フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

サクラが一気に満開に 

2015-03-29 22:12:59 | 日記

   今日、上野公園で満開のサクラを観て歩いた。この5月に中国人の知り合いが結婚したばかりのご主人のいるニュヨークに行くというので、食事をすることになっていたが、食事の後花見に誘ったのだ。丁度前日の新聞夕刊に上野公園のサクラの記事が出ていて、満開は”保証済み”であったのだが、その人出の多さは例年のことながら凄かった。 ”サクラ銀座”に行き交う人の波、指定の花見ゾーンに敷き詰められたブルーシートの上での花見の宴・・・いつもながらのお馴染みの光景であった。中国人の彼女も会社の職場で花見に誘われるようだが、職場の女性は嫌がって「ノーサンキュー」なのだそうだ。夕方には雨が降る予報だったので別れを惜しんで少し早目に家路についた。

      
     サクラ銀座に人・人・人の波   お馴染み、花見のブルーシート  米国に発つウーさんと 

   昨日は神代植物園恒例の「さくらコンサート」を聴きに行った。春を通り越して初夏のような陽気で、途中私はジャンバーを脱いだ上に長袖のシャツをたくし上げたりしたが、ソメイヨシノの方はほとんど蕾が開いたばかりのところであった。園内には多くの種類のサクラが植えられており、名物のジンダイアケボノ(神代曙)などが見頃を迎えていた。この日のコンサートはウクライナの民族楽器バンドゥーラの弾き歌いであった。ちょっと琵琶に似た形で63弦の楽器の繊細な響きと大そう美人の奏者に大勢の聴衆もうっとりとしていた。このコンサートは今朝の朝日新聞にも写真入りで紹介されていた。

     
    満開のジンダイアケボノ     ウクライナ美人の弾き歌い   コンサートには大勢の聴衆が
           

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#37-中国での正月

   12月28日から30日まで、3日間かけて2年生2クラスの期末試験を終え、気持ちがすっきりしたところで正月を迎えた。しかし承知の通り、中国では春節(日本の旧正月)が正月で、以前にも書いたが日本の正月とは比較にならないほど盛大に祝う。ところが(それが当然か?)1月1日の元旦やその前後は気が抜けるくらい何もなかった。祝日でもないので、学校では1日の元旦だけが”臨時休校”という寂しさであった。
   日本の大晦日の31日には日本語科のトウ先生の結婚式があり、これに出席した。出席する学校関係者は学校からバス2台に分乗して式場に向かった。(中国の結婚式にはこれを含めて滞在中に3回出席する機会があったので、後日それらをまとめて紹介したい) 結婚式から帰って、夕方近くにケイ・ショウロとヨウ・ハイジエのコンビがやって来た。私はせめて正月らしく初日の出を拝みたいと思っていたので、学校からほど近い富坤大酒店というホテル(写真②)の高層階に部屋を予約するため2人に同行を頼み、その後年取りの食事を付き合ってもらうことにした。中国では初日の出を拝むという習慣はなく、「初日」そのものの概念がなかった。ホテルには目的を説明して18階の東向きの部屋を予約した。市内でも2番目くらいに高い建物なので、この階なら視界を遮るものはない。料金も閑散期の平日と一緒で2千円くらいだったと思う。 予約を終えてジャスコまで歩き、フードコートに入ったところで2年1班のリー・ギョクキョウとオウ・ショウヒの2人に出遭った。リーさんとオウさんは宿舎によく訪ねてくる4人組の中のメンバーで、2班のケイさん、ヨウさんとはお互いに顔見知りではなかったが一緒に食事することにした。それぞれがお好みの食べ物を取り、それをみんなで分け合って食べた。大晦日の食事としては簡素過ぎるが、でもまあお蔭で賑やかな年取りにはなった。その後4人は元の2組に分かれてネットカフェで夜を明かすことになり、私はホテルに戻った。
   翌元旦はモーニングコールで起きて、ホテルの窓から中国の初日を拝んだ。太陽は既に目覚めた街の朝もやの中で辺りを赤く染めながら昇って来た。(写真①) やはり一年の始まりの気持ち新たまるシーンである。
   朝食を済ませ、ホテルの目の前にある人民公園をちょっと歩いてみた。まだ時間が早く散歩する人はいない。池には分厚い氷が張っていて、上を歩いてみたがびくともしなかった。(写真③) ゆっくり目のチェックアウトをしてホテルを出ると、一瞬にして日常の光景に戻った。そこは、1月1日とは思えない普通の金曜日の街の姿である。(写真④) これが私の中国での2010年の年明けであった。

