●程洞稲荷神社●
去る7月8日(日)、遠野市遠野町程洞にあるこの神社の例大祭に行った。愛宕神社は綾織町新里に、卯子酉神社は程洞と、その所在地が微妙に異なる。入口前には案内板があり、宮氏縁の神社であることが記されている。
11時から始まることを事前に入手していたが、既に道路に人影もなく、十台前後の車が。一人で登るしかない。急な山道を汗をかき、息を切って登ると大工町「太神楽」の人達に出会う。
10分以上もかけて登ると、稲荷大明神の幟が見え始め、やがて本殿。その手前、左側には金華山の石碑がある。
この季節故に、あたり一面が緑に覆われている。最後の石段を登ると平場の境内へとたどり着く。
若干、神事には時間があるため、内部を見せて頂く。名梨さんのお仕事前に権現様を確認。
神事
本殿の扉も開いている。
妻面からの様子。熊除けのために、金網が張ってある。
本殿は、流れ造り(本家、賀茂神社に由来)で彫刻もあり、しっかりした造り。宮大工の手によるものと推察。いつ再建された建物かは不明。
順序は前後するが、神事前に太神楽の奉納。この太神楽が毎年奉納されている訳でもないとのこと。何年か前には附馬牛の小倉神楽が奉納されていたとか。
社殿の裏側に廻ると、山宝神が祀られている。
今回の収穫のひとつ。もうひとつあるという神様を名梨さん他数名の方々と見学に向かう。
とても一人では行けそうもない山の中へ。案内人がいてこそたどり着くことができる神様。「高早大明神」。華厳院縁の方のお宅には、この高早大明神に関係する古文書があるという話を名梨さんからお聞きする。どのようなイワレがあるものなのか興味を覚える。
稲荷大明神銘のある鳥居の先には、「高早大明神」
巨岩を御神体としている様子。また、辺りには、沢水があることから、ここを水源として祀ったことも考えられる。程洞稲荷本殿の下段にも手水鉢が置かれ、涼をとることができる。
この神社でもうひとつ興味深いこと。熊野那智大社の御神符。奉納者は、程洞稲荷創建に関わる宮氏。
登り口の案内板には明和2年(1365)と記されているが、明和2年は1765年、1365年なら南朝の正平20年となる。おそらく、明和2年のほうが正解なのだろうが。この明和2年、笹谷観音や平倉観音が修復、再建された頃で、宇夫方広隆が遠野旧事記を書いた7年後のこと。
何故に、伏見稲荷ではなく熊野なの?宮氏と熊野との関わりは?
さて、この宮氏。この宮氏関連の詳細はこちら。
宮氏は倉堀姓だった?そして、阿曽沼最後の領主広長の弟が改姓して倉堀氏になった?阿曽沼氏は、その有力家臣や南部氏によって遠野を追われ、その家臣団は、遠野から出ていくように云われ、次々と去って行った。残ったのは、老人など出るに出られない事情のある人達だったと理解している。にも関わらず、時の領主の弟が南部氏の配下となるとは・・・。
空想:阿曽沼一族は、家臣団のみならず、兄弟も意見がわかれ、兄に従った者が遠野から追放されたのだろうか?それとも、宮氏は弟ではなかったのか?
倉堀氏が氏神としたのが倉堀神社で、これが有名な卯子酉神社となる。
遠野物語拾遺に登場する宮氏と倉堀氏の話の舞台のひとつがこの場所になり、この卯子酉さんの後方、山中にあるのが程洞さん。どちらも同一一族にまつわる神社ということか?今の私にはすっきりした形で理解できない。
いつもの参考図書には、横田村、程洞稲荷、善行院。とある。(倉堀神社及び卯子酉さんについては記述なし)江戸時代の弘化・嘉永年間(1840、50年代)には、鱒沢の羽黒派頭巾頭である善行院の霞場だったことがわかる。鱒沢は、阿曽沼広長追放急先鋒だった左馬之助広勝の本拠地でその鱒沢氏の菩提寺を預かっていたのが善行院。左馬之助は阿曽沼広長の叔父だったといわれる。(遠野最大のクーデターを起こしたのは小友金山縁の人々で、小友・鱒沢・綾織の連合軍。阿曽沼氏はこれらの地域を掌握できていなかったのではないだろうか?少なくとも秀氏以降は。)
やはり、空想に近い状況だったのだろうか?
