フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

慰安婦問題で日韓首脳合意/日本語教師シリーズの終わりに

2015-12-29 12:16:09 | 日記

   年末によいニュースが届けられた。日韓関係の大きな障害になっていた慰安婦問題の解決に向けて両国の首脳が合意したことだ。形は外相会議での合意であるが、両国の関係者が水面下で折衝を重ね根回しをして来た成果であろう。直近の韓国司法の2件の判決で、韓国政府の”雪解け”気配がしていた。しかし、傲慢さが目立つ安倍首相と狭量な女性政治家と映る朴大統領が歩み寄ったことは大きい。東アジアの隣国同士、いがみ合っていてもよいことは一つもない。両国とも国民の間に割り切れない感情が残ったり、評論家の斜に構えた論評もあろうが、これから得られる双方の利害を考えれば利益の方が遥かに大きいはずである。 今日の新聞で知ったのだが、安倍首相の祖父・岸信介元首相と朴大統領の父・朴正煕元大統領は共に日韓国交正常化に大きな役割を果たした・・・というのはあまりの偶然なのだろうか。

   過日の朝日新聞に『中国人の日本語作文コンクール』についての記事が載っていた。作文の方は約4750本もの応募があったそうなのだが、「約100万人が学んでいるという中国での日本語教育。複雑さを増す日中関係の中、学生たちと日本語教師はどんな思いでいるのだろうか。今年で11回を迎えた『中国人の日本語コンクール』の受賞者と指導教官に話を聞いた」とある。その中で「中国にいる日本語教師はただ教えるだけでなく、朝から晩まで学生と一緒に過ごすことが多い」、「学生にとっては先生イコール日本だ」、「歴史問題などで日中関係が緊張すれば大変な立場に立たされる。多くの教師が地道に仕事をしているが、その苦労は大きい」と報じている。

   私も2008年から10年にかけて中国に滞在して日本語教師を勤めたが、上記の記事に思い当たることが多い。しかし、幸いなるかな苦労を遥かに超える喜びや楽しさを味わせていただいた。そしてさらに帰国後までその余韻に浸ることもできた。それは前号までの『日本語教師』シリーズで綴って来た通りである。日本語指導の経験はない、中国語は分からない、中国に一人の知り合いもいないという「ないないづくし」でスタートした日本語教師生活だが、結果としてこれほどエキサイティングでかつ手応えがあり、充実した月日を送らせてもらって、そのめぐり合わせに感謝をしている。

   なお『日本語教師』シリーズは[中国滞在記-北京編]37回、[同-山東省編]85回、[帰国後編]26回、延べ148回の投稿に及んだ。それと別に当時の教え子や中国人教師との再会を求めて中国を訪問した旅行記も15回を数える。それほど思い出が多く、得たものも大きかったと言えるのである。

   季節折々の花を紹介して来た[今日の花]の連載は四季を3巡してしまい、新機軸として始めた[日本語教師]シリーズだが前号を以て終わりと致したい。また先日書いたように前のパソコンが故障した後、WindowsのOSあるいはOfficeのバージョンが変わったためなのか現在ブログ作成が今まで通りには行かずに困惑している。この問題を解決しない限り新年からのブログ投稿を再考せざるを得ない状況であるが、 取りあえず年内最後の挨拶をさせていただく。「よいお年を」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌舞伎の「四谷怪談」を観る/紅白の出場者

2015-12-26 15:08:44 | 日記

   新しいパソコンとの苦闘がまだ続いている。年賀状の投函は終えたものの、大掃除や実家の母への届け物(というよりもらう方が多いのだが)など年の瀬は何かと多用でせわしないのに、頭の中はパソコンの難儀との板挟みである。痛めた右手首の治療も途切れがちになっている。

   そんな中だが一昨日は家内と国立劇場に行った。3ケ月続きとなる歌舞伎観劇で、今月の出し物は『東海道四谷怪談』。誰でも知っているおぞましい形相のお岩の幽霊話だが、赤穂義士の討ち入りを模した『仮名手本忠臣蔵』が背景になっていることを今回初めって知った。演目を知った時に何故冬に怪談を?と思った不明を恥じた。なにせ私の趣味の一つ講談では「夏は怪談,年末は義士」が定番になっているいるものだから・・・。松本幸四郎・市川染五郎親子の出演で、特に染五郎が一人五役をこなし、早変わりや戸板返しなどの妙技を見せた。

