フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

家庭訪問所感

2015-06-30 13:00:04 | 日記

   民生委員を拝命しているので、用件により家庭訪問することも少なくない。今般の介護保険制度の改正に伴い当市が作成した新しい「介護保険のしおり」を75歳以上の全市民に配布するため、現在自分の担当地区の家庭を訪ねて回っている。既に50戸ほど訪ねたがその際の話題。
   私の担当地区はマンションが多く、今回お訪ねする先も大半がマンション内の家庭なのだが、一番困るのが外部の人の駐輪場所がほとんど無いことだ。ほとんど自転車で回っているが、大概「外部の方の駐車、駐輪をお断りします」と掲示してある。事情を話して管理人の配慮を得ることもある。訪ねるに当ってはマンション入口のインターフォンで用件を告げて入口ドアを解錠してもらうので、同じ階に次の訪問先があっても一旦外に出てから改めてインターフォンで解錠してもらわねばならない。今回は同階に3軒の訪問先がありエレベーターで3往復したこともあった(しかも8階まで)。
   訪ね当てた訪問先では改めてチャイムで玄関を開けてもらうことが大半だが、玄関を開けて待っていたり、玄関の外に出て待ってくださるお年寄りもいた。そして現在の世相を反映位するように、新手(あらて)の詐欺を疑いながら説明を受ける方もおられる。これは戸建てのお宅の例だが、厳しい目つきで出て来て「何の用だ。帰れ!」と一喝されたこともあった(言葉やわらかく説明して受け取っていただいたが・・・)。
   あと3分の1ほど残っているが、どんな出遭いがあるだろうか。

   今日は6月30日、今日で今年も半分が過ぎ去ることになる。なにか時の過ぎるのがすごく早く感じる。
   季節の花を少々。

    
 オオヤエクチナシ  ノウゼンカズラ    アガパンサス      アカンサス       ワルナスビ 

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#68-1年生最後の授業 

  
6月の末の2日間にわたる口答及び筆記試験により1年生の期末試験を終えた。試験を終えて最後の授業7月2日は出席自由とし、みんなで教室で遊ぶことにした。勿論私は日本から持ってきていた遊び道具を使って遊ぼうと考えていたのだ。出席者は半分くらい(24,5人)だったろうか。私が用意したのはケン玉、ヨーヨー、ダルマ落し、「ガリガリとんぼ」(後注)、お手玉などであった。今回これをまとめるまでそれらの遊びから入って行ったと記憶していたのだが、写真ファイルに残っている時刻を見ると違っていた。始めにカン・フィフィが歌を唄い、続いてリー・エンエンが当時習っていた得意のダンスを披露した。中国伝統の踊りではなく、モダンダンスのようなものだった。さらにソン・ソバイとオウ・サンがデュエットで唄い、さながら学芸会かかくし芸大会の趣で始まっていたのである。その後次々と教壇の机の上でダルマ落しに挑戦、ヨーヨーなどにも興じた。ダルマ落しは簡単のようでいて途中で崩れることが多く、それが悔しくて何度もやり直す者が多い。「ガリガリとんぼ」というのは本当の名を知らなかったのだが、今回ネットで検索して知った。下段右の写真のように「竹とんぼ」に似ているがプロペラは芯棒の先に止められて回転するようになっている構造。芯棒にはキザギザの凹凸が刻んであり、右手の棒でそれをこすると振動でプロペラが回る仕掛けになっている。但しむやみやたらにガリガリこすってもダメで、ほどよい加減が必要であり、それだけにプロペラが回ったら「やった!」という気分になる。
   ケン玉もお馴染みの遊びになった。ただし大皿に球を乗せるのが精一杯で、大皿からさらに中皿に移し変えられたら喝采、というところである。最後の方で、日本の1円玉から500円玉までの硬貨のセットをプレゼントするじゃんけん大会をやって大盛り上がりになったところで、教室では1年生とお別れになった。(9月からの3ケ月間での個人的交流は残されているが)

