フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

状況変転-イスラム国人質事件

2015-01-30 10:42:40 | 日記

   予断を許さない、とはこのことだろうか。このブログがアップされた後に急転直下の事態が待っているのかもしれないが、”イスラム国”による日本人人質事件が表面化してから事態は変転し続けている。2人の人質と交換に莫大な身代金の要求→1人を殺害し残る1人とヨルダンで死刑判決を受けたイスラム国人テロリストの釈放要求→ヨルダン人パイロット解放をチラつかせての死刑囚解放要求・・・その都度期限も変わって来ている。人質の命はどうなるのか、その交換条件とな何か 、イスラム国の真の狙いはどこにあるのか、ヨルダン政府はどう対応するのか等、まあテレビはどのチャンネルを回しても識者やら関係者の解説を交えて報道合戦を繰り広げている。
   「地球よりも重い人1人の命」であるのだが、責任感の強い当の後藤健二さんにはこれほどの屈辱と悔悟はないであろう。本人の気持ちと全く反するイスラム国のメッセージを自分の口から世界に訴えさせられているからだ。後藤さんの人柄や活躍が伝えられるにつけ心から無事救出を願うが、当のご本人は別の感覚に陥っているのではないかと憶測する。「万死に値する」と。だから救出後は英雄視しない方がいい。紛争地で見たものについてジャーナリストおよびいち人間としての冷静な報告を受けるにとどめよう。

   今日は朝からの雪である。出かける家内を駅まで車で送って行く8時前、車は既に屋根やらフロントグラスに雪が積もっていた。午後から小学校の見守り当番なのだが、暖房も何もない場所でのお役目でありしっかり身支度して出かけることにしたい。

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#19-お腹をこわし病院へ

   この一件は昨年の6月投稿のブログに「中国での病院体験」として載せたことがあるので、その焼き直しということになるのだが、改めて「滞在記」に書き留めておくことにしたい。

   経貿学院に着任して2週間ほどした頃お腹をこわして2日間下痢が続き、その後もしばらくお腹の具合がよくなかった。それまで海外に20ケ国ほど行ったことがあるし、特に前年は北京に3カ月滞在していたけれど、一度も食あたりや水あたりをしたことはなかったのだが・・・。
   同僚のモリキさんとはいつも朝・昼の食事が一緒なのでその時に話をしたのだと思うが、モリキさんが中国人の先生にも伝えたようで、チョウ先生が病院に連れて行ってくれることになった。行ったのは市内にある「人民病院」。日本の大病院にも引けを取らない規模の外来病棟と入院病棟があった。大きなホテルのロビーのような外来病棟の吹き抜けのエントランスからエスカレーターで上がって受付へ。症状を伝えると受診科名を指示され、まずそこで診察料を払う。チョウ先生に導かれて診察室の前に着いたが、廊下には順番待ちのためのソファーとか椅子がない。ドアが開いている診察室を覗くと患者が5,6人入っていて、医師の机の前に陣取っている。部屋の外で名前を呼ばれるのを待っているのではなく、我先きに入って順番を争っているのである。私もその列に並び、割り込まれないように踏ん張った。続いて驚いたのは、順番待ちの患者の前で医師が診察をしているのだ。さすがに衣類を脱いでの診察はカーテンで仕切ったベッドの上で行うが、医師と患者の対話は筒抜け。そしてまた順番待ち患者の前で診断結果を聞くのである。全く患者のプライバシーなどは無い。結局私の診断結果は「旅行者胃腸炎」、つまり中国の水に慣れていないことによる腹こわしということで、院内薬局で2種類の薬をもらった。この時の診察料は日本円で150円くらいでベラボーに安く、薬代の方は400円くらいだったと記憶する。幸いお腹の調子もよくなり、その後は一度もお腹をこわすことはなかった。

【写真説明】  左:外来病棟の前に相対して立っている入院病棟。どちらも大そう大きい「人民病院」  中:外来棟の吹き抜けのエントランス  右:院内は清潔で廊下もピカピカ。こんな光景、中国では極めて珍しい

   
            

