フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

高名な書家になられた上松先生

2015-04-30 12:40:34 | 日記

   昨日、ある美術館の特設のコーナーに展示された特大の一文字の書の作者を見て驚いた。薄墨で大書されたその文字は何という字か分からないが、作者紹介に上松一條とあった。何と私の小学校4年の担任の先生である。本名は常一といい愛媛県の生まれであった。経歴によると2005年に80歳で亡くなったとあるので、逆算すると当時30歳ということになる。もう60年も前、しかも1年間だけの担任だったがお顔や声はよく覚えている。当時から書家を目指していた。生計のために小学校で教鞭を執っていたのであろう。自宅で書道塾を開いていて、私は習わなかったがクラスメートの何人かは通っていた。授業の方は厳しかった。時に教壇からチョークが飛んで来た。昔はそんなことは珍しくはなかったが、今なら問題教師であろう。 芸術家肌ゆえか図画の指導はユニークで、絵の具そのままの原色を使うことを嫌った。例えば空は青、木の葉は绿で幹が茶色といったような。「よく見ろ。(自然の色は)そんな色じゃないだろう。」と言う。 ある日校外で「はな」をスケッチして来いということがあった。当時いたずら好きだった私は、友達の鼻と垂れている洟(はな)を大きく画いて出した。怒られると思いきや秀作として壁に張り出された。色使いがよいということであった。
   小学校卒業後その消息は分からなくなったが、母から書道の偉い先生になっているみたいだよ、と聞いたことがあった。それからウン十年、その作品に出遭ったのだ。ウン十年も消息を聞かなかった先生の書が美術館の特別な場所を飾っていた。それで帰ってからインターネットで検索してみたら高名な書家になられた様子が伺い知ることができた。書道界の重鎮で日本書道専門学校の校長などを歴任されたと紹介されている。
   またその一生は『書に尽くし、書に生きた人。上松一條の生涯は、書に捧げるためのものだったといえるだろう。若い頃は毎月半紙を2000枚、全紙を100枚使い切るほど研鑽を重ね、高い評価を得ても決して前へ出ようとはせず、粛々と自身の書と向き合う姿は、多くの弟子たちにとって書に限らず、人として生きる手本となっていた。』と評されている。
   たった1年の出会いだが思い出が貴重なものになった。

        ←小学校4年の遠足の記念写真(部分)
     中央が上松先生 校旗を持つのが私

 

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#48-野菜博覧会

   「世界風箏大会」の1週間後の4月末、学校が我々外教(外人教師)を「寿光蔬菜博覧会」に連れて行ってくれた。
   寿光というのは濰坊市の一部になる町で車で小一時間の所、辺りは山東省の一大野菜生産地に近い。蔬菜というのは野菜のことである。そこで開かれる蔬菜博覧会は中国一の規模で、濰坊としては風箏大会に並ぶ大イベントなのだそうだ。それで学校の方で外教を博覧会に招いたという訳なのだ。会期は1週間から10日くらいあるのだが、連れて行ってくれたのは運動会(その日と翌日)の午後、ソン事務主任が車で案内してくれた。運動会があるので相棒のモリキさんは行かず、英語科の2人と韓国語科の1人、合わせて4人の教師であった。
   広い会場には大きな展示館が幾つもあった。建物毎に展示カテゴリーが異なる。珍しい作物や新しい栽培技術、作物による装飾的な作品等々である。例えば写真①のアーチや装飾、②の柱のようなオブジェなど、作物の色と形を巧みに組み合わせた作品が溢れていた。②を見れば分かりやすいが上部の赤い部分はトマト、下の黄色いところはグレープフルーツ(のような柑橘類)である。①のレンガのようなものや黄色い装飾部分は何を使っているか分からないが、近くによって見ると「ヘエ~」と感心する作品がいっぱいであった。③は重さ200キロの巨大カボチャで今回出展の目玉のようであった。
   因みに写真①左から韓国語科の趙先生、私、英語科のケイトとケリーである。ソン主任を含め5人の共通語は英語になった。 