  
     カン・フィフィの独唱          リー・エンエン得意の踊り    ソン・ソバイとオウ・サンのヂュエット    

   
                    ダルマ落しやヨーヨー、ガリガリとんぼに興ずる

  
     ケン玉競技       ジャンケンで日本の硬貨セットを争う     ガリガリとんぼ

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昭和の流行歌/かつての労働運動・学生運動は

2015-06-27 14:01:01 | 日記

   24日投稿の前号は、その日夕方に家を出たら戻れないことに気付いて慌てて記事を書き上げ、見直しも何もせずに家を飛び出した。(シリーズの滞在記の方は予め出来ていた) それが気になって翌朝帰宅後見直し、少し手直しをして校正再投稿した。24日にご覧になった読者には申し訳ない。

   25日の夜のテレビ東京の番組で『懐かしの昭和メロディー”戦後70年の流行歌”』という放送があり、これを観た。私にとって”歌”は歌謡曲であり、今のアイドル系の歌には全く興味がわかない。音楽的には優れた歌手やグループもいるのだろうけれど、”ビジュアル”で見せる傾向が馴染めない。特に踊って歌ってなんて、「歌」をバカにしているんじゃないか(躍りながら歌など歌えるわけがない)と考えるのは私が古すぎるのかなあ。
   ということで私は懐メロ系爺さんなのである。といって戦中・戦後派でもない。まあ大体田端義夫から始まって、大御所と言われた三橋・春日・三波・村田、フランク永井、美空ひばり等から坂本九、船木一夫、西郷輝彦くらいまでだろうか。昭和30年・40年代が中心になる。
    それはそれとして、頭書の番組では歌だけではなく、出演歌手の葛藤や紆余曲折などが紹介されていた。表面に出たヒット曲に至る裏話は面白かった。特に「バナナボート」だけの一発屋と思っていた浜村美智子の若く元気な現在の姿を見て何かホッとした気持ちになった。本話題とは離れるのだが、私の最も好きだった外国人歌手はハリー・ベラフォンテであり、「バナナボート」は彼のヒット曲なのであった。

   安保法制の合憲・違憲論争がかまびすしい中、国会招致の3人の憲法学者が揃って違憲判断を表明した後も自民党の元幹部級の長老たちが「黙って見ちゃいられねえ」と安倍政権に反旗を翻したり 行政府の法の番人である内閣法制局の元長官が現職の長官に異論を唱えたりと、目まぐるしい動きが続いている。昨日は安倍総理を励ます勉強会に呼ばれた総理と気脈を通じる某作家が「沖縄の偏向マスコミは潰した方がいい」とかの発言をしたとかでまた火種になっているみたいだ。まあここに至るまでもなく、かつての日本なら労組のナショナルセンターまたは学生らによる国民的運動が渦巻いているところだろう。今や学生は就活に精力を消耗し、勤労者もリストラや非正規化で労働運動の牙が抜かれてしまったようだ。祖父の岸元総理を越えようと背伸びしている現総理の目はまだ覚めそうにない。

 [日本語教師の中国滞在記] 山東省編#67-日本人仲間の行方

   私は間もなく経貿学院の1年の任期を終えて帰国をするところであったが、9月からあと3カ月延長することになった。では他の日本人仲間はどうであったろうか。濰坊には日本人の交流会が2つあって、一つは私が来る前から元々あったもので日本企業の現地会社の責任者クラスを中心として我々のような日本語教師も加わっていたもの。毎月1回土曜日に日本料理店で開催されていた。その中のメンバーで濰坊の”日本人界”の元締め気取りのサトウ氏を嫌ったモリキさんらが呼びかけて日本語教師を主体にした集まりができた。肩書きの多いサトウ氏も一応日本語教師なのだが、同氏を外し一方では日本人だけに限定せず市内の日本語学校の校長や日本などに研修生を送り出す会社の幹部らの中国人にも声を掛けて濰坊市での日中親睦の趣きとなった。 
   前者の会では日系企業の人事異動には全く関心を持たなかったが、後者の集まりではお互いの動静が分かった。経貿学院の相棒モリキさんは始めから継続を希望しており希望が通りになった。私と一緒に来華し潍坊学院で教鞭を執った知人のT.シゲルさんは予定の1年だけで帰国をする。同学院の女性教師クドウさんは本人の継続希望が叶わず後任が日本から来ることになった。山東科技学院の4人の内、フカマチ氏とカワサキ女史は2年目に入ることになった。イケダさんは残留できなかったが日本帰国の意志はなく、他の地方での大学で仕事を見つけたと聞いた。もう1人がサトウ氏。彼は私が1年で帰国すると聞き及び、私は呼ばれてその後任としてぜひ学校に頼んで欲しいと懇願された。彼は肩書きだけはいろいろあったが、日本語教師以外に安定した仕事がないのが実情だったのだ。帰りには腰を90度に曲げ、まさに平身低頭で私をエレベーターに見送った。私は学校(応用外語学部のソン事務主任)にそのことを伝えたが、モリキさんも交えた3者会談で勿論お断りすることにした。それを聞いた科技学院の同僚教師の一人が「妥当な判断ですね」と言い切った。このようなことで6月下旬にシゲルさん、イケダさん、クドウ女史の送別会が行われた。