神事終了後の直会は、下組町の消防・コミニティーセンターにて行なわれ、部外者の私は、太神楽見たさに同行。稲荷さんの鳥居と熊野さんのやたがらすをモチーフとした半纏を観ながら、空想にふける。
日曜日から今日までの天気と同様にすっきりしない気分のままでとりあえず書き込む。ひとつ、ひとつに興味深々の私には、あまりにも収穫の多い程洞参詣であった。
去る7月8日(日)、遠野市遠野町程洞にあるこの神社の例大祭に行った。愛宕神社は綾織町新里に、卯子酉神社は程洞と、その所在地が微妙に異なる。入口前には案内板があり、宮氏縁の神社であることが記されている。
11時から始まることを事前に入手していたが、既に道路に人影もなく、十台前後の車が。一人で登るしかない。急な山道を汗をかき、息を切って登ると大工町「太神楽」の人達に出会う。
10分以上もかけて登ると、稲荷大明神の幟が見え始め、やがて本殿。その手前、左側には金華山の石碑がある。
この季節故に、あたり一面が緑に覆われている。最後の石段を登ると平場の境内へとたどり着く。
若干、神事には時間があるため、内部を見せて頂く。名梨さんのお仕事前に権現様を確認。
神事
本殿の扉も開いている。
妻面からの様子。熊除けのために、金網が張ってある。
本殿は、流れ造り(本家、賀茂神社に由来)で彫刻もあり、しっかりした造り。宮大工の手によるものと推察。いつ再建された建物かは不明。
順序は前後するが、神事前に太神楽の奉納。この太神楽が毎年奉納されている訳でもないとのこと。何年か前には附馬牛の小倉神楽が奉納されていたとか。
社殿の裏側に廻ると、山宝神が祀られている。
今回の収穫のひとつ。もうひとつあるという神様を名梨さん他数名の方々と見学に向かう。
とても一人では行けそうもない山の中へ。案内人がいてこそたどり着くことができる神様。「高早大明神」。華厳院縁の方のお宅には、この高早大明神に関係する古文書があるという話を名梨さんからお聞きする。どのようなイワレがあるものなのか興味を覚える。
稲荷大明神銘のある鳥居の先には、「高早大明神」
巨岩を御神体としている様子。また、辺りには、沢水があることから、ここを水源として祀ったことも考えられる。程洞稲荷本殿の下段にも手水鉢が置かれ、涼をとることができる。
この神社でもうひとつ興味深いこと。熊野那智大社の御神符。奉納者は、程洞稲荷創建に関わる宮氏。
登り口の案内板には明和2年(1365)と記されているが、明和2年は1765年、1365年なら南朝の正平20年となる。おそらく、明和2年のほうが正解なのだろうが。この明和2年、笹谷観音や平倉観音が修復、再建された頃で、宇夫方広隆が遠野旧事記を書いた7年後のこと。
何故に、伏見稲荷ではなく熊野なの?宮氏と熊野との関わりは?
さて、この宮氏。この宮氏関連の詳細はこちら。
宮氏は倉堀姓だった?そして、阿曽沼最後の領主広長の弟が改姓して倉堀氏になった?阿曽沼氏は、その有力家臣や南部氏によって遠野を追われ、その家臣団は、遠野から出ていくように云われ、次々と去って行った。残ったのは、老人など出るに出られない事情のある人達だったと理解している。にも関わらず、時の領主の弟が南部氏の配下となるとは・・・。
空想:阿曽沼一族は、家臣団のみならず、兄弟も意見がわかれ、兄に従った者が遠野から追放されたのだろうか?それとも、宮氏は弟ではなかったのか?
倉堀氏が氏神としたのが倉堀神社で、これが有名な卯子酉神社となる。
遠野物語拾遺に登場する宮氏と倉堀氏の話の舞台のひとつがこの場所になり、この卯子酉さんの後方、山中にあるのが程洞さん。どちらも同一一族にまつわる神社ということか?今の私にはすっきりした形で理解できない。
いつもの参考図書には、横田村、程洞稲荷、善行院。とある。(倉堀神社及び卯子酉さんについては記述なし)江戸時代の弘化・嘉永年間(1840、50年代)には、鱒沢の羽黒派頭巾頭である善行院の霞場だったことがわかる。鱒沢は、阿曽沼広長追放急先鋒だった左馬之助広勝の本拠地でその鱒沢氏の菩提寺を預かっていたのが善行院。左馬之助は阿曽沼広長の叔父だったといわれる。(遠野最大のクーデターを起こしたのは小友金山縁の人々で、小友・鱒沢・綾織の連合軍。阿曽沼氏はこれらの地域を掌握できていなかったのではないだろうか?少なくとも秀氏以降は。)
やはり、空想に近い状況だったのだろうか?