          
                  ①                   ②                   ③

   ところで何故ここで中国最大の蔬菜博が開かれるかというと、冒頭部分でも書いたがその辺一帯が中国でも有数の野菜生産地になっているからだと思う。下の写真は同じ濰坊市で寿光の隣り青州地方の野菜栽培のビニールハウスの光景である。別の日に列車の窓から撮ったものだが、行けど行けども平地にビニールハウスが続いていた。これは凄いと思った。とても日本の農業の規模とは比較にならない。
   日本は中国から野菜およびその加工品を大量に輸入しているが、地理的にも近い山東省が最大の供給地になっているのである。日本の食品加工企業の進出も多いと聞いたが、そういうことがなるほどと頷ける光景である。

            

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地方選での投票所で

2015-04-27 12:39:10 | 日記

   昨日の統一地方選挙第2部、前々号の話題に取り上げたように我が町三鷹でも市議選と市長選が行われた。市長選では後継者の突然の病で急遽続投に踏み切った現職が余裕で4選された。市議選では私の支援する候補が何とか2期目の議席を与えてもらった。妙な話題になった「〇また」氏も当選された。
   ところでこの選挙で、昨年末の総選挙に続いて「投票立会人」を勤めた。
   その時にも書いたように、立会人の任務は不正投票の監視・抑止にあると思っていたが、「主として投票事務の執行を監視し、選挙の公正を確保すること」と知った。つまり、有権者の投票行為を監視するのではなく投票管理者の事務の公正な執行を監視することなのである。朝7時の投票開始から夜8時の終了まで11時間、3人の立会人が時に交代しながら休憩する以外立会人席に座る。その間ほとんど途切れることなく有権者が投票にやって来た。その数約2,600人であった。まあ問題が起こるようなこともないと思うが、有権者の手前威儀を正して座っていなければならない。
   ところが今日は私の視線の先に何とも可愛い女性がいて不謹慎ながら頬が緩んだ。私の席の正面7~8m向こうに2つ目の投票、市長選の投票用紙交付係の席があり、2人の選挙管理員の1人は年齢30代後半ないし40歳くらいか。おかっぱ頭で小作りの顔、肌は少女のようにつるつるしている。その容貌が可愛らしく、有権者に向ける笑顔がまた可愛い。私の立場としては投票所内にくまなく目配りをしなくてはならないが、真正面にいるわけだからしょっちゅう目に入る。そんな訳で目尻が下がり頬がゆるゆるだっだのだが、彼女の立ち姿をみて今度は驚いた。小顔に似合わず背が高い。我々の若い頃には「八頭身美人」という表現があった。身長が頭の8倍くらいある(日本人にとっては)抜群のプロポーションの意味だが、彼女の場合は9頭身か10頭身と思われる程でまた目を見張った。前回大声を上げて投票所の空気を張りつめさせたクレーマーが、今回は声も荒げず投票もせずに3,4分で退出したし、その女性のお蔭で一体私の任務は何だったのか笑われそうな一日になった。尤も他人の目からは全く気付かれなかったことと思うが・・・。

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#47-凧揚げの町濰坊

   濰坊市は「凧揚げの町」として世界的に知られているのだそうだ。1984年4月、アメリカ人の提言に基づいて第1回坊国際凧揚げ大会を開催して以来年一度の国際凧揚げのイベントが坊市で行われるようになった。さらに87年に「世界の凧揚げの里」に選ばれ、国際凧揚げ連合会の本部が坊市に置かれている。凧は中国語で「風箏」というが、濰坊市の中心部に世界風箏博物館がある。市内を流れる白浪河のほとりに建つ豪壮な建物だ。 館内には世界中の凧が展示され、凧の歴史のなどを知ることこともできる。因みにその昔は日本の狼煙(のろし)のように通信手段として軍事的に利用されたらしい。 濰坊市の土産品として凧およびミニチュア凧セットが人気なのである。私も帰国時に日本への土産に買ったり、学生からもらたりした。   
  