                          
集合写真は以前載せたことがあるもので送別会の時とは違うが、前列左からモリキさん、クドウ女史、フカマチ氏、私、シゲルさん。後列左から3人目がイケダさん、その右がカワサキ女史。右の小さな写真はサトウ氏

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夏至/セリーグ勝敗の珍現象

2015-06-24 16:36:36 | 日記

   22日は夏至だったらしい。夏至としての節気の行事がないせいなのか梅雨時期のせいなのか、うっかりしていて気づきもしなかった。その日、高齢者を招いての食事会があり、我々グループの代表が開会の挨拶をした時に「そうだったのか」と思った次第。時季の話題をブログに取り上げている者としては迂闊極まりない。でも何か「夏至」の意味合いが薄れているようにも感ずる。
   ただ「夏至」というのは太陽が地球上の黄経(地球儀で赤道の北に引かれている線)と直角になる瞬間を言うのだそうだ。その「夏至」が起こる日で、我々が「一年で一番日が長い日」として認識しているのは正確には「夏至日」というのだそうである。これもネットで調べて初めて知った。

   プロ野球のセリーグでは昨日24日には勝ち越しチームが一つもないという珍現象が起こった。6チームで対抗戦を行っているのだから、どこかが勝ち越し、どこかが負け越すはずだが、セ・パ交流戦があってそれを通算するために起こった現象である。つまり、セリーグ・チームがパリーグに大きく負け越したために起こったことなのだ。今後とも現れそうにない珍現象であろう。 
   年寄りじみた話になるが、昔のテレビのスポーツ中継と言えば圧倒的にプロ野球、次いで大相撲とプロレス、そして時たまのボクシングであった。今やスポーツ番組花盛りで、私は野球の中継は滅多に見なくなった。

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#66-白浪河と鳶都湖

   前号の「人民公園」同様、滞在記の折々に登場する白浪河と鳶都湖。それをまとめて取り上げてみたい。
   白浪河は全長127kmで濰坊の市内をほぼ南北に流れ、北の莱州湾という海に流れ込むが私は市内の部分しか知らない。その途中で堰き止めて人工的に出来たのが鳶都湖である。川はまさに市の中心部を縦貫している。流れは概ね緩やかでボート乗り場もあるくらいだ。前号でも書いたように途中人民公園に面しているが、さらに上流の鳶都湖を含めて左岸はずっと舗装された遊歩道が(多分10kmほど)整備されている。地方都市にしては進んだ市街地整備だと感心をした。川は丁度経貿学院の真横、距离にして400mくらいの所で堰き止められている。堰の直前の川幅は100mくらいだろうか。湖は幅200mくらいになっている。堰の上には中国伝統風の建物が建っていて、そこを展望レストランにする計画のようだった。周囲も森林公園のような整備がされていた。私が赴任間もなく公園で尺八ライブをしたのはそんな場所が多かった。
   中国の都市は建設ラッシュでクレーンと土ボコリの街と想定していた私には、この川・湖と街の通りの街路樹とですっかりイメージが変わってしまった。学生たちとの交流の日常化と共に忘れがたい濰坊になった。

