二日か三日前のテレビで大分名物の食べ物が紹介されていた。昨日(28日)放映の「男はつらいよ」再放送シリーズは大分の温泉町が主舞台になっていた。
私は40年の会社生活の内、大分は最初の赴任地であり、その後も2回勤務をした思い出深い地である。
さらに言えば家庭を持ったのも大分であり、3人の子どもが育った時期も大半が大分であった。
大分勤務の思い出として、少し前(10月17日)にも「思い出してもワクワクする釣りの話」というタイトルでブログ投稿したばかりなのだが、今回は釣り魚を除いて思い出に残る食べ物の話を綴る。
大分の食べ物で全国的に知られているのは①関サバ・関アジ②カボス、それに最近都会で知られるようになった③とり天くらいであろうか。
大分県民としては、他に④椎茸の「冬菇(どんこ)」⑤だんご汁(但し県民は「だご汁」と言う)、⑥やせうま、⑦りゅうきゅう、⑧城下カレイ・・・などであろうし、⑨地獄蒸しもPRしたい食べ物だろう。
①関サバ・関アジは豊後水道の速い海流に揉まれて育ったプリプリの肉質が特長で云々・・と説明するまでもないブランド魚(うお)であり、②カボスは四国徳島産のスダチと混同されることもあるが、香味・酸味を利かす柑橘である。
③とり天は私にはブランドになるほどのものと思えないが、全国チェーン化されて県民食の枠を超え始めた。
④冬菇は肉厚の椎茸で、出汁(だし)用としてではなく歯応えのある椎茸として、私は大好きである。⑤だご汁や⑥やせうまは戦後・食糧難時代の「すいとん」の変形バージョンと言える。
⑦りゅうきゅうは魚の切り身を醤油や味醂などのタレに漬け込んだものをご飯にまぶして食べる丼物である。
⑧城下(しろした)カレイは日出城(ひじじょう)下の海岸に沁み出て来る冷たい水の中で育った、身の締まったカレイで刺身が旨い。⑨地獄蒸しは野菜・魚・肉などを籠に入れて別府温泉の吹き出す蒸気で蒸して食べる料理である。
以上はざっとの説明だが、最後に私の特別の思いがあるフグを取り上げたい。
フグは承知の通り、肝が美味しいのだが肝には人が死ぬほどの毒がある。そのため調理の免許が必要となり、その内、都道府県単位で順次肝を食べることが禁止になった。ところが、これはオフレコなのだと思うが、ある時期まで大分のある市内ではフグ刺しに肝を添えて出す割烹が少なからずあった。私が工場にまだいた時も、または東京からお客さんを工場に案内する時はそういう店で接待して大変喜ばれた。
さらに、そういう店の一つが銀座の外れに支店を持っていることを聞き、食通の客を連れて行って隠語で「アブラ出してくれる?」と頼んだ。勿論客は大喜び。
「肝は喰いたし、命は惜しし」と言われたフグ・・・大分勤務のお蔭で私はフグの肝を何度も食べさせてもらったのである。
母が不帰の旅路に就いた。18日未明に息を引き取り、昨日(22日)告別式を執り行った。享年103歳。
私は大学時代までは都内の実家で両親・弟妹と暮らしたが、社会人になると同時に東京を離れ、研究所のある九州の工場でスタート。その後結婚して退職するまで社宅を転々としたため、家の方は弟家族が両親と暮らしていた。
母は97、8歳くらいまで一家の台所に立っていた。100歳の誕生祝いも孫・子20人近くが実家に集まって食事会をすることが出来た。
101歳の時に近くの介護老人施設に入所、そこが終の棲家となった。200数十人いる入居者の最年長だったと言う。
告別式は母の遺言により近親者だけの家族葬とした。20年前に父が亡くなった時には多くの弔問客が押しかけた(主には私の会社や取引先の義理上の参拝)ので、母はそれを嫌ったのであろう。
身内だけと言っても、私ら4人の子と11人の孫、17人の曾孫がおり、それぞれの配偶者まで含めると(参列できない者を除いても)かなりの人数にはなった。因みに私が最年長者であることは始めの方の文脈から分かるかと思う。
母の出身地は新潟県南魚沼郡塩沢町字君沢という所である。雪深く、昔から美味しいコメの産地として知られる。
今では「魚沼産」のコシヒカリとして名が通っているが、更にその中でも「塩沢農協産」の人気が高い。その塩沢町に住む知人から聞いたところによると、塩沢産のなかでも「君沢」の米が一番美味しい・・・と。つまり母の里は日本の米の産地の頂点に立つということになる。
母の生家は江戸時代にその地の庄屋であった。江戸時代の身分制度では武士にしか許されなかった苗字・帯刀が「庄屋」には許されたとのことだが、母の生家に遊びに行くと刀や槍が残っていた。
また生家の裏手にあるお寺の、小高い境内から眼下に広がる一帯の田畑が生家のものであった、と聞く。第二次大戦後の農地改革により一定の広さを越える田畑は没収され、小作者などに割譲された。
更に私らの代になると、家を継いでいた従弟は農作をやめ、錦鯉の養殖などに手を染めていた。
母は第二次大戦時の軍需産業支援の国策に応じ、集落を代表してか上京した。そしてそこで警察官だった父と出遭った。父は群馬県利根郡水上町湯檜曽という水上温泉群の小さな温泉町の出身であった。私はこの父の生家が大好きだった。山合いの保養向きの静かな温泉地で、祖父母に可愛がられ、同じ年代の仲良しと川遊び、山遊び、スキーにいそしんだ。