   写真①世界風箏博物館の全景  ②館内中央の吹き抜けには世界の凧が立体展示してあった ③日本の凧展示物の一例  ④地元中国の変わり凧
   
  ①世界風箏博物館      ②吹き抜けの展示室   ③日本の凧の展示品    ④中国の変わり凧 

   「濰坊の春は2回風が吹く」という言葉があるという。めったに風が吹かないという意味ではない。潍坊の春は風がよく吹く。春先になると吹き始め、なかなか止まずに吹き続ける、つまり風の切れ間がほとんどないという意味である。その風こそが毎年4月に国際凧揚げ大会が行われ、「凧揚げの町」と呼ばれる由縁なのかもしれない。 2年生1班のダイ・フィフィらのグループがその凧揚げ大会見物に連れて行ってくれた。会場は市の郊外の小高い丘の上であった。世界から様々な凧が揚げられており、日本からも浜松市など凧揚げで知られるチームが幾つも参加していた。私はその中でも中国の飛行機凧に釘付けになった。ジェット戦闘機にも似た形の凧の糸を引いたり緩めたりして上昇・下降・旋回など自由に操る。それを4~6機編隊で操縦しアクロバット飛行をするのである。凧にはうなり仕掛けがしてあり、ブーンブーンとリモコン飛行機のような音を立てて飛ぶ。それをチームワークよろしく操縦する様は圧巻であった。動画を撮っているのだがそれを見せられないのが残念である。

    
     学生たちと記念写真      世界各地の凧が空を舞う    圧巻だった飛行機凧の編隊飛行

  

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中国舞踊の公演/井の頭公園、今  

2015-04-24 22:05:10 | 日記

   先日、上野の東京文化会館で行われた「神韻}という中国の古典舞踊や民族舞踊を中心とした公演を観に行った。購読紙の朝日新聞に大きな広告が載り興味を持ったので、そのことを日本にいる元研修生の中国人に話したら彼女も既にチケットを買ったという。ニューヨークを拠点として国際的に活動している中国人の芸術団で日本でも毎年公演を行っており、彼女はそのボランティア・スタッフなのだ。西洋音楽と東洋音楽を融和したオーケストラの演奏をバックに、あでやかな衣装をまとったダンサーが見せるしなやかな舞いやアクロバティックな踊りは見応えがあった。 
   実は神韻芸術団は、中国では非合法扱いをされている「法輪功」という気功集団の国外に逃れたメンバーたちが立ち上げたもので、中国国内では公演ができない。 舞台には中国共産党政府の弾圧や古典芸能を破壊した文化大革命への批判精神が込められていた。
   公演の後、彼女お薦めの池袋の中国料理の店に案内をしてもらった。今池袋の西口から北口にかけては中国人街の様相を呈しているが、その店はこじんまりした大衆的な店で中国人が薦めるだけあって日本の”中華料理”とは別物であった。ちょっとその辺の中国料理店を探訪してみたくなった。

   6日前の前々号で桜前線の後、街に溢れる花のシーズン到来の話題を載せたが、井の頭公園では今萌える新緑と色とりどりの花の競演が楽しめる。公園内のサクラ(染井吉野)の古木を始め、ケヤキやコナラといった武蔵野の雑木林などの若葉が目に爽やか。また目を転じれば数種のツツジや様々な草花が散歩道に彩りを添えている。以下写真にて     

     
      ↑ 今咲いているツツジ(躑躅)いろいろ   ↓ 野草の花いろいろ

     
  タンポポ       シャガ      ニリンソウ     ハルジオン    オニタビラコ      シラユキゲシ

 

