フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

初めての北海道(1966年)の追憶③津別町滞在記(その1)

2023-06-27 18:59:10 | 日記

大学3年だった1966年の7月10日に東京を発ち、翌11日生まれて初めて北海道の土を踏み、旅行をしながら15日に目的地の網走郡津別町に着いた。これから約ひと月、丸高木産工業で研修をすることになる。
尚、盲腸の手術で出遅れた相棒の元木が合流したのは8月6日、研修の終わる1週間前であった。

【津別町と丸高木産】
津別町は人口5千人程度の小さな町だったが、周囲には美幌峠、屈斜路湖、阿寒湖、摩周湖など観光スポットに恵まれたロケーションにあった。町を少し外れると牛の放牧場があったり、小高い丘に上がると甜菜糖畑が広がっていた。
一方丸高木産は北海道材を使った合板メーカーで従業員が500人ほど。町には社宅や共同浴場、更には津別病院を経営するなど、文字通り津別町の経済・産業の屋台骨であった。             

【研修】
研修は到着翌日の7月16日(土)から始まった。その内容は合板の製品倉庫での受入れ~仕分け~保管管理~出荷の一連の業務で、職人気質のベテラン酒井さんとの2人作業であった。
製品は合板いわゆるべニア板だがほとんどが輸出向けで、シナ、セン、タモ、カバなどの北海道材の高級品であった。樹種や寸法、張り合わせ枚数などにより30~40種ほどある製品を即座に見分けるところがポイントであったが、「研修」と言っても、ほぼアルバイトに近かった。

【寮生活】
独身寮は工場敷地内にあり、職場となる製品倉庫までは歩いて3分くらい。寮生は20人ほどいただろうか。朝・昼・晩の3食を食堂で食べる。食事の内容や食費負担など全く覚えていない。二階建てで、6畳間の2人部屋が与えられ、相棒の元木の参加が遅れたのでしばらくはゆったりであった。テレビやマージャンなどは娯楽室で。
寮生同士の揉め事は見られなかったが、一度ストームに襲われたことがある。酒に酔った何人かが徒党を組んで深夜の部屋に乱入して叩き起こすものであり、逆らうと大荒れになるので静かにやり過ごした。

【交流】
寮では大卒新入社員3人と仲良くなった。北海道大卒の川田さんと東京の私大卒の2人。実はたまたま私の研修初日(土曜)に母校大学から北平教授を始め助手や4年生一行が見学に訪れた。その晩の懇親会に私も招かれて泊りがけの朝帰りとなった寮でその3人と出くわし、今日これから事務所の女性達と合ハイがあるけど参加しない?と誘われたので参加させてもらった。私を含めて男4人、女生6人で小清水原生花園などを回り、その時初めてハマナスの花を見た。
3人の新入社員、中でも東京私大の2人にとっては東京から辺鄙な所にやって来た私に親近感を持ったのだと思う。

【大蔵社長からの厚遇】
丸高木産の大蔵社長は豪気な方であった。前出の北平教授と親縁があり、その縁で私のような研修生を受け入れるようになったようだ。
土曜の夕方に私と他大学のもう2人の研修生に声がかかって、北見市の繁華街に繰り出し、学生の身分を超える飲食の接待を受けることがあった一方、私一人がご自宅に誘われたりもした。その時は「明日(日曜)はどこか行くんだろう」と言って小遣いを手渡された。研修(バイト?)報酬の10日分くらいにもなる額であった。

また慶大に行っている社長の次男が夏休みで帰郷した時には、彼から「高級ブランデーがあるから」と家に招かれ、その後北見の寿司屋に行って驚くご馳走になった。その時の店主が「店始まって以来だよ」と驚嘆したのを未だに覚えている。(現在はこの次男が社長になっているようだ)

【ジンギスカン】
今では日本中どこでもマトンのジンギスカン料理は食べられるだろうが、私は津別が初めてであった。町の郊外の河原で寮のジンギスカン・パーティーがあり、職場の酒井さんのお宅に招かれてご馳走にもなった。道産のマトンは脂がサラッとしており、臭いも無い。輸入マトンを使う内地(いわゆる北海道外)のジンギスカンとは大違いである。



      滞在した津別町         約ひと月研修した丸高木産の工場

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初めての北海道(1966年)の追憶②東京から津別町への旅行

2023-06-25 14:26:27 | 日記

初めての北海道旅行は大学3年時(1966年)の夏休み。行先は網走市の南に位置する津別という町の丸高木産工業で、主に北海道産材を使った輸出用合板の工場での研修が目的であった。
出発日直前になって同行予定の元木が盲腸で入院となったが、北海道林産研究所で研修する亀岡、杉浦の2人と旭川まで同道することとなった。
旅は7月10日に上野発の寝台列車に乗るところから始まり、以降全く宿泊の予約なしの行き当たりに任せた旅行であった。