下の写真は市の中心部から上流へ遡って並べたもの。
上段左:ボート乗り場がある憩いの場になっている  上段中:川にせり出したウッド・デッキは絶好の釣り場になっていた  上段右:ある橋の中央から撮ったもので川の広さがよく分かる  
中段左:右の森が人民公園  中段央:ここで川は堰き止められている。堰からは滝のように水が流れ落ちていた  中段右:この堰を上流側(つまり湖側)から眺めたところ。まだ出来て新しいい堰の上の建物は展望レストランになるようで、 夜になるとイルミネーションで電飾される。

    

     

      
 鳶都湖の上流部の木橋 季節の花が咲く遊歩道  こんな四阿(あずまや)も 真冬の凍った湖面と雪
  

 

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引き渡し訓練?/北陸・整備新幹線

2015-06-21 15:55:29 | 日記

   昨日は土曜ながら昼から小学校の安全見守り当番に就いた。6月の学校行事予定表を改めて見てみると、保護者(父兄)の授業参観に加えて6時限目に「引き渡し訓練」ということが載っていた。引き渡し訓練? 何のことかと思ったら、授業時に地震が発生したら児童を安全な学校に待機させ、落ち着いたところで保護者に来てもらって児童を引き渡す・・・そのシミュレーション訓練なのであった。それが終ると、授業参観を含めて学校に来ていた保護者(ほとんどはお母さん)に伴われて防災頭巾を被った児童たちが一斉に下校して行った。この時見守り員の制服制帽を着用している私に敬意を表しながら児童とともに挨拶をされて行く保護者が多くおられたが、児童が「さよなら」の挨拶をしているのに我関せずのお母さんや我が子との話だけに気を向けていて通り過ぎるお母さんの姿も目に付いた。別に自分の存在を誇示したいわけではなく、家庭で挨拶などの躾けはどうなっているのかなと感じさせられた。

   今年3月に”北陸新幹線”の長野―金沢間が開通し、乗客率もまずまずという記事を見た。ところでこの北陸新幹線を含めて『整備新幹線』という言葉が使われる。「整備」とは何なのかと思い、ネットの百科事典Wikipedeaを読んでみた。
   すると『整備新幹線』というのは旧国鉄を含めたJRが造る高速鉄道路線というより、政府が整備計画を決めた路線で、「北陸」のほか「北海道新幹線の青森~札幌」「東北新幹線の盛岡~青森」「九州新幹線の鹿児島ルートおよび長崎ルート」を差すのだそうだ。
   そしてこれらの路線は建設コストを賄う収益にリスクがあるため、国(2/3)及び自治体(1/3)が建設してJRに貸し付け、JRの営業利益から返してもらうシステムなのだということが分かった。まあ一事業体では踏み切れないことを国策としてやることも必要かもしれないけれど、始めから北陸新幹線は収益を期待された事業ではなかったのだ。 

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#65-人民公園

   この滞在記に再々登場する「人民公園」だが、全体像を紹介したことがない。これまでの記事や写真などとダブるところが多いかと思うが、一度全体像をまとめてみたい。
   人民公園は濰坊駅から市街中心方向へ2kmくらいに位置する市民憩いの公園である。公園の東側700mくらいが市内中央部を流れる白浪河に面しており、東および南側は目抜き通りに囲まれている。私がいつも買い物をするJUSCOや小商品城などのすぐ手前にある。学校からバスや例の三輪の輪タクで行くこともあるし、歩いて行くことも少なくない。歩いても20分ほどの近さである。
   大きさは東京の都心の日比谷公園ほどであろうか。園内の樹木は豊かで緑濃く、白浪河に面したウォーターフロント、池や散策道、芝の丘などバラエティーに富んだ公園である。以下紹介写真の枚数が多くなってしまうが、「一見は百聞に如かず」で許していただきたい。
  

     
     目抜き通りに接する公園東側      園内の行先案内標識   白浪河に面する公園西側

     
                         樹木の緑豊かな園内 

         
                舗装されて歩きやすい散策道には四季の花が彩る

     
    珍しいところを3題。 左は東京では見かけることがなくなった純白の鳩の群れ。 中は結婚アルバムの写真撮影風景。ここはそういう写真撮影の”メッカ”なのである。 右は真冬に氷が張った池。人が乗っても割れないほどの厚さになる。 
  

