どこまでが常識?


 恥ずかしながら郷秋<Gauche>、「ふるさとは遠きにありて思ふもの...」が室生犀星であったことを、4/27に書いた「石川県は遠い」に対して金沢にお住まいのshinoさんがくださったコメントを拝見して初めて知った。こうして毎日Websiteやらblogやら(駄)文章を書いていると、はたして自分が書いている日本語が正しいのかどうか気になることが多く、それなりに確かめたりすることも多いのだが。

 しかし「ふるさとは遠きにありて思ふもの...」になると正しい日本語を知っているだけではこと足りず、日本語のバックグラウンドとしての文化、つまり日本人として相応しい常識を身につけているかどうかということになるのだろう。残念ながら郷秋<Gauche>は歳相応の日本人としての常識に欠けていたということになる。トホホ。

 つい最近読んだ本に「市井」を「いちい」と読む人がいると書いてあった(「かなり気がかりな日本語」(野口恵子著 集英社新書 税別660円 p.180 )。「市井」は広辞苑(第3版及び第5版)によれば「(中国古代、井戸すなわち水のある所に人が集まり市が出来たからいう)人家の集まっている所。まち。ちまた。『市井の人=市中に住む庶民』」」という意味であり、「読み物」として面白いと評判の三省堂の「新明解国語辞典第4版」でも、当たり前だが同じ意味だと書いてある。ちなみに読み方はあくまでも「しせい」であり、いずれの「いちい」の項を見ても「市井」は出てこない。

 しかし「いちいの人々」という言い方は結構頻繁に耳にする。テレビでも「市井」を「いちい」と誤読しているのを少なくない回数耳にしている。影響力の大きいテレビで「いちい」と読まれればその影響は文字通り大きく、「市井」は「いちい」と読むのだと思い込んでいる人も少なくないだろう。

 「本になっている日本語辞書」では「しせい」であってもPCに組み込まれている日本語辞書では必ずしもそうではない。私が使っているMS IMEスタンダード2003という仮名漢字変換辞書では「しせい」でも「いちい」でも「市井」と変換されるのが面白い。実用の道具としてPCに組み込まれる仮名漢字変換辞書は広辞苑よりも一歩前に進んでいるといことなのだろうな。

 日本語ブームが起きて久しいのだという。そう言われてみれば私もここ1、2年の間にかなり気がかりな日本語」の他にも「日本語は年速一キロで動く」(井上史雄著 講談社現代新書 税別700円)、「遊ぶ日本語 不思議な日本語」(飯間浩明著 岩波アクティブ新書 税別700円)など数冊の日本に関する本(すべて新書だが)を読んでいる。知らず知らずのうちにブームの片棒を担がされたいたわけである。

 確かに日本語は面白い。正しい日本語であるかどうかは国語学者だか文科省の国語審議会だかの方々にその判断をお任せしておけばよいのだが、実際に使われる日本語は「ら抜き言葉」であったり「さ入れ言葉」であったり、誤読・誤用が大手を振って歩いていたりで、面白い。電車の車内放送で「携帯電話のご使用はご遠慮させていただいております。」:(「かなり気がかりな日本語」p.179)なんて流れてきたら、痛勤怪速が通勤快楽になるくらい面白いぞ。

追記:「かなり気がかりな日本語」において野口恵子氏は、日本語を母語としない方に日本語を教える立場から、手本としてされると困るから「です・ます」あるいは「である・だ」に統一せ、書き言葉の中に話し言葉を挿入するなと主張されているが、確かに国語審議会的には「正しい日本語」ではないかも知れないけれど、そんなことは承知の上でWeb上での書き言葉としてあえてそのように書いているのだぞと、私は主張したい。正しいかどうかは別の問題として、Web上の常識の範囲内の日本語だと私は思っている。

 本日の1枚は、東京都下某所で咲き出した金蘭(キンラン)。
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