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#46-中国の結婚式

   3月末の日曜に応用外語学部事務主任のソンさんの結婚式があり、モリキさんと私も招かれた。これが中国で2回目の結婚式である。3月29日投稿の#37で紹介したように、日本でいう大晦日の12月31日に日本語科のトー先生の結婚式に出席したのが始めであった。それからずっと後のことになるのだが、期間延長をした11月には日本等への研修生派遣会社の女性部長オウ・イクキンさんの結婚の時にも招かれ、都合3回結婚式を経験した。
   いずれもホテルのパーティー会場で行われ、出席者は2,3百人ほどであった。式は専門の司会者によって進行され、ウェディングマーチに乗って新郎新婦が登場して、結婚指輪を交換したり、上司などの祝辞があったり、仕掛けやセレモニーなども日本と同じようなものが多かった。
   日本と全く異なるのは、招かれた者は全員普段着であること。会社や学校に行く格好なのだ。またお祝いのお包みは何と100~200元(当時で1,300~2,600円位)という。しかも新郎新婦本人に直接渡すのであった。お包みがそういうものだから、逆に引き出物はなくお土産に子供向けのアメが配られるだけであった。中国の結婚式参列は日本のように肩肘張らず、実に気が楽である。
   祝宴では料理が円卓に乗せ切れないほど次々と出て来る。男どもは同席同士が白酒で乾杯(カンベイ)!乾杯!である(一人一人と杯を交わす)。 初めてのトウ先生の時はどうしたか覚えがないが、ソン主任の時はバオ先生宅にお呼ばれして白酒で酔いつぶれた後のことであり、適当に乾杯をコントロールした。お酒に弱いモリキさんは結局酔いつぶされてしまった。 
   3回目となる結婚式は時期としてはまだ先の話だが、結婚式の話題の一つとしてここで取り上げることにする。この時はオウさんの会社の上司・同僚だけは個室で、どういうわけか私もその一員に加えられ、ソン社長の隣りの席に座らされた。式典を見ることもなく祝宴が始まり、例によって「乾杯!乾杯!」になるが、皆さんは”来賓”に当る私の方に向けて代わる代わる「乾杯」をしてくれる。これはヤバイと思って途中からビールでの乾杯に替えさせてもらってしのいだ。それでも一気飲みの連続で結構きつかった。
   オウ・イクキンさんについては、後日改めて登場をしてもらう予定である。

          
  トー先生の結婚式で お馴染みの演出    同、日本語科教師たちと記念写真を 

             
                    ソン主任の晴れ姿           客席の様子、みんな普段着姿

         
   個室でオウさんの会社の上司・同僚と   式後新郎新婦と記念写真(左がソン社長)

 

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選挙戦、ネット上で変な話題/聴導犬

2015-04-21 22:10:11 | 日記

   統一地方選の”第2部”が幕開けして、選挙戦真っ盛りである。我が三鷹市も市長選及び市議選が行われている。市長選では現職が退任し副市長が後を継ぐことが確定的だったが、告示直前で病に倒れてしまった。そのため急遽現職が退任意向を撤回して続投に名乗りを上げるという思わぬ展開になった。市議選では定数28に対して31名の候補者による激戦模様であるが、今妙な騒動が起きている。市内の有権者の間でというよりインターネット空間での話題なのだが、〇俣美恵子候補の読み方についてである。同候補は選挙ポスターも公報も選挙カーも全て平仮名表記である。それが余りにも変な読み方になると話題なのだ。具体的に書くのは憚られるがネット上に飛び回っているので敢えて書くと「〇またみえこ」となる。私も今日教えられてこんなことを取り上げるなんて・・・と恥じ入る次第である。   
  
   今日は「地域ケアネット」の我が地域グループによる高齢者向けサロンが開催され、スタッフとして参加した。月一度の行事である。40人ほどの来場者にスタッフ12、3人。シニアチームによるチア・ダンスの披露と来場者参加、お茶を飲みながらのグループ懇談、健康講話に歌声・・・というプログラムだった。私がグループ懇談に加わった班(6人)の中で断トツの年配者は95,6歳で車椅子。耳がちょっと不自由であったが、手話通訳を交えての話で「聴導犬に手話を教える(世界だか日本だか)初めての人間」と仰っていた。盲導犬ならぬ聴導犬、そういうのがあるのを帰宅してネットで調べて初めて知った。手話が分かり耳の不自由な人に寄り添う聴導犬、その犬に手話を教える人。まだまだ知らないことがいっぱいある。勉強になった。

