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フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

[日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#71-第三ステージ始まる

2025-04-30 18:42:43 | 日記

   テキスト作りに追われた夏休みであったが、8月30日の月曜から経貿学院の新学期(=新学年)が始まり、私は次の週からの授業というつもりで9月3日の金曜に日本を発った。成田空港では、行先の青島の天候が悪く成田に引き返す可能性があるとアナウンスが流れていたが、40分遅れ程度で青島に無事着陸した。
   空港には私の指名で新3年生のダイ・フェイフェイとキョウ・エイノウの2人が迎えに出ていた。この2人はこれからの3ケ月のクラス運営のキーパーソン(盛り上げ役)となってもらうべく指名したものである。
   青島からはこれに急遽相棒のモリキさんも同乗することになった。前々日に着くはずの船が欠航したため同じ日に青島に着くことになったのだ。広島出身の彼は下関からの船の方が便利なのである。青島の国際港は道が分かりにくいらしく青島市内に余り詳しくない運転手が手間取っていたが、無事合流して2ケ月ぶりに濰坊に戻った。本来なら出迎えの2人にはモリキさんと慰労の食事をしてあげるべきところだったが、ケイ・ショウロから悩み事があるので濰坊に着いたら相談に乗ってほしいとのメールをもらっていたので、宿舎に着くとすぐケイさんに来てもらい、進路その他の悩み相談を受けた。
   その日はそれで終わり、 翌日は朝から新3年のイ・カカ、ウ・ヘイらの4人グループが来て部屋の大掃除をしてくれた。夏休みの帰国前に約束をしていたのである。きれいに掃除をしたところでキッチンで食事をつくってもらい一緒に昼食をした。その後日本語科主任のバオ先生らに濰坊に戻った挨拶の電話をしたところ、私の授業はその次の週からとの話であった。さらには(この時に聞いたのかどうか忘れたが)これまで人数的に2班に分けていた新3年生は本科班と名無しの班の2つに分けると言う。本科というのは4年制大学のことで、4年制への進学志望者が本科班。そうでない(つまり就職や研修生志望の)学生のグループには特に班の名前がないので私は勝手に「普通班」と名づけた。
   その後、このどちらでもない3年生がいることが分かった。既に日本へ研修生として行っていたり研修生になるための訓練機関に入っている者、市内のデパートなどで実習生として職業訓練を受けている者などで、後の授業単位は免除されて来年卒業になるらしい。授業が始まってようやく分かったのが、本科班20人、普通班16人であり、残る17人が”その他”で授業には出て来ない学生数であった。
   ところで新学年から女性のホウ先生が日本語科教師陣に加わった。ホウ先生は4年制大学で日本語を専攻したが新人で日本滞在等の経験もなく、日本語の発音に不安があるということで、途中から新2年生の会話の授業のアシストを頼まれた。こうして3年生本科班1コマ、同普通班2コマ、助っ人で2年生の1コマ、計1週4コマで私の第三ステージが始まった。

        
空港に出迎えのキョウさん(左)とダイさん(右)/ 2ケ月間留守にしていた宿舎の大掃除をしてもらう

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[日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#70-テキスト作りに追われた夏休み

