フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

両陛下熊本歴訪/最敬礼会見/打撃の神様逝く

2013-10-31 15:01:04 | 時事トピックス

   このほど天皇皇后両陛下が熊本県を歴訪された。33回目になる「全国豊かな海づくり大会」へのご臨席が主目的であるが、水俣病慰霊碑に献花をされ、ハンセン病療養施設にもお立ち寄りになられて、それぞれの患者の方とも懇談をされた由である。
   両陛下が東日本大震災の被災地を訪ねられ、避難所で膝を着かれて被災者たちとお話をされる姿に多くの国民が心を打たれたものだが、この度は水俣病やハンセン病など云わば日本の陰の部分にお出向きになられた。旧来の皇室では考えられないことと思う。私は皇室崇拝者ではないが、民間人として初めて皇室に入られた美智子皇后が長い時間をかけて醸成された「開かれた皇室」の姿として共感を覚える。


   頭を深々と下げた最敬礼、間断なく焚かれるカメラのフラッシュ、おもむろに切り出されるお詫びの言葉・・・近頃やたら目につく謝罪会見の光景である。ずさんな線路管理による事故続きのJR北海道、グループ信販会社を通した暴力団組員への融資を放置していたみずほ銀行、料理の高級感を出すために食材の偽表示をしていた阪神阪急ホテルズ、そして息子が窃盗未遂で逮捕されたみのもんた氏。みの氏は別にして、不祥事を起こした企業のトップが深々と頭を下げる姿ははもう画一化、セレモニー化した感があり、ひとつも深甚なる謝罪の気持ちが伝わって来ない。そして、大概は初め言い繕っていたが、ウソがぼろぼろばれるに及んで、追い詰められての会見と相成っている。形だけの謝罪会見は今後もまだまだ出て来そうだ。
   みのもんた氏については事情が異なる。成人した子供に親がどこまで責任を負うかいろいろな議論があると思うが、みの氏にマスコミが取り上げているような子供への「甘やかし」があったとしても、今回は、時代の寵児であり莫大な収入を得ているみの氏へのやっかみが半分は占めており、いつものような(出る杭を打つではなく)「出る杭を引き抜く」大衆マスコミの仕業に捕まったというのが実情だろう。


   「打撃の神様」こと川上哲治さんが亡くなった。老衰のためといい、正に天寿を全うされた一生涯であったと思う。選手・監督としての実績やプロ野球界における功績などは新聞・テレビ等で紹介され尽くしているので割愛する。
   私が同居していた叔父に連れて行かれて後楽園球場で初めてプロ野球を観たのは小学校4年か5年。今から60年近く前で、まだ家にはテレビもなかった時代である。球場の芝生の绿がカクテル光線に映え、「バシーッ」というキャッチャーミットの音や「カーン」という打球の乾いた音が球場中に響くのを鮮烈に覚えている。その当時も勿論巨人の4番は川上。別所・大友・中尾らの投手陣、打撃陣には与那嶺・千葉らに藤尾・広岡・宮本などの若手が加わっていた。中学時代は学校が後楽園に近く、新聞販売店で内野自由席の無料招待券をもらって学校帰りに観戦したが、その頃は引退間近かで川上選手の印象は薄く、引退後は長嶋・王の時代に入って行った。

   私は川上さんと双葉山について共通するところを感じている。野球と相撲で求道者的な精進・努力でその道を究め、片や「打撃の神様」、片や「角聖」と謳われるように神格化されるほどの存在になった。この両者は精神修養にも励み、また川上選手は投球の間合いでもほとんどバッターボックスを外さない、双葉山は決して「待った」をしないという美学を貫いた。野球・相撲の両道において不世出の偉人と考える。
   余談だが川上さんは熊本県、双葉山は大分県の生まれ、共に九州人であったことは偶然であろうか。
  

[今日の花] 

左:ツワブキ艶蕗または石蕗:キク科)
中:タイワンホトトギス台湾杜鵑:ユリ科)
右:アラゲハンゴンソウ粗毛反魂草/別名キヌガサギク:キク科) 

  

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