旅行の記録などは取っていないが、手元に残る学生手帳の僅かなメモと、保存してあったアルバムの写真とでかなりのことが思い出される。以下、東京を出発してから研修先の津別町到着までの思い出を辿る。

【7月10日】
高校が同じの親友3人が上野駅まで見送りをしてくれ、北海道行き同行の亀岡、杉浦と急行寝台「十和田」に乗り込んで東京を後にする。

【7月11日】
朝青森駅に着き、青函連絡船に乗り継いで夕刻函館に着。宿泊地を次の目的地の大沼国定公園に定め、公衆電話でユースホステルの予約が取れたので、時間一杯函館で過ごした。JR大沼公園駅に着いた時は夜7時過ぎで真っ暗になっていた。タクシーで着いたユースホステルで宿泊の手続きをしようとしたら「予約は受けていない」と言う。もう一軒ユースホステルがあるのだそうで、そちらに電話をして調べてくれたら、迎えの車が来てくれた。親切なものだ。その晩はユースホステル恒例の宿泊者交流会を楽しんだ。

【7月12日】
朝から3人で大沼公園を周り始めると、前日函館からの列車内で隣り合った東京の女子大生4人と出会い、大沼・小沼の周遊~洞爺湖畔散策~昭和新山など一日ずっと同行することになった。
その晩は昭和新山ホテルに泊まった記録になっているが、どんなホテルだったか全く覚えがない。

【7月13日】
壮瞥という駅から列車に乗り札幌に入る。まずは観光バスに乗って主だった見どころを周った後、今夜の宿を取るべく電話で北大の学生寮の宿泊を打診したところOKであった。宿泊手続きをして荷物を置いた後、北大キャンパス内を歩き、それから「すすき野」とか「狸小路」とか”内地”の人にも名の知られた飲食・繁華街をぶらついてサッポロビールで乾杯し夕食を摂った。(因みに北海道の人は北海道以外の日本を「内地」と呼んでいる)
宿泊した北大の学生寮「恵迪寮」は(他の大学寮と同じだろうけど)バンカラそのもので、タバコの煙むんむんの娯楽室では弊衣破帽の学生達がマージャン卓を囲んでいた。入寮の際、受付嬢から珍妙な「ゲルト・アタック」と「エッセン・マナー」について説明を受けた。両方ともドイツ語と英語の合成語で、前者は「金銭の盗難」、後者は「食堂でのマナー」であった。因みに朝食はエッセン・マナーとして前者がご飯をよそってくれ、それにバターとでんぶをまぶして、みそ汁と一緒に食べるというシンプルなものだった。

【7月14日】
札幌から列車に乗り、旭川駅で亀岡と杉浦が降りて以後は1人旅となった。その後の観光の主目的である層雲峡に行くべく上川という駅で下車、バスに乗り継いだ。壮大な峡谷に囲まれたユースホステルに飛び込みで宿泊の予約を取り、荷物を置いてレンタルの自転車で見上げるような石柱群が続く舗装道路のサイクリングに出かけた。
途中で愛知県から来たと言う3人組の女性と出会い、その後同行して大函という所で折り返した。石狩川源流の圧倒的渓谷美、ほとんど車が通らず快適な道路・・・これほど気持ちの良いサイクリングは後にも先にもない。
夜はユースホステルで宿泊者間のゲームをしていたところへ、昼間の彼女らが訪ねて来て翌日も途中まで同行することになった。

【7月15日】
この日の乗り物経路については余りはっきりしないのだが、昨日の女性3人と一緒にバスに乗って北見市に向かった。昨日の層雲峡のサイクリングコースを通り、右手遥か、頂にまだ雪が残る大雪山を見やりながら石北峠を越え、ガラガラのバスの中で彼女らと大声で談笑しながら北見駅で別れたように思う。そこから私はJRで美幌まで行き、最終目的地の津別行きのバス待ちの間、美幌駅前でパチンコで時間を潰してバスに乗った。
津別町に着いてそのままタクシーで丸高木産の事務所に向かい、挨拶をし、これから1ケ月近くの宿舎となる独身寮に案内された。

かくして「東京から津別町への旅行」が終わった。


青函連絡船で北海道入り  昭和新山に登る  札幌・北大校内のポプラ並木


層雲峡の切り立つ石柱群&その下をサイクリング


早朝 大沼公園を散歩する   この時代北海道では蒸気機関車が主力だった

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初めての北海道(1966年)の追憶 [①前書き]/世界中にミイラ取りがミイラ(遭難船探索で遭難)の衝撃