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待望のフクジュソウが一輪/卑劣な「イスラム国」/再び「だいじょうぶ」について 

2015-01-27 13:41:28 | 日記

   「やったー!」という感じだ。今日神代植物園でたった一輪だがフクジュソウ(福寿草)が咲いているのを見つけた(写真下左)。私の待望する「早春の使者」である。2,3株ほど芽を出して開花近いものがあったが、他はまだ地中である。例年、1月末あたりに凍てついたような土の中から頭を出して、そして黄金色の花を咲かせるフクジュソウを見つけると私は胸が躍るのだ。最盛期には200株近い花を咲かせる・・・と紹介するつもりで確認のため福寿草園の案内立札を見たら「1万芽ほどの花の群落云々」と書いてあった。 幾ら何でもそれはないだろう。これから3,4週間後にその最盛期を迎えることになるが、群落よりも土の中からやっと出て来て冬の殻を破るようなフクジュソウは黄金色と相まって凛とした輝きを放つ。  
   梅林では早咲き種の「冬至」と「白難波」が10日前に比べれば開花が進んだものの、全体としては”春未だし”というところであった。 

      
    待望のフクジュソウ一輪          ウメの白難波 10日前→今日

   帰趨がはっきりしないのですぐには取り上げなかった「イスラム国」による邦人人質事件。それにしても卑劣な『国家』だ。ただ、以前にも紛争地で日本人が人質になったり殺害された時には、「無謀」とか「軽率すぎる」という非難の声が湧き起こった。 今回も機関や会社の業務に従ったものではなく、身の危険を承知で単身で紛争地に入っている。逆にいうと身の危険を仕事にしているのだ。明らかに「自己責任」と思う。しかし一旦命に係わる事件に巻き込まれたらそれでは済まない。国内の世論も世界の目も人命第一となる。かくして国政もそれに勢力を費やされることになるのだ。「人の命は地球より重い」とはよく言われるが、それを盾にとる暴虐は今後ともなくならないだろうと考える。

    前号で若者ことば「だいじょうぶ」に対する違和感の投書について取り上げたが、その翌日の同じ『声』の欄に2件の投書が掲載された。それによると、「大丈夫」は相手の感情を害さないように遠まわしに拒否する言葉のようだ。私がこういう若者ことばは「表現力や語彙の欠落・未発達なのか、特定の世界やカルチャーの仲間意識の発揚なのか、はたまた既存の言葉では表せない微妙なニュアンスの表現なのだろうか」と書いたが、どうも3つめに相当する用法と理解した。

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#18-中秋節、1年生のパーティーに招かれる 

   前号に載せた黒潮会メンバー一行が北京に向けて発った10月3日の晩は1年生の中秋節のパーティーに招かれた。日本では「中秋の名月」を他の満月とは区別して尊んでいるが、それ以外行事としてはほとんど廃れているように思う。呑兵衛の間で”月見酒”が飲まれるくらいだろうか。中国ではこの日は家族などの親しい人達と食事を囲む習慣があるという。また日本でも売っている月餅は中秋節の定番の食べ物であり、その餡の種類は実に豊富である。私も学校から一箱贈られたほか、市内にできた知り合いからもいただいたりしてとても食べ切れず、大半は後で学生たちに食べてもらった。
   さて、この日学校内ではクラスによって教室などでパーティーを催していて、日本語科では新入の1年生が開くとのことで受け持ちのモリキさんから声がかかった。モリキさんが私の部屋に1年生を連れて来てくれたけれど、私の方はタケシ君を除いてまだほとんど顔と名前は分からなかったので、少し顔を覚える機会になった。写真の通り参加者は男子はわずかで女子学生ばかり。パーティーでは歌の披露などのほかディスコのようなダンスで賑わった。私も誘い込まれてダンスの輪に加わりまずは喜ばれた。

    
   1年生と交流     教壇にダンス・リーダーが  盛り上がったダンス    私も誘い込まれて・・・

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白鵬33回目の優勝/「だいじょうぶ」?? 

