goo blog サービス終了のお知らせ 

フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

[日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#13-不本意な3年生の授業とメチャメチャな前任教師    

2024-12-29 10:06:05 | 日記

    2年生(08級:2クラス)の受け持ちで新学期をスタートしたところだが、9月第4週から急に3年生(07級:2クラス)の授業も入って来た。最終学年である3年生は日本語の口語(会話など)は必修ではなく、試験も単位もない自由授業であった。モリキさんは始めから1年生(09級:1クラス)のほかに3年生を受け持ったが、3年生の出席は極めて悪いと聞いていた。私は急な決定に「何それ?」とは思ったものの、2年生だけでは時間が有り余っているので歓迎であった。市内の大きな書店で見つけてあった日本語のテキストをプリントして教材として授業に臨んだ。
   最初の授業で教室に行ったら1人も学生がいなかった。中国人が時間にルーズなのを考えてしばらく待ったが誰も現れないので、主任のバオ先生に携帯で聞いたら私の待っている教室が違うと言う。教室を含めて時間割表をくれたのは学校の方だろう。何が「違う」だ!! それはともかく教えられた教室に駆けつけると10人ほどの学生が待っていた。そしてさらに驚くことに、学生たちが「先生、先週も待っていたけど来なかった」と言うのだ。「何い! 学校からは今週からの授業と言われているのに」。そもそも何で始めから3年生も受け持ちにしなかったのかと、学校の場当たり的な决定に頭に来た。その後何回か続けた授業では4,5人くらいの出席しかなかった。2年生のクラスは必修だから当然かもしれないが出席率が常に8割から9割であるのに比べて明らかにもう出席意欲がなくなっている。結局2クラスとも2ケ月足らずで授業が消滅してしまった。私が教えた2年生が翌年3年生になった時には、自由授業とはいえども7,8割の出席があったことを考えると、前任教師の影響が大きいと思われた。
   後に学生などから聞いた話を合わせると、前任者は北海道の出身で大学卒業後間もない女性だった。大学で中国史を学んだらしい。背が低い上に声が小さく、後ろの方の席では声が聞こえないという。授業は教科書を読むだけ。彼女と会話をしたり、宿舎に訪ねることを嫌がったようで、学生とのコミニュケーションがほとんどなかったらしい。同僚の中国人教師とも馴染めず、要は何をしに日本から来たのか分からないという芳しくない話であった、それで学生の意欲が削がれてしまったようなのだ。本人は中国に残りたかったようだが、学校は1年限りで契約を打ち切った。その後彼女は大連に行って不法滞在で捕まり、濰坊市の日本語学校の関係者が身柄を引き取ったがさらにトラブルを引き起こし・・・と後にその関係者から聞いた。同じ日本人として恥ずかしい限りの前任者であった。

                 
  3年生(07級)の教室で唯一の写真

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

[日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#12-経貿学院の学生たち

2024-12-26 08:52:16 | 日記

   経貿学院の学生たちの出身地は山東省のほぼ全域に亘っている。山東省といえばこの連載#2(12月4日)で書いたように日本の国土の4割くらい、東京を中心に考えれば東北地方から関西に及ぶほどの広さである。そんな山東省の各地から集まっている。その中では青島およびその周辺地方の出身者が多く、地元の濰坊市出身者は意外なほど少なかった。都市部の出身もいるし郡部の農家の子女もいるが、中国では都市部と農村部の生活の格差が大きく、都市の大学に通わせ都市で仕事をするように親戚ぐるみで子女を送り出すケースが多いと聞いた。一人っ子政策年代だが、大概兄弟がいたように思う。甘やかされて育った感じの学生はほとんど見受けなかった。53人中男子は10人で2割足らずである。
   始めに書いてもらった学生たちの自己紹介票によると、日本語を志望した理由は日本や日本語が好き、日本に旅行したいもしくは住んでみたい、あるいは日本で仕事をしたい等々であるが、日本のアニメが好きなので日本語をマスターしたいという答えも多かった。そこまで日本のアニメって人気があるのか、と意外であった。そして希望の仕事は通訳が一番で、日本語学校の教師というのも多かった。
   ケバケバのイメージがある日本の女子大生に比べて、この学校の女子学生は実に清楚。まあ見方によればヤボッたいのかもしれないが、私にはその方がずっと好感が持てた。つけまつ毛やアイシャドウはゼロ、口紅さえ少数であった。そして純真でもある。後に取り上げるが、家内が当地に遊びに来た時には「まるで中学生みたいに純真」と感想を漏らしていたほどだ。
   男子学生を含めてショッピングなどで街なかへ出かけることはあるが、キャンパス内での生活も可能な全寮制であり、アルバイトも原則禁止のため日本の大学生よりはずっと勉学環境にあると言える。