   
          ①                ②             ③               ④     

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卒業式に出席/また航空機事故

2015-03-26 21:55:27 | 日記

    昨日は最寄りの小学校の卒業式に招かれて出席した。日頃はそこで安全見守り当番をしているが、昨年のブログにも書いたようにその立場ではなくて民生・児童委員としての”来賓”であった。因みに見守り当番の方は、今まで紹介したことがなかったようだが正式には「三鷹学校安全推進員」と言い、愛称は「スクール・エンジェルス」、児童からは「エンジェルスさん」と呼ばれている。そのため他の来賓の方々とは多少児童との馴染み方が違い、”卒業生”の晴れ姿に感慨ひとしおであった。
   式典は体育館で行われ、国歌「君が代」斉唱で始まった。卒業生は132名。我々の頃と違って「蛍の光」や「仰げば尊し」などの歌はない。また送辞と答辞に代って、卒業生の全員が声のリレーで在校生や先生、保護者たちに「言葉の贈り物」があり、この趣向には目頭が熱くなった。振り返って我が小学校の卒業式・・・何も覚えていない。もう58年も前のことである。

   ドイツのLCC(格安航空会社)の旅客機墜落事故にハッとした。スペインのバルセロナからドイツのデュッセルドルフへ向かう途中フランスの山中に墜落し、乗員・乗客150人全員が死亡したと伝えられている。デュッセルドルフには多くの日本企業が進出しており、日本人駐在員も多い。私が会社現役時代に注力商品のヨーロッパ進出の拠点としてデュッセルに駐在所を開設をしており、「もしや」と頭をよぎったのだった。それは取り越し苦労に終わったが、やはりデュッセルを駐在の日本人が犠牲者の中にいた。デュッセルドルフには駐在所探しやオープニング・セレモニーなどで何度か行って、日本企業の駐在員ともお付き合いをさせてもらった。それにしてもこのところ大きな航空機事故が続くなあと思う。 

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#36-期末試験

   経貿学院の学年前期は1月末であるが、09年度は”新型インフルエンザ”(今で言う鳥インフルエンザ)のため国慶節の休暇を返上したので1週間繰り上げとなった。それだと期末試験は1月10日前後ということになるのだが、私は冬休みの日本帰国のためそれより早い12月末の実施が認められた。新型インフルエンザについては前に書いているが、国慶節の休暇返上については失念していた。中国では会社も学校も春節に次ぐ長期休暇となるのだが、インフルエンザの感染拡大を防ぐため学生たちの帰郷や旅行を禁じ、10月1日だけ休みにして休暇を返上していたのである。(その時点では私は学校から何も知らされていなかった) 
   期末試験についてはペーパー試験1発では安易すぎると思い、筆記試験に加え会話試験(2回)および日常の授業点を加味して総合点を付けることにした。筆記試験は学年同じ問題とするため2クラス合同で行い、会話試験は各クラス別の日に2回(短い会話とやや長い会話)実施した。相棒のモリキさん担当の1年生は1回のペーパー試験だけだったが、私は手間はかかるがこの方法が良かったと自負している。とlころで筆記試験の前夜、生徒の一人が試験に出そうな問題について「分からないので教えてください」と電話して来た。それを試すのが試験だろうが・・・と思って勿論教えなかったが、市内の別の大学で教えているツチヤさんから試験の成績が出世を左右する中国ではあり得ることと話していた。
   試験の結果、両クラスのトップは同点でしかも合わせて同点者が6人いた。そしてその内一人を除いて全員が研修生として来日している。