2015-01-24 18:07:04 | 日記

   横綱白鵬が大鵬を抜く通算33回の最多優勝を達成した。 大相撲初場所は昨日13日目にして早々に白鵬が優勝を決め、これで5場所連続で千代の富士の31回、大鵬の32回の歴代記録を一気に追いつき抜き去った。前にも触れたことがあるが、千代の富士や大鵬の時代とは優勝を争うライバルの存在などの条件は違うものの横綱になってからの8年間は他の力士から図抜けており、中日8日目での全勝ターンや初日から10連勝の回数など横綱としての安定感を示す数字は圧倒的である。それにつけて他の横綱や大関は不甲斐ないことこの上なく、野球賭博や暴力事件などで存続すら危うかった大相撲に白鵬がいなかったら一体どうなっていたのだろうかと思うと、単に優勝回数だけではない白鵬の存在の大きさを称えるしかない。

 先日、朝日新聞の『声』欄に、若者が使う「だいじょうぶ」の言葉に違和感があるとの投書があり、それに同感の意見も寄せられた。私自身は出遭ったことはないのだが、「いいえ、必要ないです」「お構いなく」という意味なのだろうか。若者ことばは流行り廃りを繰り返して来たが、現在では「ヤバイ」がよく聞かれる。テレビでは食べ物や景観などに対して感動を表す時にタレントなどからも普通に発せられる。私はある花火大会で大きな花火が上がる度に周りから若い人の「ヤバイ!」の声が連発されるのを聞いて知ったのだが、それが今や日常的なことになった。いつまで続くのやら分からないが、こうした若者ことばって何なのだろうか。表現力や語彙の欠落・未発達なのか、特定の世界やカルチャーの仲間意識の発揚なのか、はたまた既存の言葉では表せない微妙なニュアンスの表現の創造なのだろうか。

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#17-黒潮訪中団やって来る

   「黒潮会」という私の会社時代のOB仲間の飲み会がある。毎月最終木曜日に新宿の「黒潮」という居酒屋に集まって飲むのでそう呼んでいるのだが、その内の3人が私の慰問を兼ねて中国旅行にやって来た。青島観光から私の住む濰坊市へ、それから北京に行って観光をするというものであった。
   10月1日に青島着で、10月1日といえば中国の建国記念日にあたる「国慶節」である。その前後は会社も学校も中国の正月「春節」に次ぐ大型連休になるので、私の休みを考えて日を選んだようだ。季節的にも旅行の絶好シーズンであるし。ところがどういう訳か、経貿学院の休みは1日だけであった。前年の実験学校では7日間、そして後のことになるが翌年の経貿学院は6日の休みであった。
   まあとにかくその10月1日は2年の女学生ヨウ・レイサが高速バスで2時間ほどの青島空港まで同行してくれて、無事一行3人を迎えた。それからは旅行団が雇った女性ガイドの案内で一緒に青島の観光スポットを巡り、夜は専門店の海鮮料理に舌鼓を打ち、私も一行と同じホテルに泊まった。翌2日ガイドと共に新幹線で濰坊市に移動し、経貿学院の中を案内したり、私が調べたておいた日本軍基地跡地(日清戦争の折、日本軍が山東省に侵攻しそこに駐屯基地を設けた)などを訪ねた。上述したように休日は一日のみ、私は途中から授業に戻った後また夜の部に付き添って夕食に案内した。食事は一行の希望した”中国での日本料理”。市内で格式一番のホテルの日本料理店に案内したが、寿司、天ぷらなど完璧な日本料理で一行は感嘆していた。私も下調べしていたものの実際に食べるのは初めてで、こんな地方都市でこんな料理が出されるとは思っていなかった。勢いに乗って腹こなしにカラオケへ。私は着任してひと月ちょっとのことでまだカラオケに入ったことはなかったので、当地での知り合いに聞いて行った。
   一行は濰坊市が想像したよりずっと大きな都市であり、私も元気であることに安心して翌3日新幹線で北京に向けて発って行った。


       国慶節の日に青島を観光       新幹線で濰坊市へ  濰坊の高層ホテル前と夜のカラオケで

 