神事終了後の直会は、下組町の消防・コミニティーセンターにて行なわれ、部外者の私は、太神楽見たさに同行。稲荷さんの鳥居と熊野さんのやたがらすをモチーフとした半纏を観ながら、空想にふける。
日曜日から今日までの天気と同様にすっきりしない気分のままでとりあえず書き込む。ひとつ、ひとつに興味深々の私には、あまりにも収穫の多い程洞参詣であった。
苗字が縁で、同名の神社へ行きついたようでなによりです。
ご覧のとおり、郷土芸能、時々歴史、そして飲み会話題の拙いブログですが、
また、倉堀が苗字さんの琴線ふれる話題が掲載できるかもしれませんので、
思い出したようにご覧頂ければ幸いです。笑
昨日、卯子酉神社と多賀神社に行って倉堀神社を参拝してきました。
笛吹さんのおかげで、スムーズに行くことができ良い旅ができました。このブログに出会えて良かったです。今後も拝見してますので、宜しくお願いいたします。
ありがとうございました。
今晩、新町多賀神社が宵宮とのことで、先ほど多賀神社境内へ行って来ました。
境内には多賀神社の他に小さな稲荷さんと名前のわからない二社がありました。
残念ながら、倉堀神社と特定できなかったのですが、
その名前のわからない二社のうちのどちらかが倉堀神社ではないかと思います。
大変勉強になりました。ありがとうございます。
お盆休みで江刺へ行きますので、時間が取れたら遠野へ
行ってみたいと思います。
これからも、貴方のブログを楽しみに拝見いたしますので
宜しくお願いいたします。
阿曽沼氏に関係する一族・支族について、残っている資料はそれほど多くなく、
東和町近隣から遠野、そして大槌・鵜住居・釜石・世田米周辺に、言伝えとして残っているようです。
倉堀氏についても、このブログ本文にあるように阿曽沼氏と宮氏、そして倉堀氏は関係ある一族との伝承です。
柳田国男著「遠野物語」に付属して掲載されている「遠野物語拾遺」138、139話に宮氏と倉堀氏のことが掲載されています。
宮氏については、その子孫の方が先祖を調査されたようですが、
倉堀氏については、詳細な資料が公表されていないので、これ以上のことは、
遠野に住む倉堀氏に直接聞いてみるほかはないのかもしれません。
また、貴重な情報をありがとうございます。
もし宜しければ教えていただきたいのですが、
インターネットで色々と調べてみたら
奥州阿曽沼氏と倉堀という苗字が関連あるような
表を見かけたのですが、何か関連があるのでしょうか?
また、倉堀神社と。
宜しくお願いいたします。
下組町の卯子酉さんは遠野市観光協会のHPにもありますが、小さい神社なのでびっくりしないで下さい。
また、下組町の隣りに新町がありますが、
そこにある多賀神社境内には、明治時代に移された倉堀神社があるはずです。
そここそが、倉堀さんに通じる神社です。
私の祖父は、地元の山田町で魚売りをしており
立派な商人、とても尊敬できる方でした。
祖母・両親の相続がほぼ同時に発生したため先に亡くなっていた
祖父の戸籍を取る機会があり、明治時代に曽祖父が養子で
倉堀家に入ってきた事までは確認が取れています。
珍しい名字のため、子供の時は嫌っていましたが
今は誇りに思う次第です。
これ以上、書くと個人が特定されてしまいますので控えますが、
このブログを拝見できて、とても嬉しく思います。
近いうちに奥州市に行く予定がありますので、時間が取れたら
倉堀神社へ行ってみたいと思っています。
コメントありがとうございます。
倉堀姓の家は遠野にもあり、かつての倉堀神社は現在、卯子酉神社といい、縁結びの神社として観光客が訪れる場所のひとつになっています。
この卯子酉神社は文久年中(1861~1864)に普代村の港屋平兵衛という人が鵜鳥神社の分霊を祀り勧請したものだということです。
当時の遠野の商人は沿岸部へも行っていたようです。
ブログ拝見いたしました。
私は名字が倉堀です。
出身は岩手県山田町です。
最近、自分の名字の由来に興味を持ち
インターネットで検索したら
このブログに出会いました。
色々と勉強になり、お礼のコメントをいたします。
ありがとうございます。
私もここに載せた程度しかわかりません。(-_-;)
遠野や盛岡にも同姓の方がいらっしゃるようですし、
宮氏に関する文献は他にもあるように聞いております。
あてにならない笛吹です。笑
おはようございます。人間、健康が第一。健康に勝る宝なしです。
私は、連休中、庭木の剪定をしましたが、その筋肉痛で、マウスを持つのも嫌なくらいです。歳をとると、なかなか、なおらなくて!