2025-04-28 18:05:10 | 日記

   7月5日(2010年)に一時帰国をして約2ヶ月間の夏休みとなった。当時の手帳の日誌に目を通してみると、地域でのコミュニティ活動に復したり、孫・子たちと夏休みの家族旅行に行ったり、仲間と飲み会を開いて中国談義に花を咲かせたりしたことになっているが、頭の中では新学期からの講義の資料作りに追われたという思い出しかなかった。後は休み中の学生たちとのメールやチャットのやり取りがメインという記憶である。
   新学期(=新学年)の授業については私の希望に任せられ、3年生(これまでの2年生)に対して日本の文化について講義することとしていたが、イメージはあったものの資料は全くゼロからの出発であった。
   この1年間、教室の内外で教科書を離れて日本の遊びや着物などを紹介して来たが、更なる中国人学生の関心事なども踏まえて 『日本の伝統・文化』というような教材を作ろうと思った。。「伝統と文化」にすると「伝統」と「文化」は別物という感じがするが「伝統・文化」とすることでそれらが混然一体のニュアンスが生まれると考えた。
    資料づくりのため市内の図書館に通って参考になる図書を探し、そして借りまくった。 夏休みかけて何とかA4版34ページのオリジナルのテキストを作成、それに写真やイラストなどを別途用意した。本来なら写真・イラストなどは本文中の図や挿絵として添えたかったのだが、ページ数が膨らむし、学生に配布するにもカラー印刷が必要になるため、それらは一式だけ準備して授業の時に見せて説明することにした。欲を言えばそれらを全てDVDとかメモリーカードに収録して、視聴覚室のプロジェクターで見せたかったのだが、残念ながら私はそういうITスキルが乏しい上に時間もなかった。
   内容としては大項目として【Ⅰ概説】【Ⅱ暦と干支】【Ⅲ年中行事と風物】【Ⅳ伝統的な遊び】【Ⅴ食文化】【Ⅵ着物(和服)】【Ⅶ芸術・芸能】【Ⅷ武道】の構成で、更にそれぞれ中項目、小項目を設けた。中国人学生の興味を引き理解しやすくするため、なるべく中国の歴史や文化との関連性を示すように心がけた。
   これでようやく講義の目処が立ち、自信も持てるようになった。

                        
     作成したテキスト(中央)と集めた写真やイラストなど    

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[日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#69-ケイさん・ヨウさんに送られ帰国の途へ

2025-04-26 18:19:39 | 日記

   7月5日、帰国の日を迎えた。本来なら任期満了で本帰国のはずであったが、9月からさらに3ケ月間の延長契約により夏休みの一時帰国ということになった。学校の用意してくれた青島空港までの送迎車にはケイ・ショウロとヨウ・ハイジエの2人の同行を指名させてもらった。
   この滞在記に再々登場した2人だが、改めて紹介してみたい。
   経貿学院は全寮制で概ね同じ学部学科同士で部屋割りされていたが、2人とも別の学科の学生の中での一人ぼっちであったことや、郷里が山東省の内陸部の田舎出身であったことなどから仲良しになったと言う。性格はケイさんが自立的でリーダーシップがあり、一方のヨウさんは他力本願的で従順なところも相性がマッチしたようだ。私の宿舎には大概同室のルームメイトが揃ってやって来たがケイさんとヨウさんはほとんどその2人で遊びに来た。2人がいつも一緒にいるため、こちらも連絡が取りやすく話が即決するので具合がよかった。  
  
ヨウさんはケイさんに頼りっきりで、ケイさんはそれを姉か母親のように引っ張っていた。それでいてケンカらしいことは全くと言っていいほど無かった。2人とも似た背格好で、ケイさんは利発そうな可愛らしさ、ヨウさんは天真爛漫な可愛らしさがあった。
   私の授業の試験についてはそのやり方などを前に書いたが、総合成績で2人は奇しくも学年の同点トップ6人の中にいた。2人の違いをもう少し続けると、ケイさんは好奇心旺盛にして根気強く、運動能力も高い。一方ヨウさんは淡白で反骨心が無くおおらかであり、体力面では弱い。そのため私と3人で 泰山に登った時はケイさんは私よりずっとタフであったし、逆にヨウさんはバテバテであった。
   そんな2人と無事青島空港に着き、これでバイバイと言う時になって2人は泣き出してしまった。また2ケ月後には戻って来るというのに・・・。成田から夕食の時間ごろに家に着いたが、三鷹ではその前に集中豪雨があったことを聞いた。私の方は一滴の雨にも遭っていなかった。


             
帰国直前の2人と(左ケイさん、右ヨウさん)/青島空港国際線出発口 ここから日本へ

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[日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#68-1年生最後の授業 

