー=何度か店が入れ替わり今は再びイタリアンっぽい店が入っています。
☆朱鞠=肉屋の上の奇跡のとんかつ屋。なんと健在です。店内も40年前から変わっていません。ここのお世話になった人は多いかも。とんかつ屋だけど私は生姜焼きしか食べた記憶が無い(^^;
2019年2月現在の情報:親父さんが亡くなり息子さんが跡を継いでいるとのこと。店内は40年前のままらしい。
★きうらぎ=居酒屋。学生時代は行かなかったかな。再開発のために取り壊し。ただいま(多分小田急が)ビル建設中。
★養老の滝=一度くらい行った?今はもうありません。
★インバーハウス=某S氏がお得意のスナック?辛さが選べるカレーが売りでした。
【明日に続く】
タムロンの新しい18-200はいいかも
タムロンから出た18-200mm F3.5-6.3はなかなか良さそうなレンズに見える。何しろ安いし見てくれも悪くない。いや、光学特性も判らないし作例も見ていないので郷秋<Gauche>の直感でしかないけれど。
Nikon(ニコン)D3300のWズームキット(標準ズームと望遠ズームの2本付)の実売価格が67,000円。ボディのみが39,000円。で、タムロンの18-200mmが29,000円。と云うことはD3300のWズームキットとD3300+タムロンの18-200mmの価格が事実上同じなのです。
サードパーティー製のレンズに抵抗がないなら、初心者には一本で広角27mmから望遠300mmまでをカバーするレンズをお勧めします。ホントはね、高倍率ズームの光学性能は余りおよろしくないのですが、何しろレンズ交換なしで27mmから300mmまでフルカバーです。光学性能を少々犠牲にしても、焦点距離を自由に選べる便利さは貴重です。表現の幅がぐんと広がります。
Wズームって、持っていても交換しないんですよね。交換が怖かったり、ひょっとすると交換の仕方を知らなかったりして、望遠ズームがお蔵入りになる可能性が大です。だったら18-200mm一本勝負の方が良いですね。いや、別にタムロンから頼まれたわけではありませんよ。多分、その方が良いだろうと思うのです。郷秋<Gauche>は週末毎の撮影の際に、ボディに付けた高倍率(標準)ズームの他にフィッシュアイ、広角ズーム、マクロの3本を持って行きますが、余程の事が無い限り交換して使う事はありません。
1ヶ月に1000ショット撮るとして、高倍率(標準)ズーム以外で撮るのは30ショットあるかないかです。そのくらいレンズ交換は面倒なのです。交換した方が良いと判っていてもついついズームレンズで間に合わせてしまうのです。コツさえ掴めばある程度カバーすることも出来るんです。ごまかしと云えばごまかしですけどね(^^;
ビール擬きが値上?!
現在、原材料に対する麦芽の比率で分類され税率が異なっているビール類(本物のビール、ビール擬きその壱・発泡酒、ビール擬きその弐・第三のビール)の税率を350ml一缶当たり55円に足並みをそろえたいと、政府が云い出しているらしい。
現在の酒税は、350ml一缶当たり本物のビールが77円、ビール擬きその壱・発泡酒が47円、郷秋<Gauche>が愛飲するビール擬きその弐・第三のビールが28円とされているので、現在の案がそのまま施行されれば、本物のビールが22円安くなり、ビール擬きその壱・発泡酒が8円、ビール擬きその弐・第三のビールが27円それぞれ値上げされることになる。
外圧が大きかったワインとウィスキーの税率を大幅に下げたのはいつだったのか忘れたが、お陰で輸入物のワインとウィスキーが身近になったのは確かであった。ビール類はと云えば、価格の半分近くを税金が占めていながら、「カサ」が大きい故に輸入量が少ない事から外圧が少なかったことから高税率のまま放っておかれたのではないかと想像するのだがいかがだろうか。
しかしだ、市場のニーズに応え、酒税法の構造を研究し、ビール擬きその壱・発泡酒、ビール擬きその弐・第三のビールの開発に心血を注いて来たビール会社にとっては、特に発泡酒と・第三のビールの販売比率が高いメーカーと、郷秋<Gauche>のようにビール類を飲んで酒税納税で国の財政に貢献して来た低所得者層にとっては大きな打撃となることは必至であるな。
第弐のビールと呼ばれた発泡酒を初めて飲んだのは20年近く前の事だったと思うが、当時は「こんなまずい物」と思ったものだが、技術開発が進み、10年後には本物のビールと遜色ないまでの味となった。第三のビールもしかりで、こちらは5年程で特に夏場には好まれるのど越しの良いすっきりした味の「ビール」となった。
税率はその時々の都合に合わせて政府が「勝手に」決める。それに翻弄されるのはメーカーの技術者と消費者である。勝手気ままに税率を変える政治家と高級官僚が飲んでいる本物のビールは税率の低下と共に販売価格は下がる訳だから、何と云う事も無いのだろう。相変わらず低所得者層には思いが及ばない政治家と高級官僚のやりそうなことである。
と云う訳で今日の一枚は、今日の散歩で飲んだ「ビール擬きその弐・第三のビール」。特に夏場の暑い時に飲む時に、むしろ本物のビールよりも美味いと思うのは、決して負け惜しみではないと思う。
フキゲン♪ワーゲン
