フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

羽生選手絶体王者に成長/高齢の水泳の会

2014-12-29 20:29:03 | 日記

   絶体王者の地位確立の感がある。フィギュアスケートの羽生結弦選手のことだ。2014年の今年、2月のソチ五輪で金メダルに輝き、続く3月の世界選手権に2連覇。シーズンが変わって11月のGP中国杯で選手生命の危機も心配された激突事故を経て、12月のGPファイナルに断トツでの優勝、そして今回の全日本選手権で3連覇を遂げた。ソチ五輪優勝の時は何かまだ線の細さを感じたが、慢心することがなく苦悩やケガ・故障を乗り越えて堂々たる王者に成長して行った。 しかもまだ20歳である。これまで大黒柱として日本男子陣を引っ張り、先日引退を表明した高橋大輔選手も安心して後を託すことができるだろう。
・・・と書いたところで 羽生選手がアイスショーを欠場して腹痛の精密検査を受けることになったといい、羽生選手に迫る存在の町田樹選手が突然引退表明をしたというニュースに接した。いいことばかりとはいかないものである。

   今年最後の水泳練習日に最年長の女性会員が退会の挨拶にみえた。御年91歳、毎週熱心に練習に参加していたがこの2ケ月ほど欠席が続いたので、会の役員をしている私は気になって電話で尋ねた。もう年齢的に限界とのことであった。確かに90歳台で水泳の現役だったのはすごいことである。会員の誰もが納得はできるが、この方は年齢だけでなく性格も振る舞いもみんなの手本であり、残念がっている。私も大変寂しい思いをしている。
   因みにこの水泳の会は創設から30年、約40人の会員の内70歳の私より若い人は1人だけだ。平均が76歳くらいで80台がざらである。まあそれくらい高齢の水泳同好の集まりなのである。

   今年も残り2日、この後特筆する大事(おおごと)がない限りこれが最後の投稿になる。丁度150回目と、きりもいい。みなさん、よいお年を。

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#9-新入生が入学

   私の滞在生活の準備が整う間に新入生が入学し、新学年度が始まった。
   8月28日に私が濰坊市経貿学院に着任した翌日、新1年生の入学手続きが行われた。2009年の入学なので1年生というより09級生という。その手続きの様子を見学したらどうかと学校から案内があり、チョウ先生と07級生(3年生)2人が案内役で付き添ってくれた。後から分かったが2人はクラスの模範生であり、案内役として選ばれたのだ。私にとって初めての学生との出会いとなり、その後もなついてくれた。キャンパス内には学科ごとの手続きのテント・ブースが並び、さながらテント村を成していた。新入生は総勢で2千6、7百人である。
   そして週明け月曜の31日から1週間、新入生の軍事訓練が始まった。キャンパス内では迷彩色の制服を着た新入生が隊列行進訓練などを繰り返しているのが目に付いた。中国は国民皆兵制ではないと思うが、団体生活の規律を教育するためのものなのだろうかついぞ聞くことがなかった。
   日本語科の1年生は47人で1クラス。1年間教室と席が固定され、放課後も教室に入って自習などが自由にできた。前期、1年生の受け持ちはモリキさん(私は2年生2クラスの受け持ち)だが、モリキさんの呼びかけで夜みんなが集まっている1年生の教室に行き、2人で自己紹介をした。この時、日本語の実に達者な男子学生が話しかけて来た。リー・イー君だが、彼は7歳のころから日本語に興味を持ち勉強をしていたと言う。名前の字は「毅」と書き、自ら「タケシ」と名乗った。好青年で以後モリキさんはタケシ君を自分の授業の助手として位置付け、公私に亘って彼と行動を共にするようになった。

     
   入学手続きの”テント村”     新入生の軍事訓練風景   既に日本語が達者なタケシ君(右) 

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ハイタッチで「よいお年を」/歌舞伎見物

2014-12-26 22:19:36 | 日記

   昨日は2学期の終業式。通常金曜の午後にある小学校の安全見守り当番が木曜日の昨日に当った。正午に午前番と引き継いだ後、12時半から児童たちの下校が始まり、1時間足らずでみんな帰って行った。普段私は下校時に正門で児童に「さようなら」の言葉をかけて見送るのだが、昨日は年内最後なのでハイタッチの手を出しながら「よいお年を」と声をかけた。すると大半の児童がそれに応じてタッチをして帰って行った。私の背丈の半分くらいな一年生がモミジのような手でタッチをしてくれたり、わざわざ手袋を脱いで手を合わせてくれたり、とても嬉しい見送りになった。ありがとう、よい子たち。改めてよいお年を。

