フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

中国行きを前に「はのはなし」

2019-05-07 23:39:59 | 日記

  今歯医者に通っているのだが、前号で取り上げた中国訪問旅行で一番の心配が”歯”である。ひと月ちょっと前に左上の歯が痛み出した。この歯にはいわくがあり、いよいよ寿命かと覚悟をした。もう24,5年前のこと、食事中に何かの拍子で激痛が走った。鋭い刃物が歯茎を突き刺すような痛みであった。あとで指で押したり動かそうとしても何ともない。その後も2度3度と何かの拍子で痛みが走ったので歯医者に行ったのだが、原因が分からなかった。歯科医は歯を安静にしてみようと、マウスピースを作って様子をみることにしたりしたが仕事でヨーロッパに出張中、食事どきにまた同じような痛みが起こり、こんな異国で歯医者に行かなくてはならないのかとも思った。
   結局出張中は一度だけで済んだのだが、帰国後しばらくして歯科医が叫んだ。「ああっ、歯にひびが入っている!」。歯が縦に割れているというのだ。割れた半分は根が残っているが、半分がぐらついて、固い物などを噛んだ時にぐらついた方が歯茎を突き刺していたということである。その半分を抜いて残りに補強を被せて残すことにしたが、この時点で歯科医から「根が半分しかないので、持っても3,4年がいいところでしょうね」と言われた。
   その後転勤が続いてまた東京に戻ったが、この間3回それぞれの地で歯科検診があり、いずれも「そう長く持たないから抜いた方がよい」と言われ続けた。しかし、痛みもしないのに抜くのは勿体ないので抜くことは見送って来た、そういういわくの歯が24,5年持って来たというわけである。
   実は5,6年前にも別の歯が全く同じ縦割れして現在の歯医者で治療した。その歯医者は初めの歯を「奇蹟」と言っている。
  それはともかく、その歯が痛んで手で触ってもぐらついているので、もうダメと観念して歯科医に行ったわけだが、検査の結果もう一本根が割れている歯が見つかった。これも「ヤバイ」と歯科医は言う。結局後者の歯を先に治療中で、抜いてもおかしくない2本の歯を抱えて中国に行くハメになっているのである。一時は豆腐料理くらいしか食べられなかった前者の歯だが、現在痛みの方はない。旅行中の無事を祈るのみである。
   因みにこれまで失った歯は、30代に強制的に抜いた親知らず2本と虫歯でポロンと抜けた歯1本の合計3本である。80-20(80歳で親知らずを除く歯20本)は固より私は80-24を目指しているが、何とか達成したいものだと思っている。

 

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改元大連休も終盤に/中国訪問旅行の準備に追われる

2019-05-04 16:57:48 | 日記

    大型連休といっても恐らく史上初めてで最後の10連休になるだろうこの連休。その空前の連休にメディアから特段の命名がなされていない。そこで私は「改元大連休」と名付けてみた。
   例によって高速道路での渋滞の車列が報道番組の映像に流れているが、そんな程度で収まるならニュース性もないのではと思われる。それよりやはり天皇の退位・改元・新天皇の即位に報道が集中し、国民こぞって祝賀ムードに浸っている。4月30日から5月1日に日付が変わる午前零時には渋谷のスクランブル交差点を始め各地でカウントダウンが起きたという。
   平成への改元と新天皇即位の時は昭和天皇崩御の喪に服すことが大優先であって、重苦しくも緊縮の雰囲気であった。様変わりの改元である。いずれにしても、この連休が明けたら新しい御代がそこから始まる。


   中国訪問旅行の出発が1週間後に迫り、その支度に追われている。
   中国で日本語教師を勤めて帰国後4回目の訪問旅行なので、今さら戸惑うこともなかろうと思うが、スケジュールづくりと手土産の準備に頭を使う。誰と会えるか私自身が各人に連絡を取り、日本での日程と睨みながらスケジュールの骨子を作る。それが出来たら往復のフライトを予約し、骨子をベースに細部を埋めてスケジュールを固めて行く。
   訪ねるのは北京及び山東省の4都市で、期間は1都市2日ずつの7泊8日である。中国内は新幹線移動になる。新幹線網が急速に発達したので前に比べれば楽になったが、以前は長距離バスでの移動があった。会うのは教え子と同僚だった中国人教師たち。教え子は女子が多く、年齢的に27歳から30歳になって结婚、出産など環境が大きく変わる年代に来ている。過去3回は会っていたが今回は丁度出産予定日辺りだったり、お産後実家に帰省している者もいる。そういう中で会う日時を決めて行った。今のところ教え子10人、同僚教師などが8人となっている。
   勿論全員と食事を共にする。これが楽しみである。私の希望も取り入れてくれて、それぞれが遠来の客に工夫をしてくれるのだ。スケジュールと共に頭を使うと書いた手土産。年齢、男女、既婚か未婚、子どもの年齢などによって余り金額の張らぬものを考えなくてはならないし、荷物になるので嵩や重さも考慮する必要がある。「中国人に人気の日本みやげ」なんていうネット記事も覗いたりした。あと数人分の品定めが残っている。

 

 

 

 

 

 

 

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平成時代が終わり令和の世に/昭和から平成へ、その時私は

2019-05-01 09:56:04 | 日記

   昨日2019年4月30日、天皇陛下の退位を以って1万1千日余にわたる平成の時代が幕を閉じた。皇太子徳仁親王が今日午前0時に新天皇に即位し、元号が令和に改まった。既に天皇存命中の退位が決まり、皇位継承の諸準備や国民の心の準備が整っていたが、昨日今日は改めて平成時代の振り返りと新天皇の人となりや令和の世への期待などでテレビも新聞も埋め尽くされている。
  
   さて、昭和天皇の崩御と”平成”天皇の即位の時私はどうしていたのか、当時のことは長く続いた天皇のご容体報道と例の小淵官房長官の新元号「平成」の記者会見以外ほとんど覚えていない。今朝、保存してある毎年のビジネス手帳を引っ張り出して、昭和64年1月の当日前後の日誌欄を見てみたが、「天皇陛下崩御」とその翌日「新元号は『平成』に」と手短かに書いてあるだけだった。
   地方の工場勤務中であった当時を振り返って少し日誌をたどってみたら、土・日の休みは一日中ではないが大概製造現場に足を運んでいた。工場長の立場であったが、新製品などの生産が安定していなかったことと社宅から自転車で10分くらいの距離なので、つい現場を見ないと落ち着かないようになっていた。私自身現場管理の職歴があるし自分の目で生産状況の把握は出来たが、現場の連中にとっては迷惑かというとそうでもない顔つきだったし、それからゴルフの打ちっ放しや釣りなどを楽しむことも出来る工場暮らしであった。

 

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