2023-06-23 22:57:42 | 日記

6月14日に『半世紀以上念願としていた利尻島・礼文島へ・・・』のタイトルで投稿したブログで、このツアーの動機について触れた。
それは大学時代に初めて北海道を旅行した時に現地の人から「北海道で一番は6月の利尻島・礼文島」と教えられたことが、その後半世紀以上念願となっていたということであった。
更に、旅行と滞在とで延べ6週間を過ごしたその北海道の体験は今でも大きな青春時代の思い出であり、「追ってブログに残したいと思う」・・・と続けたのだが、今回からそれを綴っていくこととしたい。

大学3年(1966年)の夏休み。木材応用化学科とも言うべき我がクラスでは夏休みを利用して、関係する企業や研究機関などで研修することが習いになっていた。単位が得られるわけではなかったが、経験になるしほとんどは日当も支給された。北は北海道から南は九州まで受け入れ先があった中で、私は迷うことなく北海道の木材加工会社に手を挙げた。北海道にはそれまで行ったことがなかったので、いい旅行になると考えた。
場所は網走郡津別町。ほかに2か所北海道の研修場所があり、それぞれ2名ずつの受け入れであったが、最も遠いところを選んだ。
会社は丸高木産と言い、主に北海道産材を使った輸出用合板の大手であった。
これから同じタイトルで②東京から津別町への旅行③津別での滞在記④皆で旅行をしながらの帰京・・・に分けて綴っていく。


世界中がパニックになっていた潜水艇「タイタン」の消息不明は、悲劇の決着になったようだ。
1912年、就航早々に氷山と衝突して沈没したイギリスの豪華客船「タイタニック号」。その沈没の残骸を探索・観光する潜水艇「タイタン」がこの18日に突如消息を絶ち、空・海両面からの大捜索にも拘わらず安否不明が続いて非常用酸素の96時間の期限切れが迫っていたが、結局「潜水中に水圧で押しつぶされて壊滅的な内部破壊を起した」と断定されたらしい。富豪家たちが巨額のツアー料を払って、結局ミイラ取りがミイラになって(遭難船探索で遭難して)しまったか。




 

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岸田首相解散見送り?止まぬ闇バイトの凶行?広末涼子の不倫?今度は新人自衛官が発砲殺人?超赤字大判振舞いの予算?元祖魔球王・杉下投手逝去

2023-06-18 09:55:33 | 日記

引き続きブログ更新が滞っているが、世の中は動いている。
世界の渦中の人ウクライナのゼレンスキー大統領の飛び入り参加もあって注目を集めた我が国広島でのG7サミット。人気(支持率)低調がつづいている岸田総理はその効果を絶好機として衆院解散を匂わせていたが、とうとう伝家の宝刀は抜かなかった。任期満了選挙となるのか、その前にもう一度解散総選挙の機運が生まれるのか?

「闇バイト」なる言葉が流行語にもなっている。強盗、誘拐、殺人など高額の報酬に釣られて手を染める凶行犯罪・・・いとも簡単に手を染める風潮に驚愕する。そんな闇ルートや裏情報が蔓延しているのだろうか。海外に拠点を置いて日本国内での犯罪を操っている組織が明るみに出て一部の幹部が日本の警察に引き渡されたが、組織は広く固く壊滅するにはほど遠い気がする。そういうプロの犯罪集団に釣られて多くの若者が取り込まれている社会に恐怖を感じているところである。

女優の広末涼子が炎上している。二重不倫だとか、読むもおぞましいような文書が公(おおやけ)に曝されているが、勿論本人がリークしたという売名行為でないことは明らかだ。メディアがよくそんな文書を入手できたものだと感心もする。私には全く興味のない女優だが、数多くのコマーシャルなどに起用されているなど人気は高いのだろう。人気の絶頂から奈落の底に墜落した感じだろうか。残る半生が穏やかで幸せであることを祈りたい。

最近青年による発砲・殺人事件が多発している。安倍元首相は手造りの銃に倒れ、つい先日は現役市議会議長の息子が所有する猟銃で近所の女性や警官を殺害し、この度は自衛隊の18歳の訓練生が指導教官の自衛隊員に発砲して死傷させた。3つの事件に何らの共通性もない。初めの例は某宗教により家庭が破壊したとの恨みからその宗教と関係の深い政治家を殺害、2例目は自分が馬鹿にされているとの錯誤から起きた事件、この度の事件は自衛官としての訓練の中で何かに切れて遺恨晴らしの発砲と見受ける。
銃は怖い、有無を言わせずに一瞬で命を奪う。人の一生を奪うのだ。