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民主党党首選/アラフォーの活躍/水族館でマグロ大量死 

2015-01-21 09:33:41 | 日記

   18日に行われた民主党党首選は細野氏との決戦投票で岡田克也氏が選ばれた。11年ぶりの党首返り咲きである。私は最も堅い選択であったと思うのだが、それにしても1回目の投票で党員・サポーターの投票率は46.21%という。党員・サポーターと言えば、浮動層や無関心層ではない。その投票率が50%にも満たないという、これはどうしたことか。党首選に対する党員の関心がそんなものなのか、何か去勢されてしまった民主党の姿が見える気がした。

   昨日20日の朝日新聞スポーツ欄に大リーグレッドソックスの上原浩治投手と同ヤンキースをフリーエージェントになったイチロー選手それぞれの記事が出ていた。現在上原投手はチームの抑えの絶対的エース、一方イチロー選手はピークを過ぎたというもののまだ打撃・守備・走塁に秀でた実力には高い評価がある。上原投手は間もなく40歳になり、イチロー選手は今41歳、いわゆるアラフォー(約40歳)世代である。この日の記事にはないが、先般ヤンキースから日本のプロ野球の広島に里帰りを決めた黒田博樹投手も39歳のアラフォーだ。大リーグで5年連続2桁勝利中で、19億円というヤンキースのオファーを蹴って4億円の広島に復帰したことが大きな話題になった。野球以外に目を転じてもスキージャンプ界の『レジェンド』こと葛西紀明選手が42歳、大相撲の旭天鵬が40歳など、肉体的にはピークを越えているこの世代の活躍に私は夢と感動をもらっている。

   葛西臨海水族園で看板の群泳のマグロなどが先月から水槽で大量死して話題になっている。マグロやカツオなどの魚は去年12月の時点で165匹だったが、20日夕方の時点で残っているのはマグロ3匹とハガツオ4匹の7匹のみといい全滅寸前という。原因はずっと分からないとされていたが、今朝の新聞には「マグロの死体からウィルスが検出された」とあった。それが死因かどうかはまだ特定されていないようだ。
   私もこれまで2度行ったことがあるが、たくさんのマグロが高速で泳ぐ姿は大変迫力があった。                

        ←写真は中国人研修生を案内した時のもの。


[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#16-公園で尺八デビュー

    本連載#3に書いたが、北京では広場などで市民が集って楽しんでいたので、自分もそんな輪の中に仲間入り出来たらと思い和楽器の尺八を持って来ていた。しかし北京と違って濰坊市ではそんな光景は全くなかった。それでも公園などで吹奏していれば物珍しそうに寄ってくる現地の人たちと交流ができそうだと思い、授業のない空き時間に”青空演奏”を試みた。日本なら同好の人もいるので下手な腕前は見せられないが、こちらでは上手い下手はまず分からないだろうから、日本でよりは気楽である。 初めは9月の下旬、学校の近くにある広い公園に出かけた。まだ日差しも強かったので木陰で一人吹奏していたら案の定、珍しそうに人が寄って来た。最初は親子(母娘)連れで、私が筆談用に持っていた小さなホワイトボードに「よい音色ですね。娘が気に入ったようです」という意味のことを書いてくれた。それからしばらくして学生らしいグループが遠巻きに見ていたので、手招きしたらそばに寄って来た。何曲か吹いたら「さくらさくら」の曲を知ってると言う。日本を舞台にした人気テレビドラマで聞いたことがあると言っていた。
   また5,6日して同じ公園の別の場所で吹いてみた。やはり、通りかかった学生らしき5人連れが興味深そうに寄って来た。彼らにも試しに吹いてもらったりして打ち解けたら、何と経貿学院の英語科の学生と分かった。写真を撮るなどひと時を楽しく過ごした後、代表して1人の女子学生の携帯番号を教えてもらい、後日出来上がった写真を大学内で手渡した。その後彼女らは私の部屋に時々遊びに来るようになった。さらにこんな公園での出遭いがあったり、遠くから眺めるだけで誰も寄って来ない日もあった。 尺八はこのほか私の教え子たちとの交流のツールにもなった。
  