写真左は2クラス合同の2年生の筆記試験。53人全員が揃って受験した。写真右は採点表。会話試験Ⅰ、同Ⅱ、筆記試験、授業点が細かく採点や評価がしてある。(表の罫線など写真処理技術の関係で見づらいが)

         

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また白鵬の優勝そして楽しみな若手

2015-03-23 09:34:40 | 日記

   大相撲春場所(大阪)はまたまた白鵬の優勝で終わった。34回目の優勝、2度目の6連勝である。他の横綱の鶴竜は休場、日馬富士は前半で早々に優勝争いから脱落、3人の大関陣に至っては二桁勝利すら挙げられないクンロク揃い。白鵬の姿勢の問題でちょっと批判の風が吹き、白鵬は報道陣にダンマリでへそを曲げていたようだが、今の大相撲は白鵬がいなくては成り立たない。断トツの存在である。
   そんな中でも楽しみな若手が出て来た。この場所新関脇の照ノ富士である。場所前から期待の声は上がっていたが、初日から快進撃で7連勝し優勝争いに加わった。13日目に全勝の白鵬をも破っての13勝2敗は立派なものだ。私も何日かテレビ中継を見たが、二本差されての不利な体勢からの堂々たる勝ち方に「これは凄い」と思ったし、放送するアナウンサーと解説者が唸る強さであった。勝った後の顔や仕草が可愛らしい。
   昨年は新入幕の場所でいきなり横綱・大関を破っての13勝で一気に関脇に昇進して”怪物”旋風を巻き起こした逸ノ城も楽しみである。この2人がモンゴルから一緒に日本に来た、というのは今日の新聞で知った。人気の遠藤は今場所ケガで途中休場したが、これからこの二人と大相撲を担って欲しいと思うのである。 

   春本番のソメイヨシノ(染井吉野)開花の便りが聞かれるようになった。神代植物園ではウメ(梅)がピークを過ぎたものの、春本番の前座と言っては失礼な花々で賑やかになっている。

    
      ボケ(木瓜)      シャクナゲ(石楠花)     クリスマスローズ    ハクモクレンン(白木蓮)    

   
  レンギョウ(連翹)      カタクリ(片栗)      トサミズキ(土佐水木)  ゲンカイツツジ(玄海躑躅) 

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#36-ケイさん&ヨウさん

    学生が次々宿舎に訪ねてくれるようになっていた中、12月に入った日曜日にケイ・ショウロとヨウ・ハイジエという2人の2年生が昼食を作りに来てくれた。この2人はいつも教室の最前列左隅の席に並んで座っていた。揃って成績はよく、その後実施した期末試験では学年2クラスの6人同点のトップであった。彼女らはルームメイトではなく、共に他の学部の学生の部屋にポツンと1人でおり、郷里も濰坊市から遠い内陸の方であったそんな境遇から結びついたことを後で教えてもらった。とにかく2人はいつも行動を共にし、極端に言えば寝る時とトイレ以外は一緒だと言っていいくらいなのだ。私から見ると一卵性双生児以上の仲良しであった。
   昼食を作りに来るというのでモリキさんにも声を掛けた。2人はそれを聞いた時困った顔をした。イヤだったようで、以後私はモリキさんに声を掛けることをやめることになった。ともかくその日はモリキさんが食事をして帰った後も2人は夕方まで宿舎で過ごした。これを契機にケイさんとヨウさんは頻繁に遊びに来るようになった。2人なのでこちらからも買い物や手伝いなど何かと頼み易かった。なにせいつも一緒にいるから相談して連絡するということがない。返事は即決なのだ。濰坊に滞在中は多くの学生に囲まれて楽しく有意義に過ごすことが出来たが、中でもこの2人は一番の功労者だと私は感謝をしている。彼女たちも私の帰国後に研修生として日本に来てくれて、「大学生活の恩人であり、今は日本の父さん」と言った。教師冥利に尽きる言葉である。

   
初めての食事作りのキッチンで     その後もよく食事を       3人で散歩にも出かけた

 

 

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校庭外に出たボールによる事故責任は?

