皆さん、ご存知の東禅寺。遠野史関連には、3つの東禅寺が登場する。八戸東善寺、盛岡東禅寺、附馬牛東禅寺。この3ヶ寺関連の文章を読んでいると、実はよくわからなくなる。
●八戸東善寺●
真言宗 自在山 東禅寺。大和長谷小池坊末寺。八戸南部氏の居城である根城の領域内に在ったが、遠野移封に際し、先導を務める。建武元年(1334)南部師行公御代に創建され、明徳4年(1393)政光公御代に甲州から八戸に移り、南部家の祈祷寺としての役目を果たす。当初、鍋倉城敷地内にあったが、後に妙泉寺、善応寺と共に、現遠野小学校付近に移る。明治に廃寺となる。八戸関連史跡案内では東善寺とあり、遠野においては東禅寺と記される。どちらの「ぜん」の字も使われたという文章を何かで見た覚えがあるが、どちらが正しいのかな。
●盛岡東禅寺●
臨済宗 大宝山 東禅寺。臨済宗妙心寺末寺。建武年中(1334~36)野州興禅寺開山真空妙応禅師の上足、無尽妙什和尚の開山。開基は南部師行公。南部叢書によると、寛永9年(1632)利直公卒去の時、大英禅師が遠野から三戸に行き引導師を務めた。その後重直公が盛岡に移城と同時に現在地に開創。本尊の釈迦三尊は阿曾沼妙春尼の寄進とされる。
●附馬牛東禅寺●
・建武年間説~延享2年(1745)の奥書きある「当山てん末山由緒書」に「禅臨済宗大宝山東禅寺、当寺者建武年中建立之由 開山無尽和尚尚百二十歳而示寂之由申伝候。」もうひとつ南部利恭伯爵の明治19年の答申書には「遠野附馬牛村東禅寺は建武年中11世従四位伊予守信長建立(天文8年三戸城火災に係り、旧記多消失、故に不詳)と見ゆ。住寺無尽和尚東禅寺開山(有徳の僧と覚ゆ)守行無尽に帰依して法躰す。遺命に因同寺に葬す。」この2文より建武年間開山とする説。
・嘉慶2年説~明暦4年(1658)「早池峰山妙泉寺文書所収訴情案」の文書より「一、妙泉寺之二字遠野之内東禅寺と申寺御座候。此開山無尽和尚加慶2年に只今本寺と申所を切開建立候。」もうひとつ「享保年間から延享3年までの間に記された「遠野妙泉寺由緒」にも同様に記されている。
・永享9年以前説~元禄の頃、松井道円が筆録した「吾妻むかし物語」の「無尽和尚、弘法大師の御経書継れし事」という項に無尽が東禅寺を創立したのは高野山から理趣経を受けて帰国後、守行が陣没する以前であるがごとく記している。守行が没したのは永享9年(1437)4月で、理趣経を受けたのが永徳2年(1382)9月であることから永享9年以前、永徳2年以後とする説。嘉慶2年説と重なる。
盛岡東禅寺は、遠野東禅寺から移ったということをそもそもの由緒としているので、遠野東禅寺の由緒が確定すれば、自ずと解決する。
八戸東善寺は、南部氏遠野移封と共にやってきたことは事実であり、様々な神社の再建にその名が見える。が、時として、附馬牛東禅寺と混同しがちである。南部氏が遠野へ来た時、同名のお寺があることをどう感じたのであろうか?私は、遠野史を読み始めた頃、これらの東禅寺があることを不思議に感じた。また、附馬牛の東禅寺跡とされている所へ行くと建物が南を背にして配置されていることにも?を感じる。ほとんどの神社仏閣は南を除く配置(仏壇の配置と同様)をしているからである。なぜ、早池峰を向いているのかと。
神仏習合の時代まで、早池峰山には妙泉寺があり、六角牛山には善応寺があったが、石上山には寺がなかったのだろうか?現在、早池峰神社、六角牛神社、石神神社はあるのに。東禅寺跡とされている場所は、早池峰より石神に近いのはなぜか?
寛永8年(1631)新造寺院の禁止令が幕府より出されるが、これと、盛岡東禅寺の関わりはどうなのか?少なくとも、南部師行が遠野へ来たとか大槌へ行ったとかということは、現在否定的が見解が多い。この法律と、阿曾沼時代に建立され、江戸時代には無くなったとされる寺院との関わりは?