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コカリナ演奏/雨から逃れる

2015-06-18 10:24:06 | 日記

   「コカリナ」という楽器を知っているだろうか。「オカリナ」なら多くの人が知っているだろう。卵の変形みたいな恰好をして大概素焼きの陶器でできたものだ。一方、コカリナの方は語源が「サクラの木でできているオカリナ」と言うのだそうだが、形は全く似ていない。短い木製の筒に指孔が開けられた構造である。一つ一つは音域が狭いため色々な音域のもの(音の高いソプラノから低いコントラバスまで)があって、それらを組み合わせて合奏をする。
   一昨日開催した地域ネットワーク・グループの定期サロンのアトラクションンにこのコカリナ演奏グループを招いた。地元中心のメンバーだが、中には皇室で美智子皇后と一緒に手ほどきを受けた人もいるとのこと。前述のようにコカリナ一つでは音域が狭く、音は素朴で技巧(例えばビブラート)も少ないので色々な音域のものを組み合わせて演奏を楽しむものであろうか。今日は来客としての高齢者約60人や我々運営スタッフ十数名及び勉強に来ていた大学生ら含めて、聴くのはほとんど初めてで、後半はその伴奏で懐かしい歌をみんなで唄って楽しんだ。

          
   サロンのアトラクションでコカリナの演奏を聴く  ネットに出ていた色々なサイズのコカリナ 

   昨日は用事が重なり、5つの内一つをキャンセルしなければならないほどだった。朝の天気予報では当地三鷹で降雨の予報はなかったのだが1つ目の用件で家を出た時南の空が真っ黒になっていた。しかし雨の予報ではなかったので、傘を持たぬまま自転車で出かけた。1時間半ほどで1つ目が終って、数分くらいの2つ目の場所に移る時はポツポツの雨だが傘なしで済んだ。2つ目が終って会場を出た時は雨の跡があったが、その時は止んでいて自転車で家に帰れた。家に着くと間もなくかなりの雨脚で降り出した。3つ目に行く時は当然傘を差して出たが元々バスで行く場所であり、帰りには雨が上がっていた。次は傘は用意した上で自転車で4つ目に急いだ。これもすごい雨の後上がり、帰りは傘なしで自転車で帰宅できた。
   私は日頃「晴れ男」を自慢しているので家内に言えば不快な顔をするに決まっているので言わないで置いているが、我ながらよく雨から逃れた一日であった。

 [日本語教師の中国滞在記] 山東省編#64-初夏の候、校外散歩に

   乗り物の話が続いたが、学校生活の方に戻そう。6月に入り初夏の候を迎えた。日本ではそろそろ梅雨の時期を迎えるところかも知れないが、当地には梅雨がない。日中も夜も外出には心地がよかった。緯度的には日本の栃木北部から福島南部といったところで、東京の5月くらいに相当する。ピクニックほどの遠出ではないが、宿舎に来た学生たちに外歩きを誘った。
   ①はイー・カカ、ウー・ヘイらの寮の同室グループが来て、各自が紋付きの着物を着て楽しんだ後、学校から近い鳶都湖に行き、そこから白浪河に沿った遊歩道を歩いた。ワイワイと軽口を叩きながら30分ほどで人民公園に到着(②)。そこからは私の買い物のためにJASCOに寄ってバスで帰った。 ③④はそれから後日の晩、イーさん、ウーさんら3人と夕食後の散歩に出た。鳶都湖の堰の上に建造された歴史風建物がイルミネーションで飾られ、夕涼み客が多く出ていた。
   ⑤~⑧はケイ・ショウロとヨウ・ハイジエの仲良しコンビと出かけたもので⑤は市郊外の植物園、⑥は人民公園付近、⑦はバスで白浪河の上流に行って川沿いを下った時。⑧はその途中、木登りに挑戦したケイさんが6~7m登って「絶景かな!」と悦に入っているところである。   

   
           ①              ②               ③              ④

    
       ⑤              ⑥              ⑦              ⑧ 

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