   写真は愛すべきすっぴん姿の女子学生たち 
  
  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

[日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#11-授業方針

2024-12-24 09:45:44 | 日記

   前に紹介しているように、私のクラスは2年生(08級)の1班が27人、2班が26人で、これから週2コマずつ授業を行う。学生たちにはまず次のことを通達した。①教室の中は日本だと考えること②従って教室の中では日本語で話をすること③みんなの名前は日本式の呼び方にする。私が名前を付けるから、お互いにその名前で呼ぶこと④授業開始時は「おはようございます(こんにちは)」、終了後は「さようなら」の挨拶と、指名されたら「はい」の返事をする・・・等々。そしてクラス全員に呼び名を与えた。例えば董静(ドン・ジン)なら「トウ・セイ」、徐令学(シュー・リンシュエ)なら「ジョ・レイガク」というように一人ひとり立たせ、みんなにもその呼び名を覚えさせた。
   私は授業で学生を当てる時に指で差して「君(きみ)」とか「貴方」というような呼び方ではなく、必ず個人名で呼びたいと考えていた。名前も分からないまま「きみ、あなた」では相互の親しみが湧かない。しかし53人もいると顔と名前が一致するには時間がかかり過ぎる。そこで一計を案じ、全員の顔写真を撮ってそれをカードにした。カードには本名とその読み方、日本式呼び名のほか裏には出身地や趣味、将来の希望などを書き込んだ。そのカードで名前を呼び上げ、学生が手を挙げた位置にカードを机の上に並べるのだ。これで出欠と同時に席にいる学生の名前と顔が分かる。そして間違いなく学生を指名することができる。この方法によりたちまち学生の顔と名前が分かるようになった。そのことによって学生たちとの距離感が縮まり、私の目指す家族的な教室の雰囲気が出て来た。
   通達②に挙げた「教室内では全て日本語で話す」ことは直ぐには無理があった。なにせまだ1年しか日本語を習っていないのだから。しばらくは日本から持参の電子辞書のお世話になって補助的に中国語を介しながらの授業も止むを得なかった。
   授業の進め方はほぼ実験学校の時の方法に沿うことにした。教科書を使い、会話の部分は①私が手本となる発声で読み上げる②次は私の後を全員で発声する③続いて学生だけで発声をする④そして2人向き合って成りきり会話(役に成りきって”話す”)を行う⑤成りきり会話は全員に当てて行く。
   私は教室内ではゆっくり、大きくはっきりした声で話すようにしていた。そしてみんなにはこう言っている。「私の日本語は正しい発音です。ですからみんなは私の発音をよく聞き、真似をして声を出してください。とにかく、声を口に出してください。」・・・これは私自身の中学から大学まで習った英語の授業の反省から出ている言葉なのである。

      
  カード作製のための写真を撮る➡全員のカードが出来上がった
     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

[日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#10-授業始まる  

2024-12-22 10:19:08 | 日記

   9月第二週の月曜7日から経貿学院の新学期が始まった。私は2年生(08級)の2クラスの口語(会話など)授業の受け持ちからスタートした。1班は27人、2班は26人で、各クラス週に2コマ(1コマ2時限で100分)なので週4日、一日100分の”仕事”である。北京の実験学校では主任教師と2人で毎日6~8時間の授業を行っていたことに比べると、何と楽なというか暇なというか、自由時間がいっぱいだ。しかし、追々この連載に書き綴るように実に楽しく充実した時間に恵まれたのである。    北京での経験から授業の進め方については基本が出来ていた。だが実験学校での生徒は3人という家族的授業、今度は教室の人数が全く違うので授業の仕方もちょっと考えなくてはならないし、53人の学生の顔と名前を覚えるの大変である。そのことはまた触れるとして、教室は教壇に机、黒板及び列に並べた学生机と日本でもお馴染みの光景である。    まず始めに私の自己紹介の後、私が用意した自己紹介票をみんなに配り、それを基に自己紹介をしてもらった。自己紹介票には名前やその読み方(ピンインというアルファベットの発音表記)の他、出身地、趣味や特技日本語を学ぶ理由、将来の希望などを書いてもらった。日本語を1年しか習っていない割にはみんなよく出来ていたと思う。但し私が話すことの聴き取りはまだ十分ではなかった。それはそうであろう。日本の学生だって中国語を1年習っただけではとてもそうは行かない。北京の生徒(中学卒業生)の時もそう思ったが、中国人の方が上達は早いと感じた。両クラスとも学生の表情は明るいし教室の雰囲気も良いし、まずは希望の持てる滑り出しであった。    

  
 初めての授業で自己紹介を/後に撮った2年生のクラスの写真(中が1班、右は2班)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

[日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#9-新入生が入学

2024-12-20 10:11:44 | 日記

   私の滞在生活の準備が整う間に新入生が入学し、新学年度が始まった。
   8月28日に私が濰坊市経貿学院に着任した翌日、新1年生の入学手続きが行われた。2009年の入学なので1年生というより09級生という。その手続きの様子を見学したらどうかと学校から案内があり、チョウ先生と07級生(3年生)2人が案内役で付き添ってくれた。後から分かったが2人はクラスの模範生であり、案内役として選ばれたのだ。私にとって初めての学生との出会いとなり、その後もなついてくれた。キャンパス内には学科ごとの手続きのテント・ブースが並び、さながらテント村を成していた。新入生は総勢で2千6、7百人である。
   そして週明け月曜の31日から1週間、新入生の軍事訓練が始まった。キャンパス内では迷彩色の制服を着た新入生が隊列行進訓練などを繰り返しているのが目に付いた。中国は国民皆兵制ではないと思うが、団体生活の規律を教育するためのものなのだろうかついぞ聞くことがなかった。
   日本語科の1年生は47人で1クラス。1年間教室と席が固定され、放課後も教室に入って自習などが自由にできた。前期、1年生の受け持ちはモリキさん(私は2年生2クラスの受け持ち)だが、モリキさんの呼びかけで夜みんなが集まっている1年生の教室に行き、2人で自己紹介をした。この時、日本語の実に達者な男子学生が話しかけて来た。リー・イー君だが、彼は7歳のころから日本語に興味を持ち勉強をしていたと言う。名前の字は「毅」と書き、自ら「タケシ」と名乗った。好青年で以後モリキさんはタケシ君を自分の授業の助手として位置付け、公私に亘って彼と行動を共にするようになった。

     
 入学手続きの”テント村”/新入生の軍事訓練風景/既に日本語が達者なタケシ君(右) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする