フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

長野地震/健さんの追悼続く

2014-11-30 21:07:43 | 日記

  11月22日夜、東京地方も揺れた長野県北部地震。マグニチュード6.7、最大震度6弱というこの地震で白馬村を中心とする長野・新潟にまたがる市町村で多くの家屋が全半壊した。特に白馬村を上空から撮ったテレビの映像で見ると、震度の割にはある範囲の村落の倒半壊が激しかった。かつては湖などのあった地盤の弱い地域なのだという。ところが、白馬村で114棟、隣りの小谷(おたり)村では25棟の全壊・半壊の住宅被害が発生したが、幸いこの地震による死者はゼロであった。よく災害対策として自助・共助・公助、三位一体の取組みの必要性が説かれる。自分で自分の身を守る自助、近隣の助け合いによる共助、そして国や自治体による公助。今回の地震では自助・共助、特に隣り近所の人たちの助け合いによるところが大きいとされ、「白馬の奇跡」とまで評されている。
   なおこの地震の震源は糸魚川静岡構造線という大地溝帯の北部に位置する神城断層であるとされ、2011年に起きた長野県北部地震と混同するのを避けるため「長野県神城断層地震」と名付けるそうだ。

   ところで今回の地震の被害が大きかった白馬村と小谷村。 大学生になって初めての冬休みにスキーに行ったことがある。クラス仲間6人と小谷村の民宿に宿泊し、村にあった小さなスキー場と白馬の大ゲレンデでスキーを楽しんだ。私は父の実家が群馬県水上町の雪国だった関係で高校時代から冬にはスキーをしていたので、他の友だちとはレベルが大分違っていた。それ以来白馬にも小谷にも行っていないのだが、50年も昔の思い出を呼び起こす地震であった。

    過日定例の飲み会で初めてマグロの解体というのを見た。場所はいつも決まっている新宿の海鮮酒場。談論風発、話が盛り上がっている時に店内で案内があったので、しばし中断して見せてもらった。約40キロという本マグロで、200人分の刺身が取れるという。解体する前に記念写真を撮らせてもらった。残念ながらお開きの時間になったのでこのマグロの刺身は食べられなかった。

       

   亡くなった俳優・高倉健を追悼する記事や番組が続いた。いや、まだ続いていると言ってよいだろうか。足跡や生きざまを特集したり、映画の共演者や生前親しかった人が多くの思い出を語ったり、主演映画を放映したりと、健さんの実像を映画の主人公と重ねて偲んでいた。昭和の大スターであった美空ひばりや石原裕次郎が亡くなった時はどんなだったか私はもう覚えていないのだが、高倉健は昭和の光を平成の世でも放ち続けたスターだったと言える。 任侠映画から脱皮したヒット作の「幸福の黄色いハンカチ」を追悼のテレビ放映で観たが、ストーリーは概ね覚えていたのだがほとんどのシーンは覚えていなかった。それくらい私の記憶力なんてあてにならないものだと思い知った。

 

 

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衆院解散に思う/流行語大賞候補/白鵬優勝、大鵬に並ぶ

2014-11-23 23:03:14 | 日記

    安倍首相の解散会見に関して、前号のブログで「安倍晋三内閣総理大臣・・・今回の解散表明に限らずこの人の言葉は本当に心に響かない。」と書いた。そしたら翌日の朝日の天声人語に”解散を表明した安倍首相は多弁を弄したが腹に落ちるものは少なかった”と書いていた。”言葉の厚化粧”だとも。
    「大義なき」とか「党利党略」とか「700億円の無駄使い」と言われる衆議院解散、この首相独走の計略をやすやす許しているのは安倍政策への反対票の受け皿がないからである。小党分立している野党が完全になめられているのだ。そして選挙の結果「民意」が歪められるのである。何故か。選挙区では50%の得票がなくても自民候補は当選できる。投票率は60%もなかろう。つまり有権者の30%以下の賛成でも自民は絶対多数の議席を取り「民意を得た」にすり替えられるからである。こんなインチキ選挙に有権者は利用されるのか。いっそのこと今回は安倍首相の信を〇×で問う信任投票にしたらどうかと思う。

   年末恒例になった「今年の流行語大賞」、その候補50語がノミネートされた。この中から12月1日に年間大賞などが発表されるという。候補の中には私が聞いたこともない言葉がいっぱいあった。それほど私は流行に疎く、世間からずれているのだろうと思う。それはともかくとして私の推す大賞は「ダメよ~ダメダメ」、次いで「号泣会見」「ごきげんよう」である。「ダメよ~」はあのコンビのメークといい、実にユニークでインパクトがある。次ぐ「号泣会見」、テレビ中継のあのシーンはしばらく脳天から消えそうにない。当の県議は経歴的にもフツーではなく、ああいう人に投票した有権者は勇気があった。「ごきげんよう」は日本人の最も基本的な別れの挨拶であるが、それを美輪明宏さんが言うと何とも言えない響きになる。私の”世間感覚”はどうだろうか、結果はあと10日ほどで出る。