東禅寺と妙泉寺とは、縁起に深い関わりがありながら、その諸説においてはっきりとした見解を見出せないのはなぜか?無尽和尚は実在の人物か?「和漢禅刹次第」に載っている東禅寺は遠野のことか?松島瑞巌寺より北に位置するのに、陸奥の筆頭とされてきたのはなぜか?(この文章の序列は京都に近い順番で記されているように思える)また、200名を超える僧侶が居たとされるほどの寺院群は、誰が旦那となって設けられたものなのか?少なくとも、たとえ高僧とされる無尽によって広くお布施を頂いたにしても、あの伽藍群は無理ではないだろうか?遠野12郷を治めていたとされる阿曾沼氏でも。最後にもうひとつ、それだけの寺院があり、僧侶が居たのであれば、遠野郷に、もっと沢山の東禅寺伝説が広まっていてよさそうだということ。義経や安倍氏の伝説以上に。
●八戸東善寺●
真言宗 自在山 東禅寺。大和長谷小池坊末寺。八戸南部氏の居城である根城の領域内に在ったが、遠野移封に際し、先導を務める。建武元年(1334)南部師行公御代に創建され、明徳4年(1393)政光公御代に甲州から八戸に移り、南部家の祈祷寺としての役目を果たす。当初、鍋倉城敷地内にあったが、後に妙泉寺、善応寺と共に、現遠野小学校付近に移る。明治に廃寺となる。八戸関連史跡案内では東善寺とあり、遠野においては東禅寺と記される。どちらの「ぜん」の字も使われたという文章を何かで見た覚えがあるが、どちらが正しいのかな。
●盛岡東禅寺●
臨済宗 大宝山 東禅寺。臨済宗妙心寺末寺。建武年中(1334~36)野州興禅寺開山真空妙応禅師の上足、無尽妙什和尚の開山。開基は南部師行公。南部叢書によると、寛永9年(1632)利直公卒去の時、大英禅師が遠野から三戸に行き引導師を務めた。その後重直公が盛岡に移城と同時に現在地に開創。本尊の釈迦三尊は阿曾沼妙春尼の寄進とされる。
●附馬牛東禅寺●
・建武年間説~延享2年(1745)の奥書きある「当山てん末山由緒書」に「禅臨済宗大宝山東禅寺、当寺者建武年中建立之由 開山無尽和尚尚百二十歳而示寂之由申伝候。」もうひとつ南部利恭伯爵の明治19年の答申書には「遠野附馬牛村東禅寺は建武年中11世従四位伊予守信長建立(天文8年三戸城火災に係り、旧記多消失、故に不詳)と見ゆ。住寺無尽和尚東禅寺開山(有徳の僧と覚ゆ)守行無尽に帰依して法躰す。遺命に因同寺に葬す。」この2文より建武年間開山とする説。
・嘉慶2年説~明暦4年(1658)「早池峰山妙泉寺文書所収訴情案」の文書より「一、妙泉寺之二字遠野之内東禅寺と申寺御座候。此開山無尽和尚加慶2年に只今本寺と申所を切開建立候。」もうひとつ「享保年間から延享3年までの間に記された「遠野妙泉寺由緒」にも同様に記されている。
・永享9年以前説~元禄の頃、松井道円が筆録した「吾妻むかし物語」の「無尽和尚、弘法大師の御経書継れし事」という項に無尽が東禅寺を創立したのは高野山から理趣経を受けて帰国後、守行が陣没する以前であるがごとく記している。守行が没したのは永享9年(1437)4月で、理趣経を受けたのが永徳2年(1382)9月であることから永享9年以前、永徳2年以後とする説。嘉慶2年説と重なる。
盛岡東禅寺は、遠野東禅寺から移ったということをそもそもの由緒としているので、遠野東禅寺の由緒が確定すれば、自ずと解決する。
八戸東善寺は、南部氏遠野移封と共にやってきたことは事実であり、様々な神社の再建にその名が見える。が、時として、附馬牛東禅寺と混同しがちである。南部氏が遠野へ来た時、同名のお寺があることをどう感じたのであろうか?私は、遠野史を読み始めた頃、これらの東禅寺があることを不思議に感じた。また、附馬牛の東禅寺跡とされている所へ行くと建物が南を背にして配置されていることにも?を感じる。ほとんどの神社仏閣は南を除く配置(仏壇の配置と同様)をしているからである。なぜ、早池峰を向いているのかと。
神仏習合の時代まで、早池峰山には妙泉寺があり、六角牛山には善応寺があったが、石上山には寺がなかったのだろうか?現在、早池峰神社、六角牛神社、石神神社はあるのに。東禅寺跡とされている場所は、早池峰より石神に近いのはなぜか?