2025-04-24 18:10:23 | 日記

   6月の末の2日間にわたる口答及び筆記試験により1年生の期末試験を終えた。試験を終えて最後の授業7月2日は出席自由とし、みんなで教室で遊ぶことにした。
   勿論私は日本から持ってきていた遊び道具を使って遊ぼうと考えていたのだ。出席者は半分くらい(24,5人)だったろうか。私が用意したのはケン玉、ヨーヨー、ダルマ落し、「ガリガリとんぼ」(後注)、お手玉などであった。今回これをまとめるまでそれらの遊びから入って行ったと記憶していたのだが、写真ファイルに残っている時刻を見ると違っていた。始めにカン・フィフィが歌を唄い、続いてリー・エンエンが当時習っていた得意のダンスを披露した。中国伝統の踊りではなく、モダンダンスのようなものだった。さらにソン・ソバイとオウ・サンがデュエットで唄い、さながら学芸会かかくし芸大会の趣で始まっていたのである。
   その後次々と教壇の机の上でダルマ落しに挑戦、ヨーヨーなどにも興じた。ダルマ落しは簡単のようでいて途中で崩れることが多く、それが悔しくて何度もやり直す者が多い。「ガリガリとんぼ」というのは本当の名を知らなかったのだが、今回ネットで検索して知った。下段右の写真のように「竹とんぼ」に似ているがプロペラは芯棒の先に止められて回転するようになっている構造。芯棒にはキザギザの凹凸が刻んであり、右手の棒でそれをこすると振動でプロペラが回る仕掛けになっている。但しむやみやたらにガリガリこすってもダメで、ほどよい加減が必要であり、それだけにプロペラが回ったら「やった!」という気分になる。
   ケン玉もお馴染みの遊びになった。ただし大皿に球を乗せるのが精一杯で、大皿からさらに中皿に移し変えられたら喝采、というところである。最後の方で、日本の1円玉から500円玉までの硬貨のセットをプレゼントするじゃんけん大会をやって大盛り上がりになったところで、教室では1年生とお別れになった。(9月からの3ケ月間での個人的交流は残されているが)

  
カン・フィフィの独唱/リー・エンエン得意の踊りソン/ソバイとオウ・サンのヂュエット    

   
     ダルマ落しやヨーヨー、ガリガリとんぼに興ずる

  
 ケン玉競技   ジャンケンで日本の硬貨セットを争う  ガリガリとんぼ

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 [日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#67-日本人仲間の行方

2025-04-22 18:57:53 | 日記

    私は間もなく経貿学院の1年の任期を終えて帰国をするところであったが、9月からあと3カ月延長することになった。では他の日本人仲間はどうであったろうか。濰坊には日本人の交流会が2つあって、一つは私が来る前から元々あったもので日本企業の現地会社の責任者クラスを中心として我々のような日本語教師も加わっていたもの。毎月1回土曜日に日本料理店で開催されていた。
   その中のメンバーで濰坊の”日本人界”の元締め気取りのサトウ氏を嫌ったモリキさんらが呼びかけて現地の日本語教師を主体にした集まりができた。肩書きの多いサトウ氏も一応日本語教師なのだが、同氏を外し一方では日本人だけに限定せず市内の日本語学校の校長や日本などに研修生を送り出す会社の幹部らの中国人にも声を掛けて濰坊市での日中親睦の趣きとなった。 
   前者の会では日系企業の人事異動には全く関心を持たなかったが、後者の集まりではお互いの動静が分かった。経貿学院の相棒モリキさんは始めから継続を希望しており希望が通りになった。私と一緒に来華し潍坊学院で教鞭を執った知人のT.シゲルさんは予定の1年だけで帰国をする。同学院の女性教師クドウさんは本人の継続希望が叶わず後任が日本から来ることになった。
    山東科技学院の4人の内、フカマチ氏とカワサキ女史は2年目に入ることになった。イケダさんは残留できなかったが日本帰国の意志はなく、他の地方での大学で仕事を見つけたと聞いた。もう1人がサトウ氏。彼は私が1年で帰国すると聞き及び、私は呼ばれてその後任としてぜひ学校に頼んで欲しいと懇願された。彼は肩書きだけはいろいろあったが、日本語教師以外に安定した仕事がないのが実情だったのだ。帰りには腰を90度に曲げ、まさに平身低頭で私をエレベーターに見送った。私は学校(応用外語学部のソン事務主任)にそのことを伝えたが、モリキさんも交えた3者会談で勿論お断りすることにした。それを聞いた科技学院の同僚教師の一人が「妥当な判断ですね」と言い切った。そんな人望であったのだ。こうして6月下旬にシゲルさん、イケダさん、クドウ女史の送別会が行われた。

                          
集合写真は以前載せたことがあるもので送別会の時とは違うが、前列左からモリキさん、クドウ女史、フカマチ氏、私、シゲルさん。後列左から3人目がイケダさん、その右がカワサキ女史。右の小さな写真はサトウ氏

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