山伏が一般的に関わったのは江戸時代までのことで、それ以降は、各神職の方々の奉仕するところになったのだろうと思います。但し、家庭の稲荷さんも同じですが、各自が氏神として自力で祀っている例も多々あるものと思われます。aboutさんのご先祖は熊野が猟師との関わりから発生していることをご存知だったのでしょう。但し、これは、熊野に限ったことではない話ですが。
先週末に熊野と猟師の関係を別家のおばちゃんから聞かされましたが全く調べていませんでした。笛吹さんなら「熊野マニア」ですので訊けば即答してくれるものと思っていましたので(笑)。
先週末に本家のお不動さんのところの「不明な権現様」が「熊野」であることが判明したんです。鉄砲撃ちであった別家のおんちゃまは「体が痛い(背中)」ということだったんですが「この神様を拝むといい」ということで熊野を拝んだようです。昭和20年頃の話です。そのおんちゃまはすでに故人ですが。
これは笛吹さんに訊いてみようと思った次第です。
山伏が「積極的に関わらない熊野」も存在するようですね。
熊野と、鉄砲撃ち=猟師の話は、ネットで「熊野と猟師」で検索すると沢山ヒットするようです。私自身、この切り口から調べたことがなかったのですが、じっくり見てみたいと思います。貴重なお話ありがとうございます。
記事と関係無いことで恐縮ですが「鉄砲撃ち」と「熊野」の関係について知っていることがあったなら教えてもらえるとうれしいのですが。
その事件のこと、例祭の日に名梨さんからお聞きしました。残念なことです。
ご苦労様です。19日の件、ラジャーです。
兎にも角にも、遠野とて平和な街でないという事件でした。・・女性の一人旅は十分用心しないと・・
7/19 10時~とぴあにて画像展PRコーナー設置を致します。
お手伝いいただける方は現地へお集まり下さい(=^▽^=)
例祭取材が、ひょんなことから深みにはまっています。おぼれそうなので、ちょっと、一休み?
8日、程洞稲荷の縁日情報を入手していましたが、自分は行けず
「ふ~~ん」って思ってました。それが、このようにUPされて、大感動でしゅ(感)
稲荷社ということしか知らず、今回八咫烏の額をみて、びっくり
なして? なして? という疑問と、知りたい知りたいが湧いてきます。
そして、高早大明神。名梨さんとこで気になっていた鳥居と巨石
水辺ということから、弁才天、水神、竜神などが浮かびますが
「高早」という名も気になりますねぇ…
そうなんですよ!とらねこさん。何かひっかかる。
遠野町1地割の小字名が倉掘なようですが、なぜ、ここを1番にしたのかも気になっています。倉堀姓は、遠野の地名から発生したもので、宮姓は、ここに移動してきた人の姓だったと想像しているのですが、どこにでもあるように同姓2家が同一期に並び建つということもありえますしね。
色々と不完全燃焼的な思いもあるようですね。
宮氏と程洞稲荷やら倉堀社、さらに阿曾沼氏に連なる謎の部分、当方もいささか腑に落ちない点もありますが故宮康氏の30年にわたる研究成果もあることから、まずはこの路線継承でいけたらと思います。
腑に落ちない点、宮氏の菩提寺は常○寺、八戸氏の遠野入部と共にやって来た寺ですが、過去帳に何故に慶長年間に亡くなられた方が書かれているのか、江戸期の子孫が書き足したは考えられるも、何かの作為もありそうな・・・・?
時間をみつけて伺います。よろしくお願いします。
例の古文書、数年前デジッていたものを昨晩やっと見つけましたのでお見せいたします。暇を見て出はってらっしゃい。
高早大明神は、近くはないですよ~。二人でもいけません。もう一度と云われても、行く自信なし。
高早の文字~高清水・早池峰を想像するも根拠なし。涙!
今週は、どうも、もやっとした文面で・・・。
行ったのは一度だけでしたが、藪藪がちょっと・・・
今は違う意味で警戒した方がいい場所かなっ・・・と。
んでは、高早大明神~はそこから遠からずってとこですね。
でも、あの界隈の鬱蒼とした森を思い出すと、確かに一人で行くのは躊躇します。
それにしても、ドナタカの写真では鳥居が妙~にちっさく見えてフシギだった・・・・
大作、おちかれさまでしたー
先日は、ありがとうございました。なかなか、文章がまとまらず時間ばかりが過ぎました。八咫カラスの話、面白いですね。元は熊野さんだった社が、当時、盛んに建立された稲荷さんに変貌をとげたりして・・・・。江戸時代後期のこの神社に関わる棟札などがあればよいのですが。
また、突然、どこかの例祭に出没するかもしれませんが、よろしくお願いします。笑!
言い伝えによると、八咫カラスが熊野に行く途中ここ程洞に降り立ち水を飲んで飛び去った場所なそうで、稲荷社なのに社紋に「八咫ガラス」の使用が認められているそうです。