寛永8年(1631)新造寺院の禁止令が幕府より出されるが、これと、盛岡東禅寺の関わりはどうなのか?少なくとも、南部師行が遠野へ来たとか大槌へ行ったとかということは、現在否定的が見解が多い。この法律と、阿曾沼時代に建立され、江戸時代には無くなったとされる寺院との関わりは?
東禅寺と妙泉寺とは、縁起に深い関わりがありながら、その諸説においてはっきりとした見解を見出せないのはなぜか?無尽和尚は実在の人物か?「和漢禅刹次第」に載っている東禅寺は遠野のことか?松島瑞巌寺より北に位置するのに、陸奥の筆頭とされてきたのはなぜか?(この文章の序列は京都に近い順番で記されているように思える)また、200名を超える僧侶が居たとされるほどの寺院群は、誰が旦那となって設けられたものなのか?少なくとも、たとえ高僧とされる無尽によって広くお布施を頂いたにしても、あの伽藍群は無理ではないだろうか?遠野12郷を治めていたとされる阿曾沼氏でも。最後にもうひとつ、それだけの寺院があり、僧侶が居たのであれば、遠野郷に、もっと沢山の東禅寺伝説が広まっていてよさそうだということ。義経や安倍氏の伝説以上に。
妄想的ながら・・・・
附馬牛の東禅寺は、その伽藍配置等の形跡から臨済宗というよりも天台、真言といった密教系、それとも臨済宗創始の当初の姿をそのまま配置したものではないのか・・・という見解もあったと記憶しております。
それと早池峰妙泉寺との関わりは絶対あったと私は考えます。
妙泉寺の分院か、それとも分離独立したものか、後に阿曽沼氏歴代の当主の誰か、重鎮の誰かにより臨済宗を招致したものか、それともそれらを受け入れたものなのか、今回のエントリーとはあまり関係ないかもしれませんが、大萩に大萩大館と小館という館跡が存在しますが、舘主を大萩円源と伝えられる、僧籍とも思わせる名、大萩館は東禅寺が抱える僧兵の拠点だったのか、それとも阿曽沼氏により築かれた館に僧籍だったもの、得度した武将が入っていたものなのか、こちらも興味がございます。
それと石上山、阿曽沼時代のしかるべき時代、遠野三山という意識はなかったのではないのか?こちらは見識不足です。
東禅寺跡ですが、岩手大学の板橋氏の発掘調査によってその存在が確認され、伝説の裏づけがなされたわけですが、臨済宗寺院の伽藍と言い切れないように感じています。あまりにも出来すぎていて。東禅寺という名前の寺院は千葉氏発祥の地にもあり、福島県、山形県にもあります。何かの都合で名前を借りたのではと思ったりもし、なぞです。僧兵の話はなかなかいいですね。平泉と弁慶の関わりを思い出します。
遠野三山については、伊豆権現が江戸時代だとすれば成り立ちますね。どうも、その線かな。
石上→石神→物部氏なるほど。知りませんでした。石見一宮物部神社・奈良石上神宮のホームページ・wikipediaにて確認させて頂きました。物部氏が東北に関係しているんですね。それと守屋氏も(宮城県には守屋姓の方々が現在も活躍しておられる)
松崎にて語られる三山は地元にて親しまれているお山なのではないでしょうか。谷地から駒木に至る平地から、北側を眺めると丁度、絵になるようにそれらの山々が見えますよね。
が、以前大出の早池峰神社で出会った地元のおじいさんが、東禅寺から早池峰山妙泉寺まで詣でる人が居たという話、その途中には「櫓」があったという話を教えて頂いたことがありました。
あの砂子沢からの道は、早池峰神社が最終目的地だとも仰っていたような・・・・
「謎は深まるばかりだわー。」
地名の件、情報ありがとうございます!