7月10日に東京を発って、途中北海道旅行をしながら研修先の丸高木産工業がある網走郡津別町に15日到着。翌16日から始まった研修が8月14日に無事終了した。
15日には予ての打合せ通り、行きの旅行で旭川まで同行し林業研究所で研修していた上山と杉浦、それに旭川より少し北の天白川木材で研修していた中畑が津別町で合流し、遅れて丸高木産での研修に入った元木を含めて総勢5人で東京までの寄り道旅行を始めた。
なお、天白川木材で中畑と一緒に研修していた川桐というのが一人帰京したが、モテモテの彼は彼女から急いで帰ってと言われたんだろう・・・とされた。
帰りの旅程も予約なしのその時任せだったが、一日だけ予定があった。18日の晩は苫小牧市の木材加工大手山倉組のお世話になることになっていたのだが、これがまた余談を生むことになる。
研修先の大蔵社長に研修終了のお礼の挨拶に伺った際「盆の休みで込み合うかもしれない。これ、何かの足しに使いなさい」と、中堅社員の給料くらいの「寸志」を手渡された。それは私が預かり、共通の宿泊交通費に充てることにした。
【15日】
朝、丸高木産の門の前で全員集合。天気は快晴だが、東京とは違って秋の気配を感じた。
阿寒国立公園を巡るバスを利用して釧北峠~阿寒湖~摩周湖などを回りながら弟子屈温泉に宿を取る。途中阿寒湖までは寮母の娘さんで丸高の社員でもある加世さんが同行。バスの中で話を交わし、阿寒湖では一緒にボートに乗る中で、社内で仲良しの名前を挙げて「大事にしてあげてね」と小声で言った。忘れがたい言葉ではあった。
その日の摩周湖は濃霧で姿が全く見えなかった。前報に書いたが私はそれまでの2回、いずれも晴れて神秘的で美しい摩周湖を見ているのだが、今回同行の中畑は自他共に認める「雨男」であり、その神髄を発揮した感じであった。
【16日】
弟子屈温泉を発ち国鉄(当時)とバスを乗り継ぎ、根室に向かった。途中の車窓からは霧雨に煙る根釧原野や尾岱沼などの荒涼とした景色が見える。根室市に入り、バスで根室半島の先端納沙布岬まで行って戻り、根室市内に宿を取る。
夜遅く友と大浴場に入っていると、仕事が終わった仲居さん(50歳前後?)が入って来て、スッポンポンのまま「内地の学生さんかい?」と近づいて来たのにはドギマギした。
【17日】
根室~釧路~帯広と国鉄を乗り継ぎ、バスで襟裳岬に向かう。こちらも霧が深く、その為なのか頻りに岬の灯台から霧笛の音が聞こえた。
「襟裳観光ホテル」という名前は立派なところに泊まる。旅行客で賑わい、我々は大広間での宿泊となった。アルバムに「¥4000」という領収書が貼ってあった。一人ではない、5人分である。夕食は「イカの酢の物、イカ刺し、イカの煮つけ等々」とイカづくしであったことがメモってあった。
【18日】
この日は前書した様に、苫小牧市まで行って山倉組のお世話になる日であったが、台風が接近して来ていた。襟裳岬から様似というところでバスを乗り継いだ時点で国鉄は不通となり、国道も通行困難となった。山倉組に連絡するとその先の新冠(ニイカップと読む)まで行けば山倉組のハウスがあると言う。どうやって行ったか覚えていないが、とにかく新冠で宿泊した。この町や近くの静内は競走馬生産地で有名な場所であった。
【19日】
国鉄が復旧して一日遅れで苫小牧に辿り着き、山倉組のお世話になる。大学の先輩に案内されて夜の市内を歩いたが、丁度苫小牧港の港祭りが行われていた。
【20日】
元々ちゃんとした旅程があったわけでもないのだが、苫小牧からは支笏湖に行く予定だったので一日遅れで支笏湖を観光。それから長万部~函館~青函連絡船~青森~帰京という段取りにしたものの、青函連絡船も欠航だったりして(はっきりした記録も記憶もないのだが)シドロモドロで21日に帰京するということになった。締まりのない旅のフィナーレではある。
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皆揃っていざ帰京の旅へ 根室半島・納沙布岬 霧笛が鳴っていた襟裳岬灯台
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襟裳岬の荒々しい岸壁 北海道旅行最後の観光となった 支笏湖