   今日家内と国立劇場での歌舞伎見物に出かけた。前に紹介したことがあるけれど、私の親しい知人(中国滞在記でヒロノブさんとして登場)のお嬢さんが文化庁で日本の伝統芸能の部署にいる縁で招待いただくのだ。今日の出し物は「伊賀越道中双六」・・・と言ってもお分かりならないかもしれないが、剣豪荒木又右衛門の伊賀上野の仇討に題材を取ったものである。主演は中村吉右衛門、ほかに尾上菊之助、中村歌昇、中村又五郎など。荒木又右衛門と言えば荒事(活劇)を想像するが浄瑠璃を基にした人情話であった。この演目は初代吉右衛門の当たり役に当代の吉右衛門が挑む、と解説に書いてあったが、しばし華やかな舞台を楽しませてもらった。
 

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#8-授業開始前、長期滞在の準備や手続きを

   経貿学院に着任後一週間は主に長期滞在するための準備や手続きに充てられた。外国人教師の世話を担当するソン事務主任の案内によって警察の公安局で居留手続きをし、「外国人専門家証」という身分証明証が給付された。手帳サイズで日本のパスポートより一回り小型、これに「本証を持つ者には中国政府によって外国人専門家の利便と待遇を与える」と記され、中国人と同等の処遇が謳われていた。
   健康診査にも連れて行かれた。検査の主な目的は国外から有害な疫病が持ち込まれるのを防ぐためで、街なかのかなり大きな病院で行われた。しかし検査設備は日本の病院に比べて格段に見劣りがし、検査そのものもいい加減であった。型通り身長・体重測定や血液・尿の採取は行われたが、血圧とか視力とかかなりの項目を白衣のドクターが自分で適当に書き込んでいた。日本では考えられないことで唖然としたが、おかげで検査は短時間で済んだ。また銀行に行って中国元との両替をしたりした。
   個人的なものについては例の日本人会のボスを自称するサトウ氏が中国人の助手を通訳にして、携帯の端末の購入とか加入手続きに世話を焼いてくれたり、日本語科のチョウ先生が市内の大きなスーパーに案内してくれて、洗面道具やキッチン用品など生活必需品を買い揃えたりした。日本から発送した荷物も届き、宿舎の中の模様替えを行うなどして滞在生活の準備が整った。
   そして大学主催による外国人教師6人の歓迎会が催された。教職員用食堂の奥に個室があってそのパーティールームで以後折々に外人教師が招かれてパーティーが開かれた。こうした会の食事は豪華なものであったが、肝心のビールが冷えておらずこれには閉口した。中国では「冰的(ピンダ)」と言わない限りビールは常温なのだ。このことは以後もしばしば困惑するところとなる。
   こうしていよいよ経貿学院での教師生活がスタートをする。

    
     外国人専門家証の表紙    6人の外人教師と学科主任の先生たち

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年の瀬に/ナッツ・リターン

2014-12-23 20:19:38 | 日記

   年の瀬もいよいよとなった。 昨日は冬至、今日は天皇誕生日、そして明日はクリスマス・イブ。各地で吹雪や大雪に見舞われいる中、東京地方は幸い天気に恵まれている。年賀状は我が家のプリンターで印刷する時に故障で出鼻をくじかれたが、思いのほか早く代替え品が届いて、既にほとんどは投函済みであるし、大掃除も私の持ち分を昨日今日で終えた。今はもう迎春の気分である。一方、家内の方はそんな私を尻目に相変わらず水泳に、バドミントンにと飛び回っている。まあ毎年のことでギリギリ年内に滑り込むタチである。
・・・・と書いていたところへ大分にいる家内の兄がなくなったとの知らせが入り、急きょバドミントンの大会に出場中の家内を呼びに走った。取りあえず家内は明日早朝に大分に発つことになったが、これで年賀状を書くことはなくなった。家内の持ち分の大掃除はどうなるかは分からない。私の方は迎春の気分が飛んでしまった。 

  「ナッツ・リターン」事件が大騒動に発展している。機内サービスのナッツを袋のまま出されたがマニアルとは違う、と激怒したファーストクラスの客が旅客機をゲートに引き返させた。これが「ナッツ・リターン」。大きな騒動になった原因はその客が大韓航空会長の娘で副社長の趙顕娥(チョウ・ヒナ)さんであったことだ。会社の肩書を笠に着て乗務員を怒鳴り散らし、挙句は強権で飛行機を引き返させ責任者を下ろして再出発させたという。12月5日のニューヨーク・ケネディ空港での出来事だった。オーナー企業の二世幹部の横暴ということで韓国内で猛烈なバッシングを受け、国際的な話題に発展した。批判は大韓航空にと止まらず、韓国の大企業の二世三世の行状にまで波及している。韓国では富める者の横暴がまかり通り、一方そうでない層の人たちは怨嗟や妬みが積もっていて、ここで一気にそれが噴出したものと推察している。火事場見物には面白いけれどね・・・。 