2015-03-20 22:43:33 | 日記

   今日の新聞(朝日)に『校外へボール、バイク転倒  子への監督責任両親異議  最高裁弁論』という見出しの記事が載っていた。小学校の校庭から蹴り出されたサッカーボールをよけようとした80代の男性がバイクで転倒して足を骨折、その影響で認知症の症状が出て約1年半後に肺炎で死亡した・・・という事故に遺族側が約5千万円賠償を求めて訴訟を起こした。ボールを蹴った児童の親の教育が不十分だという主張である。一、二審の判決では親の指導義務を認めて賠償支払いを命じたことに対して両親が最高裁へ上告していた。その弁論で遺族側および両親の主張を載せた記事であったのだが、私は大いなる関心を持って読んだ。再々このブログに書いているように、私は最寄りの小学校で毎週安全見守り当番をしている。三鷹市では「学校あそび広場開放」(通称校庭開放)として一定の時間と条件のもと、小学校の校庭を児童の遊びに開放している。時間は放課後の1.5~2.5時間(季節と曜日によって異なる)、監督は先生ではなく保護者が当番で世話人を務める。私が当番している学校では遊びはサッカーが圧倒的だ。幅6メートルほどの校門は車が往来する道路に面している。小学生のキックでボールが門を飛び越えることはないが、転がって出る可能性はあり、かつて道路に飛び出たことがあったようだ。校門はまだ下校の児童が通るので一部開けてあるため、現在では世話人が開いている部分の内側に幅180センチのネットを立てている。私もこのネットの立て方を注意深くチェックしている。
   前置きが長くなり過ぎたが、児童が蹴ったボールが門の外に出た事故の責任は親の教育不足にあるのだろうか。記事にはこのケースの状況が詳しく載っていないが、児童が事故が起こるかも知れないことを知った上で面白半分に蹴り出した(未必の故意)のなら親の躾けも問われようが、そうでないとすればそういう危険が予想できる場所でサッカーをさせていた学校の管理・監督責任になるのではなかろうか。私も毎週校庭開放でサッカー遊びに夢中になる児童の姿を見ており他人事ではない。   

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#35-中国語の家庭教師

   一人でジャスコの店内をぶらぶら見て歩きをしていたある日、ヨーロッパ製高級調理具のショーケースを覗き込んでいると「いかがですか?」と店員から声を掛けられた。私が日本人であると分かったのだろうか。30歳ちょっとの美人さんだった。かなり上手な日本語だったので、どこで覚えたのかを聞いたら兵庫県の製麺会社の研修生だったと言う。名前はハク・シュウエイと名乗った。私も日本語を教えに来ていることを話した。それから1週間ほどした買い物の時にその売り場に寄ってみると何人もの店員が興味深そうに集まって来て日本語を聞きたがっていた。その時逆に私はハクさんに中国語を教えて欲しいと頼んでみたら二つ返事でOK、彼女の非番の時にジャスコの店内のフードコートのテーブルで”授業”を受けることになった。学生の家庭教師の相場は2時間で50元(当時の為替で600~650円)だったが、彼女は社会人でもあるので70元でお願いした。”授業”は教科書などで進めるのではなく、私の質問に答えてもらう形を主体にした。彼女からは日本人が苦手とする中国語の発音を厳しく指導してもらった。ジャスコの彼女の職場はほどなく閉鎖となって転職し、私は冬休みに入って長期の中断となったため”授業”は10回ほどで断ち切れになってしまった。滞在中続けていたら結構中国語が上達したように思うと残念である。ただハクさんとはその後も親交が続き、彼女の叔父さんが社長をしていた研修生派遣会社を紹介してもらい5人の私の教え子がお世話になって日本にやって来た。また日本に研修中だった彼女の姪の紹介を受け、私が日本帰国後に東京見物などのお世話をさせてもらったし、ハクさん並びにその姪のケイ・コウエンとは今でもメル友である。