話を元に戻して、父と母からは二人の馴れ初めの話など一度も聞いたことは無かったが、お喋りな伯母(母の義姉)から「お母ちゃんがお父さんに惚れてね、親からはどこの馬の骨とも分からない男との結婚を大反対されたんだけど、押し切って結婚したんだよ」などと聞かされた。
男女の登場のシチュエーションは違うけれど、父の家から上越線に乗って国境の長いトンネル(清水トンネル)を抜けると母の家に続くことから、川端康成の小説「雪国」を連想するのである。
2010年4月30日の夜、私は中国のタクシーのラジオから流れ来る「昴」を聞いた。言わずと知れた日本の歌手谷村新司の大ヒット曲である。それは翌日から始まる上海万博の開幕セレモニーに招かれた谷村新司が歌っているのであった。
私は「昴」の曲が大好きである。宴会のカラオケで自分が歌うこともあったくらいなのだが、異国で聞く生放送の「昴」にはジーンと来た。タクシーの運ちゃんは私が日本人と分かったわけではなく、そのラジオ放送は自らが聴いていたのである。
因みにその当時私は、山東省維坊市にある山東経貿学院という3年生の大学で日本語教師を勤めており、中国のゴールデンウィーク(労働節を中心とする連休)を利用して青島市に来ていて、連休で帰省した教え子に観光や食事などの案内をしてもらっていた。それはホテルへの帰りのタクシーの中であったのだ。
その谷村新司さんが昨日(10月16日)亡くなった。今朝の新聞のテレビ欄を見ると、午前中の民放各社がこぞって特別番組を組んでいる。朝テレビをつけたら早速その一つの番組にずっと見入ってしまった。
番組では谷村新司が中国では上海音楽学院という大学での教授を務めていたことを報じていたが、私もそれは知っていて、日本だけでなく中国でも人気・人望のある歌手が74歳で逝ってしまったのだ。
昨日(7日)の朝日新聞「ひと」の欄に『チヌ釣り愛好会会長を務める車いすのセミプロ釣り師』という方が紹介されていた。
仕事中の事故で下半身不随となったが「釣りなら手があればできる」と新しい夢に据え、中でもチヌ(クロダイ)釣りに狙いを定めた、と紹介されている。
私は小学校時代に近くを流れる荒川の支流や池でフナ釣りくらいはしたが、成人するまで釣りを趣味とすることはなかった。
それが社会人の第一歩が大分県南部にある工場内の研究所であり、工場が面する入江を始め県南部一帯の海は九州でも海釣りのメッカであった。工場には釣友会があり、すぐそれに加入し、釣り船に乗って海釣りの趣味がスタートした。
船釣りでは主にタイ、アジ、イサキ、カワハギ、キス、カサゴ、タチウオ、イカなど、突堤釣りでチヌ(クロダイ)、メバル、投げ釣りでキス、カレイなどが釣れ、釣りの目的としない、いわゆる「外道」と呼ばれるものとしてウマズラハギ、ウミタナゴ、ベラなどが釣れた。もう本当に魚種に富んだ海域で、一年中何かが釣れる海の百貨店であった。
この中で一番珍重される魚種はチヌであろうと思う。新聞に登場した方も「チヌ釣り愛好会会長」とある。私は港の突堤からのチヌの夜釣りを始めたが、最初の日はボーズ(何も釣れず)で帰宅したら家内から「本当に釣りに行ったの?いい人の店に飲みに行ってたんじゃないの?」と皮肉られた。2晩目は見事40㎝超の収穫で、その後それを越えるチヌを釣ったことはついぞ無かった。まさに「ビジナーズラック」である。
海釣りには危険も伴う。釣友会の釣り会では船が暗礁に乗り上げて浸水を始めたり、同じく暗礁で舵が折れて全く方向のコントロールがつかず海上をさまよったこともある。いずれも船上の全員の顔が真っ青になった。
島から通っている私の同年の従業員にして工場内では最も海域の地形に詳しいことで知られる釣り友と2人でイカの夜釣り行った時、濃霧に巻かれて灯台の明かりが全く見えなくなり、真夜中の海で夜明けを待った。(当時、小舟には方向計など付けていなかった)
そのほか、沖釣りでヒヤリとした例は数多くあったが、それで「もう釣りはやめよう」と思ったことは一度もなかった。
さて釣って来た獲物だが、家内はどれも嫌がることはなく、むしろ喜んで捌いて食卓に載せてくれた。中には奥さんが生臭い魚に触るのもイヤで、釣って帰っても料理をしてもらえないという釣り仲間も少なくない中、私はその点幸運であったと思う。
次世代の地方都市の交通機関として期待を受け、8月に開業した栃木県宇都宮市のLRT。
LRTは「Light Rail Transit」の略で、低床路面電車である。都市部の目抜き道路を自動車と共生しながら走行し、乗り降りの際のステップがなく、列車のようなプラットホームを必要としない。
そうした交通機関として脚光を浴びての開業であったが、今朝の朝日新聞が開業一ケ月の宇都宮市を取材した記事を載せていた。
記事の中身は省略するとして、私はたまたま8月上旬に宇都宮への出張があり、早速乗ってみたのだ。まあ一駅を往復しただけなのだが、軽快感があった。ただ、都電や各地の市電とどう違うかと問われると明快な答えはない。
この宇都宮市より17年も前から富山市がLRTを走らせているのを知っており、それにも乗っている。
富山の場合は富山駅から日本海側の岩瀬浜までのJR線(のちに富山地方鉄道に移管)の廃線鉄道敷を利用し、市街地と繋いだものである。5~6年前に私はそれを往復した。実はその沿線に自分の勤めた会社の工場があり、出張でよく乗った路線を懐かしんで乗ったものである。
写真は宇都宮市(左)と富山市(右)のLRT。いずれも低床車両の2両連結である。