どこかの金融帝王が言った「異次元の金融緩和」。今度は首相が言う「異次元の少子化対策」。その他国防費予算の大幅拡大などだが、それは産業振興などで潤う税金に裏付けられたものではない。当面は日銀から借りて、その内増税で帳尻を合わせる算段である。
私は国に税金を納めるより年金で貰う方がずっと多いので、税金の使い方にあれこれ言えた立場ではないが・・・。

一昨日(17日)の新聞にプロ野球の大投手2人の訃報が載った。一人は広島カープで活躍した北別府学さん、もう一人は中日ドラゴンズの杉下茂さん。両者共に200勝投手で、最多勝や沢村賞などかくかくたる業績を残している。
私はプロ野球ファンだった少年時代の杉下投手の記憶が残る。とにかく「落ちる魔球」ことフォークボールの元祖である。ちょっと大げさな表現になるが「屋根から落ちるような球」とか「目の前で消えて無くなる」など言われた。今まで落ちる球の代表は「ドロップ」と言われた。今でいう「落ちるカーブ」であるが、その「落ちる」概念を変えるものであった。当時の大打者川上哲治選手や、間もなく入団した長嶋茂雄選手との対決などが印象に残る。


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半世紀以上念願としていた利尻島・礼文島へ、そして最果ての宗谷岬へのツアー

2023-06-14 16:47:52 | 日記

ちょっと大げさな言い方かもしれないが、私が「半世紀以上念願としていた」北海道の利尻島・礼文島、そして日本最北端の地宗谷岬へのツアーに出かけた。
全国47都道府県に行ったことがある私が、北海道へは大学時代の21歳の時が初めてであった。旅行と滞在とで延べ6週間を過ごしたそれは今でも大きな青春時代の思い出であり、追ってブログに残したいと思うのだが、その節現地の人から「北海道で一番は6月の利尻島・礼文島」と教えられた。日本列島を北上する春が同地域に到達するのと夏を迎える間の短い期間に春からの夏の花が一気に咲くからだと言う。

しかし、その後仕事や旅行で10回くらい北海道に行っているが利尻・礼文には足を運んでいなかった。今回はコロナ感染の禁足令が解けて「全国旅行支援」のキャンペーンに乗っかった3泊4日のツアーに応募したものであった。
1日目は羽田から紋別空港に降り、途中べニア原生花園などに寄りながらオホーツク海沿いの国道を稚内まで北上した。バスの車窓から見える鉛色の空や北方の樹林、そして時折姿を見せる野生のシカの愛らしい姿にツアー客の頬が緩んだ。稚内港を望むホテルにチェックイン後、まだ明かりの残る時間に日本最北の稚内駅など見て、毛ガニや珍しいミズタコのしゃぶしゃぶなどが並ぶ夕食となった。

2日目は朝の定期フェリーに乗って利尻島に渡るため、5時半起き、6時朝食、7時過ぎのフェリー乗船・・・という日程。利尻島に近づくにつれて、船内から頂にまだ雪が少し残る利尻山が海上にそびえる形で見えて来て感動する。海から上る水蒸気がすぐ雲となるため「利尻富士」と称される秀麗な山景が見えるのは幸運であったようだ。
利尻島内の絶景個所を巡った後今度は礼文島に渡り、冒頭部分でも紹介しこのツアーの最大の見所であるこの時期に咲き乱れる花を求めてのハイキングとなる。バスの添乗員のほか、花ツアーのガイドが一つ一つ花の名前などを説明して歩く、坂の多い結構きついコースであった。
このツアーの参加者の多くは天然記念物のレブンアツモリソウを始め、この島の花々を目的にしているようで、皆熱心に写真を撮って歩いた。その最大のお目当てのレブンアツモリソウの群生地はツアーバスの到着が少し遅れたが、管理ボランティアの方々の好意で入り口を開けてくれて、無事全員群生地に入ることが出来た。
しかし時期的には最盛期を過ぎ、あと1週間かそこらで一般公開は終るとの由にてラッキーなことであった。
そのほか湖や「絶海の孤島」を思わせる海岸などを見て回り、島内のホテルに投宿した。

3日目はフェリーで稚内に戻って日本最北端の地宗谷岬に向かい、遠く旧樺太(現在ロシア領土のサハリン)を望むも残念ながら海上は薄いモヤがかかって肉眼では見えなかった。続く4日目と合わせて、行程は省略するが車窓からの光景は何とも雄大であり、のどかであり、本州では全く見られないような、心穏やかになるものがあった。
また、4日間の食事は朝のバイキングを除いて、毛ガニやタラバ等のカニやエビ類、ウニ、ホタテ等北海道外では考えられないボリュームで、60代70代の我々客層では持て余すほどであった。


  「洋上の富士」利尻山          礼文島 花のツアー


天然記念物・レブンアツモリソウの群生        日本最北端の地・宗谷岬


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