20・21日両日新潟で開催の講習会出張に当たり、19日は寄り道をして新潟入りした。寄った先は湯檜曽温泉。群馬県の水上温泉鄕の一つで、谷川岳を源流とする湯檜曽川(利根川上流に注ぐ)に沿った山あいの閑静な温泉町である。祖父母の家がそこにあって、2人が存命中で私が10台から社会人になるまでの夏休みは避暑に、冬休みはスキーにと毎年そこで過ごした。つまり私の青春真っ盛りの思い出が詰まっている所である。
私は祖父母にとって10人の孫の中の長子、つまり初孫であり可愛がられた。その時分湯檜曽温泉は旅館・ホテルが大小6軒ほどと会社の保養寮などがあり、避暑やスキー、谷川岳登山などの客でそれ相応に賑わいがあった。
叔母(父の末妹)が成人すると温泉客相手の土産物店を開き、しばらく後に小さな製麺所を始めて、町の飲食店や個人の食卓に供した。私も遊びの合間に時には土産物の包装の手伝いやうどんの配達をしたりもしたが、隣の酒屋の主人(祖父の甥に当たる)からは「ちったあ爺さんの手伝いをせんか」と怒られていた。
毎年行っているので遊び仲間も出来て、よく遊び、よくいたずらをした。川遊びの時は畑からジャガイモやトウモロコシを失敬して河原で茹でて食べたり、禁止されている水中銃(潜って魚を突く道具)を作ったり、町を見下ろす鉄橋の上から花火をしたり、それを町の役員に告げ口をしたにっくきおばさんの家の前でスイカの半玉を叩きつけてぐちゃぐちゃにしたり・・「湯檜曽三悪」のアダ名が付けられた。それでもまあ、おおらかな時代だった。
さて、前ぶれが長くなったが今回はその時分の遊び仲間を訪ねてみようと思い立っての寄り道であった。もう半世紀以上も会っていない。当時のイタズラ仲間の1人は東京赤坂で小料理屋を開いて何度か店を利用したことがあるが、その他は全く消息はない。
19日の寄り道の結果は2人が既に亡くなっており、1人が婿養子に出て町にはいなかった。それも驚きだが、温泉町はさびれ切ってゴーストタウンと化していた。祖父母の家は両方が亡くなって直ぐに、家を継いだ叔母が県内の都市部の方に転居しもう30年以上も経つ。
その間、関越自動車道が通り、上越新幹線が開通するや、湯檜曽温泉は首都圏からの客が遠のいて行った。温泉客が外歩きをして、食事や土産物を買うというスタイルは無くなり、さらに高速交通網が整って取り残されてしまったのだ。昔懐かしい店はことごとく無くなり、人通りも絶えていた。湯檜曽川の清流と町を囲む山の緑、そして鉄道マニア必見のループトンネルだけが健在であった。
JR湯檜曽駅は町の外れにあって、相当以前から無人駅になっている。ホームは上り線が地上、下り線がトンネルの中になっており、改札がなく出入り自由である。トンネル内ホームが珍しくて見物に訪れる人もいる。上り線の地上ホームからはループトンネルに入る列車が見え、その数分後にトンネルから出て来て停車する光景が見られる。
空振りに終わったが旧友を訪ねた後新潟に向けて下り列車に乗ったが、トンネルのホーム内は寒いほど。地上の上りホームと10度以上の温度差がある。同じ駅で7月と3月の気温が同時に味わえる極めてまれな場所ではある。