   大相撲九州場所はやっぱり白鵬が優勝。昭和の大横綱大鵬に並ぶ32回目の優勝で、今年最後の場所を締めくくった。前半に白鵬が珍しく平幕に取りこぼして終盤まで鶴竜が引っ張る展開となったが、終ってみれば”やっぱり白鵬”だった。単に星数だけではない。相撲内容が段違いである。大鵬の時代とライバルの存在など違いはあるが、今の力士の中では心技体が図抜けており、まだまだ優勝回数を伸ばすことだろう。
   今場所、他の力士では遠藤が前半の2勝5敗から8連勝して二桁勝利を挙げ、しぼみかけていtファンの期待を繋げた。”怪物”逸ノ城も勝ち越して何とか入幕2場所目での新関脇の座を守った。特筆したいのは40歳になった旭天鵬が10勝して敢闘賞を獲得したこと、および大怪我で幕下まで陥落しながら幕内に復帰した栃ノ心が力強い相撲で11勝を挙げてやはり敢闘賞に輝いたことだ。この二人には頭がさがる。拍手を送りたい。

 

 
 写真は市民文化祭の中の今日の吹奏楽演奏会。15のチームが見事な演奏を披露していた

 

 [日本語教師の中国滞在記]濰坊編はまだ準備中

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衆議院解散―政治家の嘘つきは当たり前?/高倉健さん逝く

2014-11-19 15:34:01 | 日記

   衆議院が解散され、12月14日に総選挙が行われるという。今月に入り解散・総選挙の話が急浮上したが、火元は自民党筋からで、支持率が低下していない今の内に選挙をすれば安定多数が確保でき、政権もしばらく安定するという党利党略の思惑と捉えられていた。マスコミの論調は「大義なき解散」として批判的であったが、安倍首相も一貫して否定していた。それが昨日18日になって「消費税増税の実施を先延ばしすることの信を国民に問わねばならない」としていとも簡単に前言をひるがえして今月21日に解散することを表明した。そして今明かされるのは首相はAPEC出席のため北京に出発する前にこの筋書きを練っていたというのだ。
   安倍首相がいくら解散を否定してもメディアはそれを信じていなかった。つまりは一国の総理大臣が嘘つき」と断じていたのだ。国民も「日本で一番偉い総理大臣が嘘をつくはずがない」とはほとんど思っていない。総理大臣を始めとする政治家は嘘つきだと思っている。何と情けない国なのだ。私たちが小さい時『嘘つきは泥棒の始まり』と聞かされ、泥棒と同じように嘘つきは悪人と教育を受けて来たはずだ。ところが市民・国民の代表たる政治家は平然と嘘をつくのである。選挙で選ばれた人間は嘘つくことが許される、という感覚なのであろうか。
   かくして、消費税を8%に増税した時の公約の国会議員定数削減も財政の改善も全く反古にされ葬り去られたのである。首相は言う、「例え困難な道であろうとこの道(デフレ脱却)しかない」。議員定数削減や財政再建には腰砕けで逃げたくせに何を言うのか。
   安倍晋三内閣総理大臣・・・今回の解散表明に限らずこの人の言葉は本当に心に響かない。


   映画俳優の高倉健が亡くなり、今日は衆議院解散より大きなニュースになっている。10日に亡くなったことが昨日報道され、昨日の夕方から今朝にかけてはメディアは健さんの追悼一色である。昨年は映画俳優として4人目となる文化勲章を受けていた。
   映画の中で歌う「背中(せな)で泣いてる」の歌詞で代表されるような寡黙にして誠実、不器用にして義理人情に厚い・・・そんな役柄がそのまま健さんのイメージでもあった。映画界のみならず親交のあった各界の著名人から健さんを偲び、追悼の言葉が寄せられ、イメージは異なる茶目っ気な一面なども明かされていた。

   私も高倉健の映画が好きであった。若い頃には「網走番外地」シリーズをよく観ていた。大学3年で初めて北海道を旅行した時に、観光バスの中でその主題歌を歌ったら意外と北海道の人は知らなかった。内地(地元の人は北海道以外の日本をこう呼ぶ)でよく知られていても、当の北海道ではこの映画が流行っていなかったのだろう。また共演者であった大原麗子さんの実家は私が通っていた高校のすぐ近くで甘物屋を開いていて、卒業後にその店に寄った時には網走番外地のポスターが貼ってあり、お母さんが「うちの子もお蔭で売れ出しまして・・」と喜んでいたことを覚えている。
   健さんの映画で一番感動したシーンはやはり「幸福の黄色いハンカチ」の最後、服役後主人公が恐る々々帰った炭鉱長屋に妻が待っている印の黄色いハンカチが何枚もへんぽんと風に翻っている場面である。多くの人が多くの感動を与えてもらった映画俳優であった。合掌

