大学3年だった1966年の7月10日に東京を発ち、翌11日生まれて初めて北海道の土を踏み、旅行をしながら15日に目的地の網走郡津別町に着いた。これから約ひと月、丸高木産工業で研修をすることになる。
尚、盲腸の手術で出遅れた相棒の元木が合流したのは8月6日、研修の終わる1週間前であった。
【津別町と丸高木産】
津別町は人口5千人程度の小さな町だったが、周囲には美幌峠、屈斜路湖、阿寒湖、摩周湖など観光スポットに恵まれたロケーションにあった。町を少し外れると牛の放牧場があったり、小高い丘に上がると甜菜糖畑が広がっていた。
一方丸高木産は北海道材を使った合板メーカーで従業員が500人ほど。町には社宅や共同浴場、更には津別病院を経営するなど、文字通り津別町の経済・産業の屋台骨であった。
【研修】
研修は到着翌日の7月16日(土)から始まった。その内容は合板の製品倉庫での受入れ~仕分け~保管管理~出荷の一連の業務で、職人気質のベテラン酒井さんとの2人作業であった。
製品は合板いわゆるべニア板だがほとんどが輸出向けで、シナ、セン、タモ、カバなどの北海道材の高級品であった。樹種や寸法、張り合わせ枚数などにより30~40種ほどある製品を即座に見分けるところがポイントであったが、「研修」と言っても、ほぼアルバイトに近かった。
【寮生活】
独身寮は工場敷地内にあり、職場となる製品倉庫までは歩いて3分くらい。寮生は20人ほどいただろうか。朝・昼・晩の3食を食堂で食べる。食事の内容や食費負担など全く覚えていない。二階建てで、6畳間の2人部屋が与えられ、相棒の元木の参加が遅れたのでしばらくはゆったりであった。テレビやマージャンなどは娯楽室で。
寮生同士の揉め事は見られなかったが、一度ストームに襲われたことがある。酒に酔った何人かが徒党を組んで深夜の部屋に乱入して叩き起こすものであり、逆らうと大荒れになるので静かにやり過ごした。
【交流】
寮では大卒新入社員3人と仲良くなった。北海道大卒の川田さんと東京の私大卒の2人。実はたまたま私の研修初日(土曜)に母校大学から北平教授を始め助手や4年生一行が見学に訪れた。その晩の懇親会に私も招かれて泊りがけの朝帰りとなった寮でその3人と出くわし、今日これから事務所の女性達と合ハイがあるけど参加しない?と誘われたので参加させてもらった。私を含めて男4人、女生6人で小清水原生花園などを回り、その時初めてハマナスの花を見た。
3人の新入社員、中でも東京私大の2人にとっては東京から辺鄙な所にやって来た私に親近感を持ったのだと思う。
【大蔵社長からの厚遇】
丸高木産の大蔵社長は豪気な方であった。前出の北平教授と親縁があり、その縁で私のような研修生を受け入れるようになったようだ。
土曜の夕方に私と他大学のもう2人の研修生に声がかかって、北見市の繁華街に繰り出し、学生の身分を超える飲食の接待を受けることがあった一方、私一人がご自宅に誘われたりもした。その時は「明日(日曜)はどこか行くんだろう」と言って小遣いを手渡された。研修(バイト?)報酬の10日分くらいにもなる額であった。
また慶大に行っている社長の次男が夏休みで帰郷した時には、彼から「高級ブランデーがあるから」と家に招かれ、その後北見の寿司屋に行って驚くご馳走になった。その時の店主が「店始まって以来だよ」と驚嘆したのを未だに覚えている。(現在はこの次男が社長になっているようだ)
【ジンギスカン】
今では日本中どこでもマトンのジンギスカン料理は食べられるだろうが、私は津別が初めてであった。町の郊外の河原で寮のジンギスカン・パーティーがあり、職場の酒井さんのお宅に招かれてご馳走にもなった。道産のマトンは脂がサラッとしており、臭いも無い。輸入マトンを使う内地(いわゆる北海道外)のジンギスカンとは大違いである。
滞在した津別町 約ひと月研修した丸高木産の工場