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#7-日本語科

   私が配属された日本語科は前号で紹介したように応用外語学部の中の一つの「商務日本語科」(ビジネス日本語科、と訳される)。1学年50名ほどで、赴任した時の1年生は1クラスで47人、2年生が2クラス53人、3年生は2クラスで60人であった。因みに学年は入学年度で呼び、この時の3年生は2007年入学なので07級、2年生は08級というように呼んでいる。
   教師は中国人4人と日本人2人で、日本人教師は主に口語、いわゆるオーラル(会話など)を担当する。日本でも外国語系学科は女性に人気があり女子学生の比率が高いが、中国でも同様のようで日本語科では女子が85%くらいを占めていた。
   もう一人の日本人教師モリキさんは広島の出身で大学は東京。アメリカにホームステイをしたことがあって英語は堪能、かつ中国語も日本で中国語学校に通っていてかなり出来る。40歳、独身のナイスガイである。会社時代の後輩が先に濰坊市の日本語学校に来ていて、その手引きでやって来たとのことだ。
   日本語科の教室は宿舎のマンションの道一つ隔てた建物(教学楼=教室棟)の2階と3階にあり、歩いて1,2分の至近距離。実に便利で楽であった。後に学生たちが私の部屋へ気軽に立ち寄ってくれるようになった大事な因子でもある。
   2009年前期は私が2年生(08級)2クラスで計週4コマの授業を受け持ち、モリキさんは1年生と3年生を受け持った。1コマは10分の休憩を挟む2時限(1時限は45分)で計100分の授業である。学校の時間割は午前が8時または8時半から4時限、昼食休憩が夏期は2時間、冬期は1時間半で、午後はまた4時限である。夕方6時からの授業もあった。朝のスタートが違うのは一斉に学生食堂に駆け込まないよう2段階に分けているのだ。また昼の休憩時間が夏冬違うのは冬は日没が早いためである。北京編の実験学校の話の中でも紹介したが、昼休みにはみんな昼寝(午睡)をする。私はそれには馴染まず、昼の休憩は1時間にして早く終る方が望ましかった。
   日本人教師については授業は自由裁量で、決められたものはなかった。しかし学生たちは「新標準日本語会話」という教科書を買わされており、目を通してみるとなかなかよくできているのでまずはこれを中心にして授業を進めることにした。授業の時間ごとにテーマ、授業目的や方法、その効果などを書いた教案書というのを提出しなくてはならなかった。しかしそれはほとんど形式に過ぎず自由にやらせてもらった。

   
      教室のある教学楼     これが日本語科の教師たち         教室での授業風景  

写真の教師は左からトー先生、ホー先生、モリキさん、私、バオ先生(学科主任)、チョウ先生 
トー先生は日本の大学を卒業していて日本語は抜群。ホー先生は済南大学で日本語を専攻した。バオ先生とチョウ先生の経歴は覚えていない。以上がフルメンバーである。  

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寝台特急「富士」の思い出/冬籠りの神代植物園

2014-12-21 18:08:57 | 日記

   20日で東京駅が開業100周年を迎えたという。その記念行事の一つとして19日一日限りで寝台特急「富士」が運行されたとの記事が写真入りで載っていた。ブルートレイン・ブームを起こした寝台特急は来年には全て消え去るようだが、この「富士」は私には大変思い出深い。46年前、社会人となった第一歩は寝台特急「富士」から始まったのだ。
   本社で新入社員教育を受けた後、東京駅で家族等の見送りを受けて「富士」に乗り、配属先である大分県の工場にある研究所に赴任した。19人の新入社員の内4人が同じ任地。日が暮れかかった午後6時半頃に発車、途中深夜で人気(ひとけ)のない名古屋駅のプラットホームを見た時には無性に寂寞感に襲われた。夜が明けると山陽本線で、瀬戸内海をかいま見ながら初めての九州に入ると列車の走りはのんびりして来た。隣りを走る国道の車に追い抜かれるような速さだし、停車駅に近づいても人影がまばらである。そしておよそ18時間を要して桜が散り始めた赴任先の駅に着いた。その後も出張などで利用したことがあり想い出深い列車である。

   日曜の昼下がりに神代植物園を歩いた。陽が差して数日前のような厳しい寒さはないが、来園者は影も少なかった。歳の暮れ、園内も冬籠りに入りこれからしばらく花は乏しくなる。

  神代植物園冬籠りの風景  (上左)梅林、(上中)ケヤキの大木、(上右)武蔵野の雑木林、(下左)冬の風物詩である雪吊り、(下中)パンパスグラスと枯れ芝生、(下右)早咲き種のツバキが咲いていた
               
          