  
    ジャスコの売り場で       転職後のデパートを訪ねる   家に招かれご家族と一緒に   
  

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スキー競技W杯 日本選手の活躍/ウメが満開

2015-03-17 17:25:12 | 日記

   今日は汗ばむほどの陽気、日中20℃を越えたようだ。 今、神代植物園ではウメの花が真っ盛りである。早咲き種はピークを過ぎているが、他の品種のウメの木が一斉に咲き誇っている。しかも今年はいつもの年より見応えがある。(写真下:ウメの花の写真はサクラと違ってどうも見栄えがしない。損な役回りである)

     

 ウィンタースポーツであるスキー競技で日本人選手の活躍が相次いで伝えられている。3月になって各地転戦方式のワールドカップが終り、その総合成績でのことだ。
   フリースタイルスキーのハーフパイプでは小野塚彩那選手が初の種目別女王に輝いた。まるでスキーの曲芸のようなこの競技、日本ではまだ練習環境も整わずハンディを背負っての大健闘と言える。小野塚選手は新潟県の石内丸山クラブ所属とあるが、小野塚姓は私の母の実家と同じで、石内丸山は私の学生時代にお気に入りのスキー場の一つであった。
   ジャンプ女子の高梨沙羅選手は総合3連覇は逃がしたものの終盤に4連勝して総合2位となり、引き続き世界のトップクラスとしての存在を示した。前年度は18戦15勝という圧倒ぶりだったが、ソチ五輪で失速しその後調子を落してからの復活劇と言える。
   ノルディック・スキーの複合では渡部暁斗選手が最終戦を逆転勝ちして総合2位となった。渡部選手はこれで4シーズン連続でW杯総合3位以上に入っており、押しも押されぬ世界のトップスキーヤーだ。
   総合では上位には入らなかったが、ジャンプ競技の”レジェンド”こと葛西紀明選手の活躍も印象に残った。
 

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#34-英語科の学生との交流

   日本語科の学生たちとの教室を離れた交流が進んでいたが、学内の他の学生との交流もあった。日本語科の学生が寮の他の学科のルームメイトを連れて私の部屋に遊びに来ることがあったほか、なぜか英語科の学生と縁があった。写真左は以前登場しているが、私が公園で尺八ライブをしていた時に知り合いその後宿舎にも訪ねてくるようになった3人。キャンパス内で出合うことはなかったが携帯メールで連絡を取っていた。写真右の2人は朝の学生食堂でよく一緒になることがあって顔見知りになり、宿舎にも訪ねて来るようになった(写真の右はモリキさん)。写真はないが、もう一組あった。キャンパス内で「日本語の先生ですね?(英語で)」と声を掛けられた。それから3人が訪ねて来てくれた。この3人は日本の名前を付けて呼んで欲しいと面白いことを言う。そこでそれぞれにもっともらしい日本の女の子の名前を付けてあげたらキャッキャと喜んでいた。(付けた本人の私が忘れてしまって後で困ったのだが)
   因みに彼女らとの会話は中国語交じりの英語であった。英語を学んでいるこれらの学生たちは異国の人と親しみたい気持ちがあるのだろうか。日本語科の学生が米人や韓国人の先生を訪ねるという話はついぞ聞いたことがない。
   その内私は日本語科の学生以外の交流に気が回らなくなり、こちらの方からは声を掛けなくなって自然と遠のいて行ってしまった。 

     

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