●赤羽根稲荷神社●
上郷町、赤羽根トンネルの手前左側の山中にあり。
天文年中(1532~1555)に阿曽沼家臣の刃金館主「平倉千右衛門」が京都の愛染寺より勧請して創建したといわれる。天明8年(1788)8月23日に萩野条右衛門勝信ほか6名が願主となって社殿の修復が行なわれた。棟札には東善寺法印宥尊により大小旦那の武運長久の祈願がなされたことが書かれている。正一位稲荷大明神。
●天文年中の出来事●
天文3年~南部晴信、柏山氏と交戦。遠野でも葛西氏と交戦。
天文6年~二番札書松崎観音境内に、この年の銘ある石碑建つ(奉納開山善秀和尚百五十年造塔仏立、施主善快主白)
天文7年~江刺氏、気仙郡高田の千葉胤継および矢作重村らと戦い、矢作重村を討ち取る。
天文12年~種子島に鉄砲伝来
天文18年~フランシスコザビエル、キリスト教を伝える。小友に曹洞宗清水山西来院、開基
この後、川中島、桶狭間の戦いと全国至るところで国取り合戦が行なわれることになる。
●天明年中の出来事●
天明3年~天明の大飢饉
天明4年~裏町から失火(長助火事):焼失家屋100、罹災家屋186
天明5年~遠野7代南部義顔逝去(江戸にて病死)8代怡顔継ぐ
天明6年~菅江真澄、胆沢町に滞在中に田植躍を見る(かすむこまがた日記)えんぶりずり小正月行事
天明7年~松平定信、老中となる。六日町に代わり一日市、穀町、新町で伝馬役を負担する。
天明9年~菅江真澄、青森県下北田名部正月15日田植踊を見る(おくのてぶり日記)小正月行事
未曾有の大飢饉が東北地方を襲い、故郷を離れる人々が相次ぐ中、乞食同然の姿をした人々が小正月行事の田植踊り(えぶりすりorえんぶりすり)を演じながら、村々を歩く様子が見られた時代。八戸に伝わるえんぶりや各地の田植踊りの原風景がそこにはあったようだ。
室町時代後期から250年も過ぎた頃、田植の時期でもない小正月にお祝いの行事として田植え踊りが演じられ、どこから来たともわからない人達によって行なわれたものが、その後、次第に各地域の若者達に引き継がれ、形を変えて今も生きている。伝統芸能とは、そういったものなのだろう。決して不変ではないとだけは言えるようだ。
我家の庭に咲く名も知らぬ花
上郷町、赤羽根トンネルの手前左側の山中にあり。
天文年中(1532~1555)に阿曽沼家臣の刃金館主「平倉千右衛門」が京都の愛染寺より勧請して創建したといわれる。天明8年(1788)8月23日に萩野条右衛門勝信ほか6名が願主となって社殿の修復が行なわれた。棟札には東善寺法印宥尊により大小旦那の武運長久の祈願がなされたことが書かれている。正一位稲荷大明神。
●天文年中の出来事●
天文3年~南部晴信、柏山氏と交戦。遠野でも葛西氏と交戦。
天文6年~二番札書松崎観音境内に、この年の銘ある石碑建つ(奉納開山善秀和尚百五十年造塔仏立、施主善快主白)
天文7年~江刺氏、気仙郡高田の千葉胤継および矢作重村らと戦い、矢作重村を討ち取る。
天文12年~種子島に鉄砲伝来
天文18年~フランシスコザビエル、キリスト教を伝える。小友に曹洞宗清水山西来院、開基
この後、川中島、桶狭間の戦いと全国至るところで国取り合戦が行なわれることになる。
●天明年中の出来事●
天明3年~天明の大飢饉
天明4年~裏町から失火(長助火事):焼失家屋100、罹災家屋186
天明5年~遠野7代南部義顔逝去(江戸にて病死)8代怡顔継ぐ
天明6年~菅江真澄、胆沢町に滞在中に田植躍を見る(かすむこまがた日記)えんぶりずり小正月行事
天明7年~松平定信、老中となる。六日町に代わり一日市、穀町、新町で伝馬役を負担する。
天明9年~菅江真澄、青森県下北田名部正月15日田植踊を見る(おくのてぶり日記)小正月行事
未曾有の大飢饉が東北地方を襲い、故郷を離れる人々が相次ぐ中、乞食同然の姿をした人々が小正月行事の田植踊り(えぶりすりorえんぶりすり)を演じながら、村々を歩く様子が見られた時代。八戸に伝わるえんぶりや各地の田植踊りの原風景がそこにはあったようだ。
室町時代後期から250年も過ぎた頃、田植の時期でもない小正月にお祝いの行事として田植え踊りが演じられ、どこから来たともわからない人達によって行なわれたものが、その後、次第に各地域の若者達に引き継がれ、形を変えて今も生きている。伝統芸能とは、そういったものなのだろう。決して不変ではないとだけは言えるようだ。
我家の庭に咲く名も知らぬ花
びへ~お盛んな時期に社の話題と思うも、屋根に雪が・・・・これなら納得です・・・・笑
赤羽根稲荷が刃金館の館主の勧進、本姓を菊池と称する平倉一族は、早い時期に遠野へ来ていたことになりますが、この謎に迫るのもまた遣り甲斐がありますね。
季節はずれの雪が上郷に降ったようで(笑)、緊急出動したわけではありませんが、暑いので・・・。
上郷は、現在は板沢が市街地となっていますが、かつては細越を含む平倉が中心地で、館のそばを流れる早瀬川に沿って東西に開けた場所だったのでしょう。
この地域を見るときは、早瀬川沿いを東西南北にアンテナをはりながら巡回しています。板沢から佐比内にかけての地域は猫川(水の無い川)の河川敷を農地として徐々に開発していった結果が現在の姿なのだろうと・・・。と言うことで、私に関わる獲物は、山沿いになってしまい、ビヘ~!!との遭遇必死→自ずと回避する行動と相成候
はじめまして。遠野への想いは、はちきれんばかりにあるのですが、自分自身の言葉で表現するにはまだまだ修行が足りないようで、図書館資料からの書き直しに終始している現状です。興味があって調べると先人が既に調査済みだったりと、今更ながら、浅学の身を悔やむことしきりです。今後ともご指導、コメントをお願いします。