[深秋点描]

①秋深まった日差しの中に佇む寺の本堂と鐘撞き堂  ②井之頭池端のラクウショウなどの木立。かなり色づいて来たのだが写真では色づきがよく見えない  ③落ち葉が敷き詰められた玉川上水の遊歩道  ④好天の下での試合前の練習風景  ⑤ヒマラヤスギの大木に早くもクリスマス・イルミネーションが。写真中央下にヘッドライトを点けた車が見えるのでイルミネーションの大きさが分かる  ⑥こちらは狂い咲き(返り咲き?)のツツジ。私の住んでいるところの生け垣で 

  
              ①                     ②                    ③

   
                 ④                     ⑤                   ⑥

 

 [日本語教師の中国滞在記]濰坊編  連載準備中

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満身創痍?の大相撲/芸術の秋

2014-11-16 20:19:38 | 日記

   13日の朝日新聞の川柳の欄に『包帯が ぶつかり合ってる 大相撲』というのが載り、選者の寸評に「みっともない」と添えてあった。 私も常々そう感じていたところなので快哉を叫んだ。
   大相撲のテレビ中継を観ていると本当に包帯やサポーターを巻いている力士が多く、ウンザリする。「ケガで万全な体じゃあないんで負けても勘弁してよ」と言い訳をしながら土俵に上がっているようにも取れる。この川柳の載った日、たまたま相撲中継を観ていたら勝ち力士が土俵下で手に巻いた包帯を外しているところが映った。そんな不要な包帯などするなと言いたかった。そしてつまりは包帯やサポーターで補強して相撲を取っているのだと合点した。相撲を観る者からすれば神聖な土俵こそよく鍛えられた美しい姿で上がってもらいたいと願うはずだが。

   ”芸術の秋”というが、昨日は私が安全見守り当番を務める小学校で音楽会が開催され、私も招待を受けたので参観させてもらった。体育館のステージを使って各学年単位で全員による合唱と、器楽合奏が行われ、児童の熱演に大勢の保護者たちが盛んに拍手を送っていた。
   また、現在当地三鷹では1ケ月に亘って市民文化祭が繰り広げられているが、今日は邦楽演奏会が開かれ私も市民参加の部で尺八の演奏に加えてもらった。「六段」という曲の出演予定であったが、「さくらさくら」に欠員が生じたため急きょ2曲の出演となり、なんとか無事に演奏を終えてほっとしたところである。

  
 最寄の小学校の音楽会に招かれる      市民文化祭の演奏会に出演(写真右)

[日本語教師の中国滞在記] 北京編#37-エピローグ

  
北京で3ケ月の日本語教師生活を終えて帰国し、2日ほどはのんびりする間もなく不在中の郵便物に目を通し、取り急ぎその返信をしたり必要な処理で時間が過ぎた。その後久しぶりに井の頭公園や神代植物園を歩き、日本に帰ったことを実感した。
   主だった知人や関係先には北京から随時メール等で便りをしていたが、帰国後は歓迎会というか報告会というか飲み会や集まりが待っていた。やがて間もなく年賀状書きの時期となり、年末の日本の生活に戻って行った。

   最後に北京滞在記を簡単に振り返ってみたい。
   きっかけは会社時代の知人I.ヒロノブさんからのお誘いであった。ちょうど私が会社をリタイアしたタイミングで、北京(経済技術開発区実験学校)でボランティアの日本語教師を探しているのだがどうか、と言うのである。リタイア後に海外ロングステイをしてみたいと考えていたこともあり、北京の行楽シーズンである秋の3ケ月の任期で北京行きを決めた。日本語指導などの経験はなく、中国語は全く分からず、中国に知り合いが一人もいないという「ないない尽くし」の軽挙妄動であったが、中学・高校時代は国語が得意でもあったので「何とかなるさ」の気分で赴任した。
   中学を卒業後日本の高校に留学するまでの半年の日本語指導コース(日本留学班)の生徒は3人だけの家族的クラス。授業はいつしか主任教師のリュウ先生よりボランティアのはずの私の方が中心になって行った。ということは私の指導法はよかったのだと思うし、私も手応えを感じた。なせば何とかなったのだ。私の帰国後、3人はめでたく一緒に青森山田高校に留学できた。青森には会いに行く機会がなかったが、現在東京の大学に進学しているリー君とは交流しているところである。
   一方歴史遺産の宝庫である北京の観光の方は、日本語ガイド受験勉強中のハンさん(実験学校教師であった)の案内つき観光というこれ以上ない幸運に恵まれた。一人歩きも快適で、リュウ先生家族との旅行も含めて滞在中の北京(郊外を含む)観光は22日に及んだ。後で数えてみたら乗り降りした地下鉄の駅も22あった。市内地図1枚あれば日本人を北京の観光案内ができるほどである。
   食事は”中華料理”オンリーであったが、特に不自由することも飽き飽きすることもなかったし、お気に入りの料理にもありついたのでほぼ満足をしている。また北京オリンピック開催のお蔭で空がきれいだったし、地下鉄が整備され、都心部がきれいになっており、おまけに帰国後聞いた話ではその年は冬の訪れが遅く、それらの幸運が重なって滞在中は快適に過ごすことができた。多分現在なら、日中関係は悪化しており、PM2.5などの大気汚染が深刻化しているなどのこともあって今回のような満足感は得られないだろうと思うのである。