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#6-経貿学院の紹介  

   今度日本語教師として着任した山東経貿学院は経済・貿易分野専攻の3年制大学で、「本科」と呼ばれる4年制と区別して「専科」または「大専」と呼ばれる。幾つかの学部がある中の一つの応用外語学部には英語科、韓国語科それに商務日本語科の3学科があり、それぞれ外国人(ネイティブ)教師が2人ずつ置いていた。
   全学で9千人と大学案内には書いてあるが実数は8千人位であろうか。教職員は約500人、ユーティリティー・工務部門などの職員も合わせてキャンパスはざっと1万人の世帯である。
   学生は原則的に山東省内の出身者で全寮制、キャンパス内に男女別合わせて10棟以上の学生寮があった。教職員マンションは6階建てで単身用、家族用の部屋があるが、市内から通う人も結構多い。私は1階の角部屋を与えられた。多分年齢(当時65歳で学内では断トツの最高齢)が考慮されたものと思う。
   キャンパスの施設として学生大食堂が3ケ所、教職員食堂およびフードコートがあった。学内スーパーは大きくないが、一応日用品や日頃の食べ物は(酒類も)間に合った。文具店や理容所、写真屋、携帯ショップ、ATMなども別にあって、学生はキャンパス内で何とか生活はできるようになっている。ただ、大学案内に書いてあった郵便局や映画館などはなく、これは”誇大広告”であった。
   中国の年度は欧米と同じで9月開始、2学期制でその間に春節休暇(日本の冬休みに相当)と夏期休暇の長い休みが入る。キャンパスは濰坊市の中心街からバスで7,8分の距離、、新幹線も停まる濰坊駅から徒歩15分ほどで、大学正門を始発とするバス路線が2本あって交通の便もよかった。

    
         大学正門             瀟洒な濰坊駅駅舎         市中心部の商店街
    
    
キャンパス内の学生寮    教職員マンション        学生大食堂         学内のスーパー

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吹雪で震える日本列島/「夢の細胞」はやはり夢か?

2014-12-19 18:33:32 | 日記

 日本列島が雪で震え上がっている。東京は寒さが厳しいものの晴れているが、北海道から西日本までの広い範囲で雪の被害が出ている。特に北海道では大型台風並みの低気圧による猛吹雪に見舞われているのだそうだ。今年は強大な台風の襲来を受けたし、集中豪雨による土砂災害や竜巻など気象の荒れ方が異常に思える。御嶽山の噴火や長野北部の地震など地下活動による被害も発生した。何かが起こっているのか。その割には民に背くような選挙を強行した報いは起きず、安泰選挙に終わってしまった。

   「夢の細胞」はやはり夢だったようだ。理化学研究所の小保方晴子さんらによる「STAP細胞」の論文が権威ある科学誌ネイチャーに掲載され、一躍「夢の万能細胞」ともてはやされたが、その後論文に多くの疑問が出て来て再現試験を続けていた。その結果STAPの存在は確認できず、理研は検証実験の打ち切りを発表した。「驚くほど簡単にできる」ことが”売り”であったはずが、これだけ大掛かりな実験でも確認できなかったのだから、小保方さんが「STAP細胞はあります!」と叫んでもやはり間違いまたは虚偽だったのであろう。オボちゃんに夢を見てたのだが残念である。  

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#5-山東省濰坊市に着任

  
8月27日、成田を10時に飛び立った飛行機は11時50分(中国時間:日本時間より1時間遅い)に青島空港に到着した。空港には山東経貿学院のソン事務主任と日本語科のチョウ先生それに地方政府の代理人として日本人のサトウ氏が迎えに出ていた。ソン主任は外国人教師の世話を担当している。チョウ先生は美人の誉れ高い独身の教師だ。そしてサトウ氏はヒロノブさんがシゲルさんと私の赴任先を折衝する時に同席した人で、奇しくもヒロノブさんとシゲルさんのK大の先輩であった。ヒロノブさんからはちょっといわくがありそうな人物との報告が入っていた。
   経貿学院のある濰坊市まで高速を飛ばして約2時間、途中昼食を挟んで大学に向かった。車中では隣に座ったサトウ氏がずっと話しかけて来た。自分は日本では名家の出であること、濰坊の日本人界のボスであること、地方政府や警察には顔が利くから困ったことができたら相談してくれとか。そう話しながら名刺帖を取り出してやたら”コレクション”をひけらかす。いずれ、この連載の中で何度か登場すると思うがヒロノブさんが伝えるところの人物像が早々に透けて見えた。
   経貿学院に着くとすぐ宿舎となる教師用マンションの部屋に案内され、荷物を解く間もなくサトウ氏の呼びかけで今年新人の日本人教師が数人集まって飲み会と相成った。シゲルさんは私より1週間早く着任しており、奥様も一緒に参加された。
   こうして山東省での日本語教師生活がスタートした。
   
  山東省の空の玄関 青島空港      経貿学院に到着     早速市内の日本人教師が集まる

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