   大晦日恒例のNHK紅白歌合戦の出演順が発表された。もう20年も前からかずっと感じていたのだが、紅白のテレビを観ても知らない出場者が非常に多い。特に、こんなのあったっけと思うようなグループが出場何回目とか書いてある。私が流行に疎いことは自認しているが、それにしても”今浦島”の気分である。そこで新聞に載っていた今年の出場者51組を分けてみたら、A(名前も顔も知っている)=26組、B(名前は知っているが顔は知らない)=9組、そしてC(名前も顔も知らない)=15組であった。まあ半分くらいは知らない勘定である。何せ自分より年長の出場者は美輪明宏しかいないのだから仕方がないところであろうか。

 

 [日本語教師の帰国後編]#26出張者の歓迎4(ソン・ソバイ) 

  これまでにいろいろな場面で登場して来たソソ・バイが出張者としても登場。昨年(2014年)7月のこと、用向きは忘れたが社長に同行して出張来日の折、少々東京で空き時間があるとの連絡をもらった。
  朝、上野・不忍池のすぐほとりのホテルに迎えに行くとウーさんという同僚も出て来た。社長は休息する由にて3人で出かけたが、ソンさんは研修生時代にさんざん東京観光をしているので、買い物の案内となった。中国人のお目当てはまず秋葉原である。タクシーを拾ってヨドバシカメラに入ると目移りがするように商品があふれており、私では手に余るので中国人の店員を呼んであとを任せた。この時気がついたのだが家電量販店のはずの店内には化粧品やブランド品などが並んでいるコーナーがあり、外国人(主に中国人)がここでお土産をまとめて買えるようになっていた。なるほど外国人客には便利な店である。日本の土産品は別に街を探して歩き、舞妓の人形とか何か小物をたくさん買っていた。晩には客先との商談があるので遅くならない時間にホテルに送って行って別れた。

【写真左から】 ①ホテルでの再会。左がソンさん、右は初対面のウーさん  ②ホテルから1分ほどの不忍池ではハスの花が真っ盛りであった  ③秋葉原のヨドバシカメラでの買い物。中国人の店員(赤いベスト)にお任せである  ④ウーさんには初めてのお寿司で昼食 

   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パソコンのダウンその後/天皇誕生日に思う

2015-12-23 13:24:21 | 日記

   使用中のパソコンがダウンしたことは前号に書いたところである。昨年家内用に買ったWindows8版のパソコン(因みにダウンしたのは7版)が使い切れずに放置してあったので、これにデータを移して使うことにし昨日移し替えが終わったところだ。さあてそれからが大変。Ofice2013版のソフトにデスクトップとマイドキュメントのデータが移されただけである。それでなくてもIT音痴の私である。自分でには分からないことが山ほど出て来る。昨日はプロバイダーのカスタマーサービスやメーカーの相談コーナー、今回データ移し替えを頼んだパソコン業者に持ち込むなど困惑を極めた。それでも逸失したアプリケーション・ソフトなどをリカバリーするまでには相当かかりそうである。とりあえず少し間隔が空いたブログの投稿に取り掛かっているが、作成画面の表示や写真加工などの勝手がまるで違うので当惑しているところである。

   今日は天皇陛下82歳の誕生日。それに先立つ記者会見で、戦後70年の今年を「様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした」と振り返り、「先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なこと」と語ったそうだ。天皇は高齢を押して戦争犠牲者や災害犠牲者の慰霊施設を精力的に訪ねて 回っておられる。一つには”先の大戦”で日本を不幸と恐怖に陥れることを防げなかった天皇家の贖罪の念を深く持たれていること、またもう一つには皇太子夫妻が自分の代理を務めきれない分までカバーしての行脚と理解している。それに、民間から初めて皇族となられた美智子妃殿下が、やはり健康にご不安を持ちながら常に天皇陛下に寄り添っておられる姿が多くの国民の共感を呼んでいるように思うのである。

[日本語教師の帰国後編]#25―出張者の歓迎3(いくさん)

   いくさんはオウ・イクキンと言い、私の教え子ではない。教え子を研修生として来日させる時にお世話になった人材派遣会社の職員で、彼女自身愛知県で3年の研修生生活を送っている。その時に会社の人たちから「いくちゃん」と呼ばれたというので私は「いくさん」と呼ぶことにしたのだが、教え子並みに親しくしてもらった。そのいくさんが出張で来日した折に、東京まで足を伸ばしてくれて2日間を一緒に過ごした。7月に入り暑い時期であったので日中の観光めぐりには向いていなかったが、一通りの都内めぐりをさせてもらった。復原成った東京駅や浅草、秋葉原の電器街、東京タワー、池袋等々。浅草寺ではちょうど四万六千日の縁日でほおずき市が開かれていて、それを見て楽しそうにしていた。秋葉原では中古のスマホを買いたいというのでソフマップに案内したら気に入ったようであった。宿泊は池袋、チェックイン後近くの居酒屋に入って「こういうのをノミニュケーションと言って、日本のビジネスマンの一般的な交流スタイルなんだよ」と教えた。固より日本で3年間生活をしたので日本の食べ物には馴れていた。東京に着いた最初の食事は蕎麦を希望したくらいである。帰りは小松空港から研修生を率いて帰国するというので小松行きの長距離バスのチケットを取ってあげて、東京駅での夜遅い発車を見送った。彼女とはその後2ケ月足らずして中国で再会することになるのだった。
     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年末にトラブル続き/軽減税率について/澤選手の引退

2015-12-18 10:04:12 | 日記

   年末になってトラブルが続いた。自転車で転倒して右手を痛めたことはすでに書いたが、今でも整骨医に通っていて包帯で巻かれた右手が少し不自由である。折りしも年賀状書きの時期。賀状はパソコンで印刷するものの、宛名は今でも手書きしている。それに必ず添え書きをする。全てプリントという賀状が増えたが、いただいても味気ない。せめてそれくらいは手書きしなければと思うので、不自由な包帯を取ってどうにか年賀状書きを終えたところである。

   それから数日、今度はパソコンがダウンしてしまった。幸いデータは壊れていないことが分かり、また昨年家内用に買ったWindows8版のパソコンが使い切れずに放置してあったので、これにデータを移して使うことにし業者に出したところである。因みにこのブログは家内が使用中のパソコンを借りての投稿なのであり、あと一週間は不自由することになる。

   消費税を10%に引き上げる時の緩和策として、一部を8%に据え置く軽減税率案が政官界の綱引き・権謀術策の末に大枠が決まったようだ。特に政府および与党はほとんどこれを如何に次の参院選に有利に繋げるかしか頭になく、「税制と福祉は一体」とか「財政再建」の理念などどこ吹く風の見苦しい展開。結果として、選挙の時には集票マシーンとなる巨大宗教団体の意向を汲んで官邸が誘導した格好で決着しそうである。これに対してこれまで蚊帳の外だった野党が国会ではどういう態度に出るのだろうか。かくいう私は、権謀術策の経緯はともかくとして軽減対象品目に関しては新聞を除いてほぼ同感である。新聞は大マスコミに対する姑息な媚(コビ)である。

   日本女子サッカー界のレジェンド、日本代表チーム「なでしこジャパン」の象徴である澤穂希選手が現役引退を表明した。今さら説明の必要もないが「なでしこジャパン」のワールドカップ優勝やロンドン五輪銀メダルで日本中を熱狂させたのはこの選手なしでは考えられない。W杯では最優秀選手や得点王に輝き、チームは国民栄誉省を受賞した。
   しかし年齢的にもう37歳、来年のリオ五輪に向けてもう自分のサッカーを貫くのはのは難しいと判断したようだ。昨日の会見では「悔いのない、やり切ったサッカー人生だ」と語った。第二のサッカー人生に期待しよう。

 [日本語教師の帰国後編]#24出張者の歓迎2(リー・アリン) 