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#45-家に招かれ酔いつぶれる

   後期の授業が始まった週の土曜、同僚のモリキさんと共に日本語科主任教師のバオ先生のお宅に招かれた。ご主人は顔を知っている程度であったが、経貿学院の外語学部教務室の職員である。ここで私はしこたま中国の”白酒(バイチュウ)”をご馳走になって酔いつぶれてしまった。生まれて初めての経験と言ってよい。
   家は新しいマンションで内装はほとんどバオ先生の注文によるとかで、なかなかにシャレている。客を招く時の中国の流儀で家の中を案内された。それから分厚い結婚アルバムを見せてくれた。これでもかと様々なポーズの写真が満載。普段余り愛想のないバオ先生とは別人の感がした。当時まだお子さんはいなかった。料理は全てご主人が作っていた。中国では共稼ぎが普通だが、料理も男性が作ることはごく普通なのだそうだ。
   料理が出来上がったところで4人揃ってテーブルに。初めビールを一杯いただいた後、白酒を奨められた。白酒はコーリャンを原料とする蒸留酒でアルコール度数は45度。モリキさんは酒は弱いので、私とご主人とで乾杯(カンペイ)を交わした。中国流の乾杯は完全に飲み干さなくてはならない。日本のぐい飲みくらいな杯で一気に飲み干したら注いでもらう。杯をちょっと合わせてまた「カンベイ!」、これを何度も繰り返す。白酒は非常に口当たりがいい。上等なものを用意してくれたようだ。私は人と飲んで酔いつぶれたことはない。酒もうまい。たちまち瓶(720ml?)が空いて、2本目を奨めてくれた。そこまではよく覚えている。2本目もかなり空けたようなのだが、それからの記憶が全くない。目が覚めたら宿舎のベッドの中であった。酔いつぶれて自分の足では立てず、ご主人とモリキさんが肩をかついで運び込んでくれたという。しかも宿舎まではご主人運転の車で・・・。なんという酒豪。
   振り返ってみれば私もそんなに長くない時間で日本酒に換算すれば1升近くは飲んでいる。結構飲んではいたのだ。しかし相手は酔いつぶれた私を車に乗せて連れて帰ったのである。  週明けにすぐバオ先生にお礼とお詫びをした。しかし日本人の無作法に眉をしかめるどころか、招いた側としてそこまで心を許してくれた客に親しみを持ったようなのである。その後時々バオ先生から人前で「先生はお酒が上手(=強い)」と言われ、穴があったら入りたい気持ちであった。中国の酒豪は凄いと思うばかりである。

        
       モリキさん  バオ先生ご夫妻     今我が家にある白酒 

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不順な天気/花のシーズン到来

2015-04-18 21:28:19 | 日記

   このところ不順な天気が続いた。何でも暖かい空気と寒気団がぶつかって空が不安定な状態になったとかで、局地的に雷雨やひょう等が降ったようだ。テレビニュースでは異常気象の模様が伝えられていたが、私に関して言えば天気予報が良い方に外れて助かった面が多かった。

    4月も半ばを過ぎ桜(ソメイヨシノ)のシーズンが終わって、色とりどりの花の季節を迎えている。外を歩くと、街路のハナミズキが見頃になったし、公園では関山や普賢象などの八重桜が満開、ヤマブキもきれいだ。草地にはタンポポやスミレが咲き、木立の間には鮮やかなシャガが目を引く。ツツジやシャクナゲも楽しみになって来た。あと10日ちょっとでいよいよゴールデンウィークである。 

     
 街ではハナミズキが見頃に   満開の八重桜       咲き誇るヤマブキ     シャクナゲも仲間入り

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#44-変わらずに来てくれる2年生

   後期になって1年生の授業が滑り出したが、担当ではなくなった2年生が疎遠にはならず宿舎によく来てくれた。以前と変わらずにというか以前に増してといえるくらいである。勿論こちらは大歓迎であった。キッチンで食事を作っての”パーティー”も少なくないが、単身用の宿舎だからリビングもキッチンもそんなに広くない。まあ昔の歌ではないけれど「狭いながらも楽しい我が家♪♪」と言ったところだろうか。私は学生が訪ねて来てくれた時はたいていデジカメで写真を撮って後でみんなにプリントしてあげた。学生たちはそれを日本語科の女性教師に見せては話題にすることがよくあったようだ。まだ先の話だが、一年の任期が終わりに近づいた頃女性教師側から「先生は帰るのですか。学生たちが残念がっています」と引き留めを受けたりした。そのことはまた別に書くが、このように交流の機会が多かったにも拘わらず宿舎でも日本語で通したため中国語は全く上達しなかった。(能がないことの言い訳または負け惜しみです) しかし、学生同士でペチャクチャやり合っている会話は聞き取りはできないまでも実に楽しかった。
  ただ1年生の新規の来訪があまり進まず、私も授業を離れるとつい2年生中心に遊ぶようになってしまった。

      

            

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