【想い出の写真-未掲載分】

①は日本の国会議事堂にあたる人民大会堂。天安門広場の西にあり全国人民代表大会などの議場になる ②孔子を祀る孔廟。屋根は皇帝用にしか使えない瑠璃瓦で葺いてあり、孔子の権威のほどが偲ばれる。 ③天安門にほど近い前門大街。近代的な商店街に大改装されていた。 ④頤和園の石の船。清朝末期の西大后がここで贅を尽くして清朝滅亡の因を成したという象徴的建造物 ⑤精華大学正門。北京大学と並ぶ中国の名門大学で、私が歩いた北京大学のすぐ近くにあったが、歩き疲れていて中には入らなかった。 ⑥市内の骨董市については紹介しているが、これは最大の骨董市に並べられた無数の骨董品の一例。値段はほとんど交渉次第で、日本人などは掘り出し物を買ったとすぐ騙される。

  
  北京の人民大会堂①             孔廟②               前門大街③

  
   頤和園の石の船④            精華大学正門⑤        山と積まれた骨董品⑥

今回を以て[日本語教師の中国滞在記]北京編を終え、少し時間をもらって次は2009年8月末から2010年12月までの間の山東省濰坊市での教師生活などを中心に濰坊編を連載する。 
     

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晩秋の裏磐梯旅行/日中首脳会談

2014-11-11 12:35:32 | 日記

   1泊旅行が3週続いて、一昨日~昨日は家内と晩秋の裏磐梯を中心に回って来た。8月に私の70歳の誕生祝の家族旅行をした時に息子たちから贈られたホテル宿泊券を利用した家内と2人でのドライブ旅行である。東北・福島の11月で、紅葉にはちょっと遅いかも知れないと思っていたが、ピークは過ぎていたもののヤマモミジやサクラ、カラマツをはじめとする落葉樹の紅葉・黄葉が陽に映えて美しかった。
   猪苗代湖や会津若松、また五色沼を代表とする裏磐梯そして磐梯吾妻スカイラインなどは学生時代に旅行をしたことがあるのだが、そのおよそ50年もの前の記憶を辿っての旅だった。往復700km、運転は家内と交代しながらで途中道路渋滞もなく快適であった。 

  
    磐梯山と神秘的なブルーの五色沼            檜原湖             会津若松城

   北京で開かれているAPEC(アジア太平洋経済協力会議)に出席する安倍首相と中国の習近平国家主席との日中首脳会談が昨日のトップニュースであった。首脳会談を実現することが目的の安倍首相とホスト国の代表として会わないわけにもいかない習主席。会談前に記者団の前で握手した姿は両者の立場がみえみえだった。愛想よく近づいて相手の笑顔を引き出そうとする安倍首相、不承不承会うので作り笑顔さえ見せない習主席。テレビで繰り返し映し出された、握手後すぐ顔をそらした習主席の冷えた表情が実に印象的だった。最近とみに関係が悪化している日中両国ではあるが、それにしてもその両首脳の人徳の薄さが見て取れる気がする。 

[日本語教師の中国滞在記] 北京編#36-ついに北京を去る日が来た

   11月末、3ケ月の任期で北京の実験学校に来てからいよいよ日本帰国を迎えることになった。帰国の朝は手荷物の最後のパッキングを終え、部屋を掃除して教室に向かった。教室では生徒たちがそれぞれ惜別の言葉、感謝を表すメッセージを黒板に書いてくれて記念写真を撮った。生徒たちの申し出でその日は授業を休みにして空港まで見送ってくれることになった。近くのホテルでリュウ先生夫妻による最後の昼食をいただき、ご主人の車で空港に送っていただいた。生徒たちはリー君の父親が車で空港に送ってくれた。こうして名残を惜しみながら空港でみんなと別れを告げ、15時30分発のJAL機に乗り込んだ。実験学校での3ケ月の日本語授業や北京観光などの数々の思い出を胸に、日本時間19時30分に成田空港に降り立った。

 
黒板に書かれた感謝と惜別の辞  車は一路北京首都空港へ  私の帰国を歓迎するかのように富士山が

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