学校の夏休みが始まり、千葉から3人の小学生の孫たちが遊びにやって来た。
夏休み中にもそれぞれスポーツ活動などがあり、3日泊まって帰って行った。
学校にあがるようになってからは、泊まりがけで遊びに来るのは冬休み(正月)と夏休みくらいになってしまった。
私も家内も仕事を持っているわけではないが、家内の方は何かとスケジュールが立て込んでいる。孫の来訪は家内の方がより喜び、あれこれ孫の世話を考えるのだが、今回は私の方が孫に連れ添うことが多かった。孫たちだけで親のいない時は私が3人と寝るのも習わしになっている。
来る時は親が車で連れて来たが、帰りは私が千葉まで送って行った。
幸い3人の仲がよく、一緒によく遊ぶので少し疲れはしたものの、楽しいひと時を過ごすことができた。今ちょっと一服したところである。
今日の新聞に目を通すと、女性編集委員による「被災地の子ども 復興で輝きを奪わないで」というコラム記事があった。
敢えて”女性編集委員による”と書いたのは、やはり女性らしい視点が感じられた記事だからである。筆者が被災地の小学校を回ると、子どもの輝きを感じる話に出合うのだと言う。
その例が次のように紹介される。「被災後、朝の読書でむさぼるように本を読むようになった」「午後の授業になると机に突っ伏す生徒が多かったがほとんどいなくなった」「学級の空気が穏やかになり、いじめ行為が途絶えたという話も聞く」「机の中にいじめ言葉を書いた紙きれを入れるいじめが消えた」「心のケアのアンケートに 『一緒にいたくなった』『不安があるから仲良くしたい』と綴っていた」などなどである。
そして「こうした変化は 阪神大震災でも見られた。しかし、阪神の場合はその輝きは学校が”正常化”するにつれて失われていった」という話を紹介している。
私はこれを読んで、人間は生きることの危機を感じる極限に立たされると、精神や思考も根源的なものに立つのではないかと感じる。生きることの危機が立ち去ると、「欲」とそれを追求する「競争」の心が首をもたげるのではないか・・・と。
大変暗示的なコラム記事であった。
[今日の花]
ハス(蓮)
神代植物園では7月上旬からハスの花が咲き出した。
ハスの花は「蓮華(レンゲ)」とも言われ、地下茎は「連根(レンコン)」で食用になる。
蓮根畑で思い浮かぶように、ハスは泥の池の中で育つが、植物園では観賞用に栽培していて、間近でつぶさに観察することができる。
中国ではその美しさだけでなく、泥の中に咲いても泥に染まらない気高さが尊ばれているそうだ。このたび来日した教え子の研修生がそういういわれのハスの花をモチーフにした手製の刺繍を私への土産として持って来たのだが、ある日本人から「縁起のよくない花」と聞かされ、困惑したそうだ。確かに仏教の極楽浄土に咲く花のイメージだが、それだけ尊い花と認識されるべきところを「あの世の花で、縁起でもない」と錯誤した日本人がいたわけである。