この写真は誕生6ケ月くらいの私である。
私は昭和19年(1944年)8月に生まれた。第二次世界大戦の終戦のちょうど1年前である。
日本の敗戦が決定的な戦況の中、いよいよアメリカ軍による本土爆撃の手が伸びていた。
これは、これから生死がどうなるか分からない中で撮った記念写真の一枚である。
この時家族は両親と長男である私の3人で、両親と一緒の写真もあったのを記憶しているが、手元にはこれしか残っていない。
父は古くから温泉街で知られる群馬県水上町の生まれ。
警察官に任官して上京した後満州へ出兵した。満州ではノモンハンの銃撃戦で被弾したが、幸い命はとりとめた。戦況が悪化して国内警護も厳しくなったため、警察官は内地に戻されたという。
内地に復員した後、母と見合い結婚をした。
母は今コシヒカリの中でもブランド米の産地として有名な新潟県塩沢町の生まれ。
父と母の生家は、川端康成の小説『雪国』の冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という書き出しに出てくる清水トンネルを挟んだ群馬側と新潟側である。
このトンネルは当時日本一の長さで、私は学生時分までは両方の生家(いわゆる「田舎」)に往き来するのによく通ったものである。
話を元に戻そう。先ほど「本土爆撃の手が伸びていた」と書いたが、私が生まれてからはアメリカ軍のB29などの爆撃機が首都東京の上空に飛来し、焼夷弾(しょういだん)爆撃が激しくなって来た。
焼夷弾は爆発の威力で人を殺傷するのではなく、人家や工場などを火で焼き払うもので、この写真から間もない昭和20年3月10日の「東京大空襲」は広島や長崎の原爆投下とも並ぶほどの大災害を受けた。
東京でも主に荒川から東のいわゆる下町が標的になり、一晩で20数万戸の家が焼かれ、10万人もの死者が出た。足立区にあった我が家の周りも一面焼き尽くされたが、奇跡的に我が家を含めた数軒だけは難を免れたという。
米軍機が飛来すると空襲警報が鳴り、みんなは「防空壕」という、土を掘った壕に避難するのだが、母はある時から「どこにいても死ぬ時は死ぬ。どうせ死ぬなら布団の上がいい。」と腹を決めて、防空壕には入らなかったそうだ。
だから大空襲のその日も、周囲一面が火の海になっている光景を家の中から眺めていたそうである。
空襲警報が出ると普通の家では主(あるじ)が飛んで帰ってくるが、父は警察官だったのでこういう時こそ外に飛んで行くのだそうで、空襲を受ける時は大抵母と私だけになったそうだ。
この大空襲後間もなく、母と私は父方の生家の水上町に避難(疎開)し、その5ケ月後に終戦を迎えた。
東京の空襲は我々の疎開後も終戦まで続き、疎開から帰ってみると辺りは焼け野原で、先にあげた我が家を含む数軒だけが立っていたという。
生まれたばかりで私には何の記憶もないが、今から思えばよく生き延びたものだと思う。
お陰でその後60有余年の人生を歩ませてもらっている。ありがたいことだ。