ワーゲンは、フキゲンだ。
http://gokigen-wagen.jp/
そりゃあそうだ。15年間守ってきた輸入車販売トップのタイトルをメルセデス・ベンツに奪われた(2015年1~7月計、メルセデス37,053台に対してVW33,865台)うえに、突然の社長退任劇。本人の意向による退任と説明されても誰も信じないよね。2位転落の責任を取らされた事実上の更迭?そりゃあ不機嫌にもなる。いくら車齢9.5年と云っても、いまどき天井内張りがはがれて垂れ下がるなんて有り得ない低品質だ。ご機嫌な訳がない。失礼、最後のは個人的に不機嫌理由でした。でもねえ、それ以外は何の不具合も無い。2LのFSIエンジンは絶好調。タイヤが65でグニュグニュするのとロードノーズの車内侵入が過大なのに目をつぶれば、あと10年は乗れそうなだけに、天井内張りの件は実に残念だ。会長兼社長は読んでくれていますかね。すみません。何度も書いて。根に持つたちなので^^;
「日本のいちばん長い日」と父
ここ数日、ネットの端に「日本のいちばん長い日」と云う映画の宣伝が載っているのが目に入る。半ば本能的に避けていたのだが、それが1967(昭和42)年に公開されたものではなく、明後日に封切られるリメイク版であることを知った。
1967年、中学一年であった私は父に連れられて「日本のいちばん長い日」を見た。何故息子である私を連れて行ったのかは知る由もないが、1926(大正15)年生まれの父の青春時代はまさに戦争のさなかであり、戦争に翻弄された世代であった。
父が書き残した本によると、父が「日本のいちばん長い日」で描かれる玉音放送を聞いたのは、陸軍熊谷飛行学校に入校するよう指示された日の一週間前の事であったらしい。もう少し戦争が長引いていれば、わずかな飛行訓練の後に特攻隊員として二十歳の命は空に散り、私がこの世に誕生することも無かったかも知れない。
8月15日の敗戦により、若くして死ぬことがなくなった代わりに、飛行機乗りになりたいと云う夢もついえた父であったが、それ故か死ぬまで飛行機が好きな父でもあった。原発事故による拙宅での思わぬ避難生活を別にすれば、最後の上京となった私の長男の結婚式の翌日にも、飛行機が見たいとせがまれ開業間もない羽田空港の国際線ターミナルに連れていった。まだ寒い時期であったが、展望デッキで飽くことなく飛行機を眺めていた父を思い出す。
自分の人生をある意味狂わせた戦争、その戦争終結となった日を描いた「日本のいちばん長い日」は、父としては見ないではいられない映画であったのだろう。ネットの端に載る映画の広告から、飛行機好きであった父を思い出した。私の飛行機好きも、結局は父の血を引いている証しと云う事になるのかも知れない。
震電
愛読している神奈川新聞に、「終戦まであと○○日」と云う記事が連日掲載されています(大変良い企画です)。で、8月3日にあと13日として掲載されたのがこの「新型戦闘機が初飛行」です。そう、戦時中の日本の航空技術の粋を集めた「震電」です。
機首付近に小翼を配した前翼形式、プロペラが機体の後ろにある推進式(ジェットエンジンの搭載も視野に入れていた)で、しかも現代のターボプロップ機のような6翅(6枚羽のプロペラ)です。超革新的な飛行機ですが、750km/h以上と云う最高速度を活かし高度12,000mで米軍のB-29の前方に展開し30mm機銃4門斉射で打ち落とす、本土防衛の切り札として設計された局地戦闘機なのです。もっとも8月3日の初飛行には成功したものの、三菱重工製星形複列18気筒エンジンに不具合が生じそのまま終戦を迎え、二度と大空を飛ぶことはありませんでした。
当時の日本の航空機技術・産業が世界一等であったことを示す好例ともいえる震電でしたが、終戦後は連合軍によって航空機の研究開発が禁止されたために、その後の技術革新からは「置いてけ堀」を食らうことになります。1952年のサンフランシスコ講和条約発効後に再開し、ようやく作り上げたYS-11も商業的には成功することができず、そして50年後のMRJです。ホンダジェットが飛び、哨戒機P-1も実用化され、Jaxaの超音速試験機(S3CM)による低ソニックブーム実験成功、HIIA、Bロケットの打ち上げで確実に実績を積み上げてきている日本ですから、今後は自前のジェット戦闘機「心神」で更に技術を磨き上げ、航空宇宙技術先進国の仲間入りを果たし確固たる地歩を固めたいものですね。
茗荷の花
茗荷が必要な時には裏庭から採って来ている方にはお馴染みですが、八百屋やスーパーで買ったことしかない方には珍しい花かもしれません。既に収穫してしまったものですが、お馴染みの茗荷の下2/3が土に埋まった(1/3を土から顔を出した)状態でこのように花を咲かせます。
我が家の庭では、例年は旧盆の頃から収穫の時期を迎えるのですが、今年の夏は異常高温のせいなのか7月中旬頃から既に花が咲きだしています。花が咲くと風味が落ち、少々硬くもなると云われていますが、売り物にはならずとも自宅用としては十分美味しく頂けます。
ライトウエイトスポーツ!
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