写真上:公園のあちこちで通りががりの若者たちと交流。後から思えば皆経貿学院の学生だったようだ。
写真下:こちらは英語学科の学生であった。仲良くなり、その後私の部屋に遊びに来るようにもなった。

      
         

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阪神大震災から20年/神代植物園・春の先駆けたち

2015-01-18 16:55:43 | 日記

   昨日17日は阪神淡路大震災から20年の節目の記念日。新聞やテレビで多くの関連報道がなされ、当日は兵庫県内の各地で追悼行事が行われた。死者が6千人を越え、全半壊した家屋が25万戸という大災害であり、遺族や被災者たちの心の傷がまだ深く残されている。官民挙げての復興が成し遂げられて来たが、甚大な火災被害を招いた神戸市長田地区は見事な近代的市街として生まれ変わったかに見えるものの、その商店街がシャッター通りに変じているという報道もあった。復興について街の建造というハード面と住民の日常生活というソフト面のズレが生じているような気がした。 
   話転じて東日本大震災の復興は原発事故も含めてさらに一層の困難が伴うこと必定と思われる。

   うららかな天気に誘われて今日午後から神代植物園に行き、春の先駆けの花を目当てに歩いた。梅林は早咲き種の冬至白難波がほぼ昨年並みにチラホラ開花していたが、全体としては満開を100として1~2程度の状況。ロウバイ(素心蝋梅)がほぼ満開、昨年は全く精彩がなかったが今年は見られる状態になっていた。しかし、9日にアップした民家の見事なロウバイには比べると見劣りがする。椿園ではツバキ(椿)ワビスケ(侘助)が咲き進み、カンツバキ(寒椿)サザンカ(山茶花)はピークを過ぎた。私が早春の使者ナンバーワンと待望するフクジュソウ(福寿草)はまだ影も形も見えなかった。

      
          ウメ:冬至             ウメ:白難波           ロウバイ(素心蝋梅)

   
     ツバキ(椿)       ワビスケ(侘助)       カンツバキ(寒椿)    サザンカ(山茶花) 

    

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#15-私の宿舎

   私の滞在する宿舎はキャンパス内にある教職員用マンションの一室であることは既に紹介した。マンションにはエレベーターがなく、私の年齢(学内で断トツの最高齢)を考えてか6階建ての1階角部屋を与えてくれたが、部屋は1LK+サンルームで45㎡ほど。サンルームとは日本のベランダに代り物干しなどに使う日当たりのよい部屋だ。契約書に謳ってあるように電化品やキッチン器具はほとんど揃っており、テレビもソファーセットもベッドもまだビニールが被った新品であった。固定電話も引かれていて、インターネットもケーブルLANで接続。テレビはケーブルテレビでチャンネルは100くらいあった。防災上、電磁調理器や太陽熱温水シャワーなどでガスは使わない。日本への国際電話をかけなければ、宿舎費用は一切ただであった。
   北京の実験学校に着いた時、寮の部屋には机とベッドがあっただけで他に何もなく「ここで3ケ月生活しろと言うの?」と愕然としたものだが、それに比べて何という違いよう。とにかく設備も居心地も文句はなかった。おまけに教室まで2,3分、学内のスーパーまで3,4分、学生食堂や教職員食堂まで6,7分と生活圏は10分以内なのである。
   ガラス窓は大きく日当たりが良かった。1階2階の部屋の窓には鉄製の柵がはめられていて外部からの侵入を防ぎ、部屋を訪ねるにはインタホンで階段入口のロックを解除し、それから玄関のチャイムでドアを開錠する等のセキュリティーもしっかりしていた。

【写真説明】 上の左2枚はリビングのソファーセットとテレビ。訪ねて来る学生たちとここで語らい、食事もできる。 右2枚は寝室の机とベッド。カラーマットはヨガの練習のために自分で敷いたもの。日当たりがよく居心地がよかった。  下左はリビング内のスペースで、ちょっとした遊びもできる。 右はキッチンで数人で料理ができる。学生たちがよく料理を作ってくれた。

      
             

  

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