   長野で他の2人と研修生活を送った07級生のリー・アリンは青島市の木材加工会社に勤めているが、2013年10月、東京ビッグサイトで開催された木材・木工製品展示会にやって来た。前年のチン・ゲンジエ同様社長の通訳兼ブースでの説明役としての出張である。リーさんの会社は家具用木材や内装・外装の建築部材を製造しており、その対日輸出のための展示会出展であった。展示品は荷物量からか比較的軽量な内外装部材が多かったが、桐は日本では貴重で日本人が好きな木材なので、ブースの中では目を引いて手で触われる位置に置くようアドバイスをした。3日間会期の初日に展示作業を、3日目は撤収を手伝い、両日とも夕方から買い物や東京見物の案内をした。三鷹の我が家から有明のビッグサイトはかなり離れており、それから宿泊先の天王洲アイルに寄って御徒町や新宿などでの買い物、東京タワーの観光をしてまたホテルに送り帰す・・・正直言って少々疲れた。
   その時の答礼もあってか、今年8月には青島で大そうなご馳走をしてくれた。  

 【写真説明】 ①展示会ブースでリー・アリンと ②展示会場の様子 ③展示会を終えてビッグサイトを出るリーさんとショウ社長 ⑤リーさんを東京案内 

   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽生報道パートⅡ

2015-12-16 09:34:40 | 日記

   前号でフィギュアースケートの羽生結弦選手の偉業を取り上げた時は、ネットの文字ニュースやテレビの速報段階で分かったことを基にしての投稿であった。実際の演技はその晩の録画中継のテレビ番組待つことになるのだが、大半の視聴者は既に結果を知っている。なのにゴールデンアワー時間帯に4時間以上もの枠を取って放映。男子・女子の演技を全部合わせても半分で済むはずだから、半分の2時間は時間つぶしなのだ。私も頃合いを見てチャンネルを回したが、やはり羽生選手の演技は緊張の目で観た。それにプラスして、日本の新聞・テレビではほとんど触れない女子のメドベジェワ選手(ロシア)の演技も素晴らしいと思った。一方で浅田真央ちゃんは精彩がなく、試合後体調不良(胃腸炎)を訴えて帰国したようだ。
   ところで競技のあったのは日本時間の13日朝。その日の夕刊と翌日朝刊は新聞は休みであったため、このビッグニュースを新聞が伝えたのは14日の夕刊である。新聞が最も”マ”の悪い時に当った。その間にテレビは各局競ってニュースを流し、ワイドショーで報じた。その中の一つで往年の名選手がコメンテーターとして如何に羽生選手の演技が難しく、信じられないような驚異的得点であるかを解説していた。中継放送でも解説者が絶叫していたが、なるほど解説を聞いて羽生選手の演技の深さがより理解できた。また昨夜の「報道ステーション」に帰国早々のゲストに招かれインタビューを受けていたが、その受け答えにも感心しきりであった。まだ21歳になったばかり、それにしてもすごい選手だ。

[日本語教師の帰国後編]#23出張者の歓迎1(チン・ゲンジエ) 

   研修生の東京案内の紹介を終え、今度は会社の出張で来日した教え子たちとの東京での再会編である。
   2012年の夏、経貿学院08級生のチン・ゲンジエから連絡が入った。東京ビッグサイトで開催されるCFF(チャイニーズ・ファッション・フェアー)に社長の通訳兼説明役として出張するという。チンさんは研修生として北海道で1年間暮らしたことがあり、その間に東日本大地震の揺れと放射能汚染の恐怖の経験をした。帰国後は山東省青島市の衣料品メーカーに勤めていた。私にとっては日本語を学んだ教え子がこうして日本にやって来ることは何にも増して嬉しいことであった。
   9月のCFF初日にビッグサイトに出向いて見本品のブース展示を手伝ったり、客の呼び込みの要領を教えたり、私自ら呼び込みをしたりした。展示会は自社品の販促ではなく、日本のメーカーの下請け生産の受注活動であった。3日目にも手伝いをし、展示会の終了後に東京のファッションの街である渋谷に誘って案内をした。CCFには中国からは100を超える大小の企業が出展し、その多くは団体でやって来て日本国内での移動は大型バスで、そのツアーには観光も含まれていたので、私は渋谷の案内だけにとどまった。 

【写真説明】 ①東京ビッグサイト入口のCFFの看板 ②ブース展示作業中にでチン・ゲンジエ(左)、サイ社長(右)と記念写真 ③CFF会場内の展示の様子 ④渋谷ハチ公銅像前でチンさん(右)と出展社仲間のカンさん(左)    

   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする